革命文芸雑考3 明日への考察 啄木の遺産<1> 甲斐与志夫


 啄木は『明治四十四年 常用日記補遺』として「前年(四十三)中重要記事」をわざわざ収めている。この補遺は前年の概括的なまとめの追記であるが、啄木自身の思想的転換の追記であり、その強調である。
 〈六月―幸徳秋水等陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。これよりポツポツ社会主義に関する書籍雑誌を聚む〉や、〈思想上に於ては重大なる年なりき。予はこの年に於て予の性格、趣味傾向を統一すべき一鎖鑰を発見したり。社会主義問題これなり。予は特にこの問題について思考し、読書し、談話すること多かりき。ただ為政者の抑圧非理を極め、予をしてこれを発表すること能はざらしめたり〉、〈また予はこの年に於て一度逢ひたる社会主義者西川光次郎君と旧交を温め、同主義者藤田四郎君より社会主義関係書類の貸付を受けたり〉などがそれだ。
 書かれているように、「大逆事件」を契機に啄木は思想上の一大変革をしている。しかし、この要約的な記述では啄木の社会主義理解がどうなのか具体的には分からない。が翌四十四年の日記で、ある程度推測できる。
 啄木は四十四年一月三日平出弁護士を年始で訪れ、彼から大逆事件の裁判に関する話を聞く。そして、平出から幸徳秋水が獄中から大逆事件の担当弁護士の磯部、花井、今村に宛てた陳辯書を借りる。その陳辯書を啄木は翌日から二日かけ筆写する。大逆事件の特別裁判は一月十八日で、二十四人の被告に死刑の判決が下る。翌十九日に大命によって二十四名の死刑中十二名が無期懲役に減刑される。
 啄木は一月二十三日に自宅で大逆事件関係記録を整理し、翌二十四日に「日本無政府主義者陰謀事件経過及び付帯現象」をまとめる。さらに五月、大逆事件の真相を後世に伝えるために「V NARD SERIES」を執筆している。それと前後して「社会主義文献ノート」を執筆している。この間啄木がいかなる社会主義に関する著書を読んだか、すべてではなかろうが日記にいくつかが出ている。啄木の晩年に深い交友のあった土岐善麿は、幸徳秋水の「社会主義真髄」やクロポトキンの「二十世紀の怪物帝国主義」や千山万水楼主人の名で書かれた河上肇の「社会主義評論」や堺利彦の「社会主義研究」が死後残っていたと記す。が読んでは古本屋に売らねばならぬ困窮した生活であり残っていた本は僅かであろう。
 啄木が精力的に読んだ文献はおそらく大逆事件に関する裁判記録を除けば主として幸徳秋水とクロポトキンの著作であったろう。限られた資料ではあるが先にあげた四十四年五月の執筆、二つの未発表の文章で、啄木の社会主義理解の有り様がおおむね分かる。まず「社会主義文献ノート」、文字通り自分の学習用にノートされたものを見てみる。

「社会主義文献ノート」

 このノートは啄木の未発表遺稿であるが、社会主義文献を記録した三つのノートの綴りで、主として平民新聞に依拠して執筆されている。
 一つが「マルクスの資本論」で、これは大阪平民新聞に山川均が執筆連載したものの書写である。啄木の娘婿の石川正雄は〈啄木はその一字一句もゆるがせにせず、まるで頭にきざみつけるように、その長い連載文を丹念に筆写している。筆写というものはもっとも有効な勉強方法で、彼がいかに熱心にそれを吸収しようとしたか、その筆跡からでも想像することができる〉と、解説している。
 その二つは「万国労働者同盟」である。これは第一インターの創立から第二インターの発足までの歴史を叙述したもので、啄木が平民新聞のニュースの記事から取材し、それを綜合整理し、独自に書き上げたものである。ジャーナリストとしての啄木の論評的力量がこの文章によく出ている。前書きにあたる一章を短いので抜き出す。ここに社会主義思想の日本における摂取と定着が窺える。
 「万国労働者同盟は、前に共産主義同盟を承け、後に万国社会党大会に続き、実に欧州社会主義運動の脊椎骨を為せり、英語に之を、INTERNATIONAL WORKING MENS ASSOCATION といふ。或は之を略称し、単にインターナショナルと呼ぶ、先ず共産主義同盟のことより記す。
 一八三六年、巴里に滞在せる独逸亡命者の間に、一個の秘密結社を生ぜり。その精神は主として独逸の共産主義者ワイトリングの思想に在り。然るに一八三九年、巴里の騒擾に際し、彼等独逸人は皆放逐せられて倫敦に赴き、茲に労働者修養団とも称すべき団体を作り、独逸、英吉利、匈牙利、波蘭、丁抹、瑞典等より来れる不平の徒を糾合したり。蓋し是等北欧諸国の人は独逸語を以てその共通語と為すが故に、自然独逸語を中心として万国的運動を成せるものの如し。
 爾後この団体は倫敦を中心として次第にその勢力を増したりしが、一八四七年に至り、従来の陰謀的秘密結社の性格を改め、新に共産主義同盟と名乗りて公然の伝道団体となり、同年春第一大会を倫敦に開き、同年冬更に第二大会を同処に開き、宣言起草委員としてマルクス、エンゲルスの二人は巴里、ブラッセルの間に在りてその新意見を発表したりしが、共産主義同盟は次第に二人の意見に感化せられ、遂に二人を誘うて同盟に入らしめ、宣言の起草をも委任するに至れりなり、二人は此に於て宣言を起草し、翌一八四八年二月初旬を以て之を世に発表したり。彼の有名なるD共産党宣言E(THE COMMUIST MANIFESTO)即ち是なり。
 然るに一八四八年二月二十二日、欧州革命の噴火口は再び爆発し、その余燼一掃せらるると同時に労働運動は一時全くその影を潜むに至れり。さしもの、D共産党宣言Eも時機未だ熟せざり為め、殆ど何等の反響をも来さず。共産主義同盟も亦一八五二年を以て自然解散に帰せり」
 一読して、啄木が国際共産主義運動の歴史についてほぼ基本的な理解を得ていたことが分かる。また九章に及ぶその文に、啄木独自の解釈や評価があり、そして関心の主な向けどころも分かる。
 その三つは「第七回万国社会党大会」である。この大会は一九〇七年(明治四〇年)に開かれた第二インターのシュットゥッガルト大会である。啄木は八月一八日から二四日までの大会の七日間を、新聞記事風に日録でもって叙述している。このノートについて、石川正雄は次のように解説する。
 〈これには啄木自身、特に私意を加えてあると断ってある。最初に大会の構成、出席の各国著名闘士の横顔などを加え、最終日まで、各国代表の演説からはげしい討論のありさまなど興味深く描写し、一読、現場にある思いを感ずるほど、完全な大会記録としてとりまとめている。冒頭に委員会の有様や出席国別投票数を示し、以下本会議に入り、ベエベル、ヴァンデンヴェルト、の演説、ベエベルとヘルヴェの衝突、マルクス派とバクーニン派との対立など、当時日本でほとんど知られていなかった内容が完全に記録されている〉 と。そして石川正雄はこの三つの「社会主義文献ノート」のもつ大きな意義を強調する。
 〈啄木にとって、この記録を作ったことは大変勉強になったらしく、それからまもなく書いた有名な社会思想詩「呼子と口笛」には、これが背景になっている。…(中略)いずれにしろ、この記録は単なる歴史的展望にとどまらず、当時の啄木の社会主義思想に点火したものとして、啄木伝の上でも取り上げていいものである〉と。
〈われは知る、テロリストの/悲しき心を――/言葉とおこないとを分かちがたき/ただひとつの心を、/奪わはれたる言葉のかはりに/おこないをもて語らむとする心を、/われとわがからだを敵に擲げつる心を――/しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。/はてしなき議論の後の/冷めたるココアのひとさ匙を啜りて、/そのうすにがき舌触りに、/われは知る、テロリストの/かなしき、かなしき心を。〉
 『呼子と口笛』の二題目「ココアのひと匙」であるが、『呼子と口笛』の一連の詩に形象化された革命家像は、テロリストやナロードニストやアナーキストである。
 ついでに別の未発表文章である「V NAROD SERIES」を見てみる。この文章は大逆事件の真相を後世に伝えるために書かれたもので幸徳秋水の陳辯書が全文記されており、その前後に啄木が前書きと後書きを付している。啄木自身の社会主義理解の一端を知る上でとっかかりになるものが後書きにある。         (続く)


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