フォト・ギャラリー 第1回「未来塾」

「足尾鉱毒事件と田中正造の現地を訪ねる」(群馬県〜栃木県)

◎8月28日(土)「第27回渡良瀬川鉱害シンポジウム」に参加(於群馬県館林市)


 午前10時より午後4時半まで、群馬県館林市三の丸芸術ホールにて、足尾鉱毒川俣事件百年・第27回渡良瀬川鉱害シンポジウム「川俣事件の人々と今」が開催されました。コム・未来の第1回「未来塾」のフィールドワーク「足尾鉱毒事件と田中正造の現地を訪ねる」も、このシンポジウムへの参加からスタート。

 今からおよそ100年ほど前、資本主義的近代化の強行の一環として足尾銅山の急激な生産拡大が至上命令と化し、その下流・周辺に甚大な鉱毒被害をもたらしました。足尾銅山の鉱業停止を要求して立ちあがった田中正造と民衆たちは「押出し」という独特な戦術をもって鉱毒反対運動を繰り広げました。

 今回のシンポジウムは、来年の2000年2月13日が、2500人が結集した第四回押出しと、それに対する一方的な警察権力の弾圧、いわゆる川俣事件百周年となることを記念して開催されました。

 シンポジウムでは、川俣事件の被告人の子孫がそれぞれの思いを語り(写真左上)、来年の川俣事件百周年祭への呼びかけがなされました。会場には、川俣事件の歴史的資料が展示され、参加者の注目を集めていました。(写真右)

 また、昼食(館林のうどん、美味しいな)をはさんで午後からは、被告人と予審判事などのやりとりの朗読・再現、布川了さんの講演がありました。実に丹念に過去の資料が掘り起こされ、吟味され、川俣事件当時の国家権力の策謀・弾圧の実像がリアルに迫ってきました。

 シンポジウムは、鉱毒悲歌の紹介・合唱(写真左)があり、質疑・応答、討論も活発になされ、アピールを採択・確認し、2000年2月13日川俣事件百周年祭へのうねりを創り出す場となりました。

◎8月29日(日)「足尾鉱毒事件と田中正造ゆかりの地めぐり」(朝〜夕方まで)

 前日のシンポジウム後、夕方から近くの宿屋にて、田中正造大学など地元で活動する方々とコム・未来の参加者の間で、交流会を持ちました。それぞれの自己紹介で始まり、問題意識の交換から、夜遅くまでの議論へと続き、大変有意義で貴重な交流の場になったと思います。
 交流の成果を踏まえ、翌日は、午前8時半から、地元で活動している方々のご案内で、フィールドワークを行ないました。実際に、現場を巡り、時が積もる生の現実に触れることの意義をおおいに実感する一日でした。
 この日の最後には、前夜最後まで議論にお付き合いいただいた方が経営する喫茶店で簡単な反省会を開くことができました。また、その場には、地元で有機農法を実践している方の、差し入れで、世界中でそこでしか作っていないラグビーボール型の黒いスイカ(中は赤い)などをご馳走にまりました。残暑の中を一日駆けずり回った後ののどを潤す最高の心遣いでした。
 地元で活躍されているみなさんのご好意、ご親切に心から感謝します。

 以下は、写真を中心とするフィールドワークのごく簡単な記録・紹介です。

1、雲竜寺−四県鉱毒被害民の闘争本部

 足尾鉱毒事件と田中正造の地元をめぐるフィールドワークの最初は、瑞光山雲竜寺(曹洞宗)。

 ここは、田中正造が1896年(明治26年)に栃木群馬両県鉱毒事務所を設け、その後、足尾銅山鉱業停止請願事務所として、栃木・群馬・埼玉・茨城の四県鉱毒被害民の闘争本部となったところ。正造の分骨も納められ、墓石「田中正造翁終焉の地」が建立されている。

 門をくぐって左手にある「足尾鉱毒事件被告の碑」(写真左上)、正造の歌

 毒流すわるさ止めずバ我やまず渡良瀬利根に地を流すとも

 を刻んだ碑がある。

 また、正造が病床で「現在を救え、ありのままを救え」と絶叫したことにちなんで名づけられた救現堂がある。(写真右)

 雲竜寺本堂に上がる右手には鐘がある。この鐘を合図に続々と結集した農民たちが鉱毒悲歌を高唱しながら、東京への大押出し(一大請願行進)を繰り返したのだ。

 本堂内には、資料室があり、田中正造に関する資料が展示されている。(写真左下)

2、庭田清四郎家−田中正造終焉の家


 次に、雲竜寺近くの庭田清四郎家に立ちより、お話を伺う。

 1913年(大正2年)、病におかされた晩年の正造が雲竜寺に立ちより、この家に倒れ込み、1ヶ月の闘病生活のすえ息をひきとった家である。庭田家では代々、正造が病臥した部屋を当時のまま大切に保存している。

 正造は死の数時間前に、「同情と云う事にも二つある。此の田中正造への同情と正造の問題への同情とハ分けて考えなけれバならぬ。・・・」と語ったという。

3、惣宗寺−田中正造の本葬執行・自由民権運動の拠点

 車でしばらく移動して、佐野厄除け大師として有名な惣宗寺へ。
 山門を入ると右手には人工的できんきら・こてこての建物が目に付くが、まっすぐ行くと自然石で造られ、「嗚呼慈侠田中翁之墓」と刻まれた正造の大きな墓に突き当たる。この対比がなんだか象徴的。
 正造は、自由民権運動を始めたころからこの寺を拠点に活動し、ここで数万の人々を集めた本葬も行なわれた。

 正造の墓の前には、盛岡中学3年生のときに直訴に感動しカンパ活動をした石川啄木の歌碑があった。

 夕川に葦は枯れたり 血にまどう 民の叫びの など悲しきや

4、佐野市郷土博物館−田中正造の特別展示室

 次に立ち寄った佐野市郷土博物館には、田中正造の特別展示室があり、様々な資料を閲覧できる。
 まず、ビデオ「田中正造の歩いた道」をみんなで観る。昨夜の交流会にも出席下さった田村さんが、ここで合流し、その熱心な説明に耳を傾ける。幸徳秋水がしたため、正造が訂正した天皇への命がけの直訴状、遺品の石ころなど、数々の資料が胸を打つ。
 しかし、地元でがんばっている方々にとって、こうした展示室ではがまんできない思いを強く感じる。実際、館の内外にある正造の銅像は、キンキラで、あるいは「立派」すぎ、俗物的な偉人化のクサさを感じる。正造自身、銅像が大嫌いだったはずなのに。
 独自の「田中正造記念館」を!という熱意に共感。

5、地蔵堂跡−領分追放後の正造が手習師匠せしところ

 次に立ち寄った地蔵堂跡には、かつての御堂はなく、当時の記録を残す立て札と大榎のみがひっそりと立ち尽くしている。引き続き田村さんの説明に傾注する。

 1868年(明治元年)に、六角家の領分追放となった正造が、この隣接した堀米の地蔵堂に身を寄せ、手習師匠を始めたところ。

 長年月をへだて、1906年に再びここに立ち寄った正造は、子どもの手ほどだった榎が大木に育っている様に相対す。正造の流転する自然への透き通った目線をここでも感じる。

6、田中正造生家−県道拡幅で無残な姿に

 田中正造生家のすぐ近くで昼食をし、生家の南側にある田中正造夫婦の墓(田中正造誕生地墓所)に立ちより、現在の田中正造生家へ。

 しかし、酷いものである。現在の田中正造生家は、県道拡幅工事に伴い、ハリボテ式に修繕・変形移動され、俗悪な観光施設と化したものである。

 田中正造の生家を守る市民の会は、こうした史跡破壊に抗議し、一坪共有地を確保し、史跡の完全復元・保存を訴えている。また、共有地に対する土地収用法適用・強制測量に反対して実力阻止闘争を展開している。(同会の会報「百日紅」No.21 1999/7/1参照)

7、田中霊祠−田中正造の分骨を祀った唯一の神社

 しばらく車で渡良瀬下流域方面に移動する。

 正造が死ぬまで反対し続けた新渡良瀬川、その掘削した土を捨てた場所に田中霊祠がある。旧谷中村残留民18戸のうち改修工事の土砂場に移った6戸が、この霊祠に祀られた分骨を守り抜いてきた。当初は草もはえないような荒地だったが、今は杉林がうっそうと茂っている。

 境内には巨大な石碑があり、『渡良瀬川』『谷中村事件』の著者で正造の辛酸を見事に表現した大鹿卓の撰文が刻まれている。また、正造の歌碑以外にも、右翼の大頭目・頭山満の碑もある。右翼すら正造に感銘を受けざるを得なかったのだ。

8、合同慰霊碑−堤防から広大な渡良瀬遊水地をのぞむ

 田中霊祠から、滅ぼされた旧谷中村に向かって建てられた田中正造の銅像を左に眺め、右折して南に移動する。

 車から降り、遊水地の堤防に上がると、無人の葦原が眼前に広がる。まるで広大な異系の空間に迷い込んだかのように。四県にまたがる渡良瀬遊水地は、面積33万平方キロ、周堤32キロもあり、東京の山手線の内側の過半もの面積を有しているのだ。

 堤防の手前にある合同慰霊碑は、滅ぼされた谷中村民一人一人の怨念がこめられたように、墓石群をなしている。

9、谷中村遺跡−鉱毒事件による強制的滅亡の歴史は今もなお・・・

 渡良瀬遊水地に降り立ち、滅亡されし谷中村遺跡に向かう。いよいよフィールドワークのハイライトである。

 昨日のシンポジウムで含蓄のある講演をして下さった布川さんと待ち合わせ。すでに自ら雑草を刈り、案内のための準備をしてくれていたことに一同感謝感激。背丈よりもずっと高い生い茂る葦をぬって(写真左1番目)、かつての谷中村民、落合熊吉、落合幸次、落合幸蔵宅跡を訪ねる。

 途中、葦に囲まれた小さな空間で休憩をとり、布川さんの話に聞き入る。(写真右1番目)

 再び葦をかきわけ、雷雷神社、延命院跡、共同墓地へ。(写真左2番目)

 雷雷神社跡(写真右2番目)から見渡す渡良瀬遊水地の広がりもまた心を打つ。

 共同墓地のところで一休み。再び布川さんの話をうかがい、みんなで「谷中村数えうた(ひとつとや節)」を合唱す。(写真左3番目)

 旧谷中村の中心部へと歩を進め、かつての役場跡へ。

 役場跡で、布川さんや田中正造大学の人たちによる話もまたクライマックス。(写真右3番目)

 谷中村の各地所の評価が平面的な広さではなく、その高さを含む3次元的・立体的な基準で考えられていたこと。各家にいざというときの船がつるされ、水に親しみ、水の脅威と長年付き合ってきた土地柄ならではの話である。

 谷中村は、水豊かなところ。豊かな水は肥えた土を運ぶ。肥えた土こそ自然の恵み。洪水は単なる災害ではなく、大地を潤す。

 谷中村を強制的に滅ぼし、無人の荒野とせしめた鉱業・工業の理屈は、川岸をコンクリートで固め、水を海にすっぽり流し込む治水事業に直結している。

 資本の論理が人々に害毒を垂れ流し、生活空間を根こそぎ破壊し、自然の営みにあらがいて国家的至上目標・偽りの利便性を強制する姿へのあくなき抵抗と反逆。ささやかな追体験を踏まえ、100年の歴史を超えて、21世紀へと解き放たれるべし。 

(写真・文責:津村 洋)

【参考文献】

文:布川了/写真:神山勝三『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』随想舎1994
東海林吉郎・菅井益郎『通史 足尾鉱毒事件 1877−1984』新曜社1984
田中正造大学ブックレット『救現』各号 田中正造大学出版部
渡良瀬川研究会編集『田中正造と足尾鉱毒事件研究1-1987』伝統と現代社
由井正臣『田中正造』岩波書店
荒畑寒村『谷中村滅亡史』岩波文庫1999・5
城山三郎『辛酸』角川文庫
佐江衆一『田中正造』岩波ジュニア新書

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