2003/01/05

癒 し の 性 愛

ある日行った歯医者の待合い、5分ほどだったのですが、ある雑誌を読むと、興味深い記事がありました。その記事より…

「第三のセックスがいい」(AERA '02.12.23 No.55)

つきあい始めて6年のカップルに性の「危機」がやってきた。ほぼ毎日セックスをしていたのに、今年春から、ぱったりとしたくなくなった。
「どうしてなんだろうね?」
「ずっといっしょにいると、お互いに興味がなくなるのかな?」
と二人で話し合ったが、結論が出なかった。今、思えば、最も「愛に良くなかった」のは…すぐ絶頂に達してしまう「一番楽なポジション」を見つけてしまうことだ。
「疲れて、ベッドに倒れ込み、5分か10分ぐらいで前戯。挿入してからは、5分か10分くらいでフィニッシュする。触れ合っているのに、砂を噛んでいる様な思いがした。それでもセックスレスになるよりは、良いと思ったのだ。触れ合うのをやめたら、別れの時がくる、と二人は怖かった。

そんな二人が道教の初期の教え「Tao(タオ)」び英語版。「愛の技法」が美しい言葉で詳細に書いてあった。
「面倒であったり便利だからといって、一つだけのやり方に固執してはだめ」
と書いてあり、二人は顔を見合わせた。
「セックスはベッドルームの芸術である」
と説いてある。

男性に対して「少なくとも彼女がオーガズムに達するまで、我を忘れてはならない。首と背水を伸ばし、舌を口蓋にぴたりと押しつけ。鼻から深く呼吸しながら精神集中せよ。」とゆうにそのストロークは1時間を超えている。

世界には、様々なセックス(観)がある(キム・ミョンガン)。もともと東洋には「気」の交換をして一体感を高める独自の作法がある。タオとは道の意味。そこでは、調和の取れた両極(陰と陽)が結合し、変容を繰り返す。

東洋のセックス観は、気を交換し、両極(男と女)でエネルギーのバランスをとることで、和やかに健康に生きるという教えがある。東洋のセックスは、挿入ではない楽しみ方をする。なのに、勃起と射精に拘り、フィニッシュしてオーガズムを追求する「アングロサクソン的」なセックスが当たり前になってしまった。
「短時間で終わる今のセックスは、相手の身体を使ったオナニーに過ぎない。」(キム・ミョンガン)と書かれたいた。

キリスト教では、快楽を伴うセックスそのものが原罪。だから、セックスは生殖行動で、挿入主義だ。東洋には「本来、人間は清浄な宇宙的生命のなかに生まれついている」という考えがある。密教でも、愛する男女の「性欲は清浄なり」と説いてある。
「男女の接触は、清浄な菩薩の境地」
「抱き合って満足し、すべてに自由である様な気持ちになるのも菩薩の境地。」

ここで紹介されているのが、ポリネシアに伝えられている「第三の性」である。(この部分については、ここからダウンロード(love.pdf)出来る様にしてある(pdfファイル、ACROBAT READERが必要)ので、是非、御覧戴きたい)

タオが最も力説しているのは、「相手を思うこと」。お互いを慈しみ、公平に、礼節を持って、素直に礼節を持って取り組むべきものだ。「相手が満足しているかどうか、常に確かめよ。」

ベッドにいる時間だけが、セックスではない、というカップルの様子が最後の紹介されていた。

全文は、http://www3.asahi.com/opendoors/span/aera/ でバックナンバーをご購入の上ご覧下さい。

セックスは、お互いが許せば、自由であって良いと思う。しかし、僕たちゲイは、男同士であるが故、あまりにも刹那的に快楽を求め過ぎていたのではないかと、思う。さらに、つきあいが長くなると、セックスレスのカップルもあるかもしれない。射精がなくても、相手が満足していれば、それは、セックスレスではないのかもしれない。逆に、セックスがあったとしても、相手を思う気持ちがなければ、それは、相手の身体を使ったオナニーであるのかもしれない。

癒しの性愛、これは、綺麗事でも、絵空事でもないと思いますよ。
今晩、あなたの横にいる愛しの彼氏の手を握り、そっとキスをすることから始めてみませんか?