●実ははっきりわかっていないのですが・・・
平成17年、ようやくエポック社が、同社ゲーム機の公式な販売数を発表しました。しかし、ゲームの販売台数は、よほど売れたもの以外は基本的に社外秘なので、正確な実数はなかなかわかりません。出典先を確認した上で、あなたが必要なデータを利用してください。
資料館では引き続き、正しい理解につながるデータを調べ、発表していきたいと思います。
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- エポック社のテレビゲーム販売数(含む'80年代マシン)
(出典:「エポック社の伝説のテレビゲーム」封入の解説書より(エポック社/2005年))
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初年度 |
総販売台数
(万台)
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テレビテニス
(1975年発売) |
0.5 |
1 |
システム10
(1977年発売) |
(不明) |
20 |
テレビ野球ゲーム
(1978年8月発売) |
(不明) |
23 |
カセットビジョン
(1981年7月発売) |
(不明) |
30 |
スーパーカセットビジョン
(1984年発売) |
(不明) |
30 |
※(不明)=特に記載なし
※テレビテニスは、当時の広報宣伝部部長によると、S50(1975)年9月〜S51(1976)年11月で約5,000台だとか。(fromブレーン誌・1978.6)
- 日本国内のテレビゲーム販売台数(C.V.S.オデッセィ調査)
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販売台数
(約・万台) |
出展資料、備考 |
1975 |
0.5以下 |
ほぼテレビテニスのみ。テレビテニスの初年度販売台数は5,000台だが、発売年度が9月なので(つまり初年度とは'76年9月まで)、75年12月までとなると、とりあえずその台数.以下という数があてはめられる。 |
1976 |
2、3 |
1976年に2,3万台だったものが・・・という一文から。
(出展:あるテレビゲーム記事に関する補足文/1978年5月号/リーダーズ ダイジェスト/リーダーズ
ダイジェスト社) |
1976年までの総計 |
5 |
テレビテニス、テレスポ中心に、一部輸出品の横流れや香港などからの輸入品が秋葉原の電気街やデパードで販売された程度で、その総数は5万台前後でしかなかった
(出展:トイズマガジン/1977年5月号) |
1977 |
120 |
・説(1):125万台:関係者の証言としてという一文より。リーダーズダイジェスト(76年の同誌)より
・説(2):120万台:昭和52年、大小20社に及ぶメーカーがテレビゲーム機を120万台を売った。任天堂は昭和52年度中のシェア70%、80万台を売ったのである。(出典:馬場宏尚/任天堂が危ない/YELL出版社刊/1993年12月初版)
・説(3):100万台以上:メーカーによると、米国ではすでに一千万台を超す普及ぶりで、日本でも百万台を超すというブーム商品になっている。
(出典:朝日新聞1977年10月9日 社会面) |
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1982 |
16 |
82年末出版誌における当年度の予想数。
「電子ゲームはおおはやりだけど」/月刊「子どものしあわせ」編集部・編/同誌1982年12月号/日本子どもを守る会・編/草土文化・発行)
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- アメリカのビデオゲームの市場予測(出所:フェアチャイルド社)*
(出典:電波新聞1976年7月30日号より。同データの掲載は右にも:電子工業年鑑1977年、78年、79年版(電波新聞社刊))
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販売台数
(百万台) |
平均小売単価
(ドル) |
小売合計
(百万ドル)
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工場出荷額合計
(百万ドル) |
1975 |
0.8 |
130 |
104 |
65 |
1976 |
2 |
76 |
152 |
95 |
1977 |
5 |
60 |
300 |
185 |
1978 |
10 |
50 |
500 |
310 |
1979 |
15 |
45 |
675 |
420 |
1980 |
20 |
40 |
800 |
500 |
*あくまで1976年の市場予測ですので、実数とは異なります。
- 1975年のアメリカでの販売台数:3,500,000個。金額にして1,500万ドルの売れ行きを示し、その前の年の10倍に達して人々を驚かせました。
(出典:月刊マイコン1977年8月号の記事。さらにその参考文献は次のもの:McGraw-Hill
Publication:Video games,A struggle for high stakes,Business Week)
ファミコン(ファミリーコンピュータ)は1983年7月から2003年9月まで生産されました。国内版と海外版(NES=NintendoEntertainmentSysytem:ニンテンドウ・エンターテインメント・システム)があるので見分けて使いたいですね。 |
1,932万台を出荷。6人に一人が持つ計算。
ニュースステーション/特集「ファミコン生誕20年そして生産中止/」2003年12月12日放送/ANB
- 累計6,188万台を出荷
(日本経済新聞:2003年5月31日号記事「さらばファミコン」より)
- 【国内】1,800万台(ファミリーコンピュータ)/【海外】4,175万台(NES)
(出典:任天堂会社案内1993年版)
- 「ゲーム大国ニッポン 神々の攻防」より
(P.122/著:滝田誠一郎/刊:青春出版社/2000年7月 初版発刊)
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日本国内
(万台) |
北米
(万台) |
その他
(万台) |
累積販売台数 |
1,900 |
3,400 |
856 |
全世界合計 |
6,156 |
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販売台数(万台)
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1983年度(83年9月〜84年8月) |
131 |
1984年度 |
294 |
1985年度 |
411 |
※補足:例えば85年の場合、85年9月〜86年8月が集計対象期間になります。
- 「昨年だけでも6万台も売れたんです」
ニュースステーション/特集「ファミコン生誕20年そして生産中止/」2003年12月12日放送/ANB)
「テレビゲームの数」を調べていく過程で見つかった、その他有用な数字をご紹介していきましょう。
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●インベーダーブームの頃('79年)って、インベーダーは何台売れた?
※タイトーの本家「スペースインベーダー」だけが対象とは限りません。
- 昭和54年7月には、全国で69,875軒の店に、28万3802台のインベーダーゲームが並んでいた。
(出典:日録20世紀(8) 1979 昭和54年/講談社・刊/1997年11月発行)
- その販売総数はコピーを含めてゆうに70万台は超えているといわれている。
(出典:BEEP!メガドライブ 1992年5月号「BINARY ANALYSIS」(渋谷洋一氏の記事)より/ソフトバンク・刊)
●昔の電子ゲームは何台、どれくらい売れた?
- 【アメリカ】現在のところ、電子ゲームの市場規模の予測はまちまちであるが、1977年には約400〜500万台が販売され、1978年の販売台数は700〜800万台であったと業界は推測している。
輸入は77年に6,300万ドルであったのに対し、78年の上半期には3,500万ドルとなっている。
(出典:電子工業年鑑 1980年版・アメリカの電子工業・電子ゲームより/電波新聞社・刊)
- 「電子ゲームはおおはやりだけど」
(月刊「子どものしあわせ」編集部/1982年12月号/日本子どもを守る会・編/草土文化・発行)
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台
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備考 |
1981年(昭和56年) |
950万 |
うち卓上型が20%、手に持つタイプが80%の割合 |
1982年(昭和57年) |
1,600万(見込) |
同上。
売上金額にすると玩具全体の約25%、金額にして1億7,000万円にのぼる。 |
※国内だけなのか、海外も含めてなのかの表記は特にありませんでした。
- (液晶素子の生産が急ピッチ。鈍い伸びの)こうした時計、電卓に対して、電子ゲームは大幅な伸びを示しているようだ。同ゲームの統計がないため、明確ではないが、液晶を使用した電子ゲーム生産は昨年において年間500万台あまり。今年は年初において1,000万台程度と見られていたが、すでに少なく見積もっても月産3、400万台とされ、著しい伸びを示す。
(LCD生産急速拡大/電波新聞/1982年10月2日/電波新聞社)
- 「日本の品種別玩具の生産の推移」より、電子ゲーム(乾電池)の項目だけピックアップ
(財団法人日本玩具資料館とは/変:佃光雄/刊:日本玩具資料館/1987年7月)
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百万円
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1981年(昭和56年) |
(空欄) |
1982年(昭和57年) |
(空欄) |
1983年(昭和58年) |
59,000 |
1984年(昭和59年) |
22,000 |
1985年(昭和60年) |
10,440 |
※金額です
- 五三年七月、ポピー(現バンダイ)から発売されたエレクトロニクスゲームのヒット商品。(中略)このゲームシリーズのなかでとくに人気のあったのが写真の「ベースボール」。初年、30万個を販売するベストセラーだった。六二〇〇円。
(出典:昭和 二万日の全記録・16 p.211より/講談社)
※LSIベースボールの販売はポピーではなくバンダイのはず。
●任天堂のゲーム&ウォッチは何台売れた?
- 昭和55年から56年にかけて、一年間で輸出分を含めて1,400万台も売った。
(出典:馬場宏尚/任天堂が危ない/YELL出版社刊/1993年12月初版)
「プレステ3のソフトの開発費は約10億」と浜さんが言ってたけど(※kamipro.110号より)、それより20年以上前のテレビゲームや、LSIゲームは何億かかったんでしょうか? え、億もかかっていないって??
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●1981年当時、LSIゲームの開発費はいくらかかった?
- エポック社のスーパーギャラクシアンで2,000万円(山崎一紀開発第三部門マネージャー)、学研のベースボール3になると3,000万円に近い(馬渕宏 知育トイ事業部副部長)という。
(出典:日本経済新聞 1981年7月4日朝刊)
ここからはおまけだぴょん。こういうくだらない雑学が、案外、キミとクラシックゲームとの掛け橋になるんじゃない?
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●1979年のインベーダーブームに関するさまざまな数
- 川崎麻世は当時アイドルNO.1のシューターだった
インベーダーブームまっただ中の1979年春、アイドル雑誌として有名だった「平凡」が、アイドル30人のインベーダーゲームの得点レースをやったんだって!
下がその結果をまとめた表だよ。アイドルNo.1は誰だ?! そう、あの人の旦那だ!
名前/メンバー名 |
得点(点) |
ひとこと |
あいざき信也 |
2700 |
力が入りすぎで、ワンプレイごとに指のマッサージをしていたそうだよ |
岩崎宏美 |
248 |
ゲームが終わった後、緊張しすぎたか、ぐったりしていたそうだよ |
桜田淳子 |
1030 |
ゲーム台の前に座るやいなやメガネをかけなおし、顔つきも真剣そのものだったそうだよ |
川崎麻世 |
10000 |
「もう飽きてきちゃった。テレビゲームなら車のレースの方が面白いよ」なんだそうだよ |
石川ひとみ |
1210 |
最後に侵略されて終わるパターンが多かったそうだよ |
太川陽介 |
1560 |
見ている人から「うまいじゃないか陽介」と褒められたとたんにゲームオーバーになったそうだよ |
郷ひろみ |
6650 |
自宅に筐体を買って、スタッフを集めては夜な夜なインベーダー大会を開いていたそうだよ |
畑中葉子 |
2700 |
この頃はディスコ熱が冷めて、インベーダーに凝っていたらしいよ |
狩人(高道、・邦彦) |
994/
682 |
高道くんは「今度は絶対1000点を越えてみせる」とやる気じゅうぶんだったそうだよ
”クニ”の場合は、初めてだったんで、一発も撃たずに2、3回やられたそうだよ
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リューベン |
3500 |
100円玉はすべて使っちゃうし、取材の場所も機種も指定するほど熱中していたそうだよ
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クィーンエンジェルス
(トミー青山・ルーシー加山) |
2500/1500 |
地方の旅館から出発の前にいつもプレイしていて、ビューティペアの方は、やっとブロック崩しがうまくなったばかりだったそうだよ |
五十嵐夕紀 |
3300 |
撃って撃って撃ちまくる攻撃型で、いつも陣地を無くして自滅していたそうだよ |
あのねのね
(清水国明・原田伸郎) |
550/630 |
清水くんは「俺にまかせとけ!」と力強いけど、勢いはいつもそこまでだったそうだよ
原田くんいわく、点数が伸びないのは戦闘を好まないからだそうだよ |
香坂みゆき |
710 |
ゲームスタートしたんにやられて「あ、やだア、いじわる」。終わったら「秘密特訓するわ」と言い残していたそうだよ |
ずうとるび
(1)今村良樹(2)新井康弘(3)池田義彦(4)江藤博利 |
(1)2500(2)1250
(3)1150(4)950 |
リーダーの新井くんは逃げの一手で、池田君はずうとるびで一番金持ちだから練習ができ、江藤君はブロックゲームでは満点を出せるんだけど、良樹くんはサウスポーだったそうだよ |
ハンダース
(1)清水アキラ(2)鈴木末吉(3)アパッチけん(4)アゴいさむ(5)佐藤金造 |
(1)2170(2)2580(3)1830
(4)2120(5)620 |
清水君は2800点は出すと豪語していたのに、鈴木君はメンバーの中で一番よくやっていて、けんくんはチキショーを連発し、アゴいさむは「インベーダー」に似ていると言われながら2000点を記録したけど、金造君は貯金マニアでゲームなんかほとんどやらなかったそうだよ |
杏里 |
1500 |
普段はおとなしいのに「このヤロウこんちくしょう!」とすごい言葉がポンポン飛び出したそうだよ |
榊千代恵 |
3300 |
プレイは10回程度だけど、300点UFOの落とし方をマスターしたそうだよ |
高見知佳 |
870 |
4回やって870点とって今日はおしまいにしたらしいよ |
吉田真梨 |
1170 |
筐体が置いてあるいつも行っている六本木の美容室では、1万点出すとブラシがプレゼントされたそうだよ。 |
(出典:平凡「30人の”狙撃手”がインベーダー・ゲームに挑戦!」/マガジンハウス/1979年4月号)
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麻世さんヤバイっス!!
事務所の人と喫茶店や六本木でガンガンやりまくっていて、平均6,000点くらい出していたそーだよ。
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ていうか、狩人のやっていた、1点台の出るインベーダーって何よー?? |
- 郷ひろみはインベーダーに46万円も使った?
79年インベーダーブームの頃、郷ひろみはインベーダーに46万円使ったという噂がたったんだって。
じゃなくて「46万円で筐体を買った(本人談)」そうだよ。
(出典:とくばん総集編/TBS/2003年3月20日放送)
- 坂本龍一は、YMOファーストアルバムの頃、3万点とったらしい
音楽評論家・吉見佑子のラジオ番組の、YMOハマースミスオデオン(ロンドン)のライブに先んじての回想より
(出典:古テープ)
- 新宿・歌舞伎町では、パチンコ店10店に対して、インベーダーゲームの店が45件もできた
全盛期のお話。しかも24時間営業。
(出典:放送80年史「テレビ50年」#17/NHKビデオ/2005年)
●ドンキーコングのいろいろな値段
- 1981年に発売されたアーケード版ドンキーコングの、当時の販売希望小売価格は54万円(ちなみにドンキーコングjr.は42万円)。ファミコン版だったら、14,800円(本体)+3,800円(カセット)=18,600円だから30倍くらいかな?あ、でも、テレビモニタの値段が入っているんだよね。
ゲームセンターに置いてあった、ファミコンと同じような映像機能のV.S.システム(ゲームはテニス。テレビは2台付)は67万円もしたんだってさ!
(参考:有価証券報告書総覧/大蔵省証券局・編/1981年)
●ファミコンのいろいろな数字
- 最後のファミコンが工場から出荷された日は?
⇒ 2003年9月25日(木)。もちろん新型AVファミコン。なお、スーパーファミコンJr.も同日がラストのようです。
(参考:レベルX〜ファミコン生誕20周年 テレビゲームの展示会で放送された「ラスト・ファミコン」より/2003年)
- 最後のファミコンの製造番号は?
⇒ NH11033309。2003年に東京都写真美術館で開かれた「レベルX〜ファミコン生誕20周年」に展示されました。
(参考:レベルX〜ファミコン生誕20周年 テレビゲームの展示会の実機より/2003年)
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この最後の1台は任天堂が保管しているんだってー。逆に最初の1台はどこにあるのかしらー。社長の家?
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- 最後に出荷されたファミコンが封入されたダンボールのナンバーは?
なんじゃそりゃ? えと、2003年末〜2004年に東京都写真美術館で開催された、ファミコンの展示会「LEVEL X」の一角で放映されていた、任天堂宇治工場(多分)から製造・出荷されていく最後のスーファミJrとファミコンの映像「ラスト・ファミコン」によるとがエンドレス再生されていました。ファミコン時代を過ごした人なら誰もが涙したであろう貴重な記録映像です。
そして、ファミコン(ビデオ出力の付いたニューファミコン)の方には、最後の製品が封入されたダンボール箱がアップになるシーンがあるんだけど、よく見ると製品番号HVC-NFFの隣に3830700の数字ハンコが!
ただし、この箱だけでなく、これといっしょに積まれていた他のダンボール箱にも同じ3830700の数字ハンコが押されているんです。どうやら、最後に作られたファミコンの一群はこの中に封入されたのはまちがいなさそうです(ただし最後の1台は任天堂が保管しているんだって)。
(参考:レベルX〜ファミコン生誕20周年 テレビゲームの展示会で放送された「ラスト・ファミコン」より/2003年)
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