アソシエーションの理論と実践 −基礎研究のための共同作業

田畑稔 (季刊『唯物論研究』編集長)


一、『マルクスとアソシエーション』をめぐって
  ―論争的文脈の紹介
 マルクス解釈としての妥当性の問題
 影響史的比較論的アプローチ
 未来社会の机上プランと移行諸形態
 実践的諸方策の不在?
 闘争や権力問題の回避?(以上今号掲載)

二、アソシエーション論的転回のための
マルクスからのいくつかの足場
 @近代市民社会を超える「ポジティヴな」実践としてのアソシエーション
 A「自由な個人性」と「共同性」の結合形態としてのアソシエーション
 B「過程論的」アソシエーション論
 C権力過程と物件化過程への対抗過程としてのアソシエーション
 Dアソシエーション内自己統治とアソシエーション間自己統治の不可分性
 Eプルーラル(複数的)なシステムとしてのアソシエーション
 F「政治体」をもアソシエーションの一形態として再構築する闘い
 G自発的諸運動と未来社会の連続性としてのアソシエーション

三、「非営利セクター」および「社会経済セクター」の実態研究の紹介
 @L・サラモンの「アソシエーショナルな革命」
 A「社会経済セクター」の実態

四、移行諸形態―実践的変革目標となるべき政治・経済・文化システム
 @ポール・ハーストの「アソシエイティヴ・デモクラシー」構想
 A大藪龍介の「過渡期とアソシエーション」

五、基礎研究のための共同作業
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 (註)この論文は、1999年9月に関西で開かれた「アルバ」(「未来社会のための協働研究会」)の第一回研究会にて報告されたものである。ご本人の御了解をえて、ここに掲載させていただいた。尚、講演テープをアルバ事務局の責任で起こして原稿としたものである。


 今日の報告はだいたい4つぐらいに分かれます。
 まず第1に、私が現時点で立っている論争的文脈を知っていただくために、1994年に出しました『マルクスとアソシエーション』という本に対する主な反響を紹介したいと思います。
 第2に、私はアソシエーション社会に向かう変革のコースというものが社会主義なりコミュニズムの再生というものを考える場合の基本になるのではないかという立場に立っております。もちろん、マルクスからそのまま現代の実践的方策を出してくるという考え方は私はとらないというか、間違っていると考えます。しかし我々は、素手で現実に立ち向かうというわけにはいかないわけです。現実に立ち向かうためには我々の側に、原理的な足場が不可欠でしょう。そこでマルクスのアソシエーション論からどういう足場を抽出することができるのか。これが第2番目ですね。
 第3に、20世紀末の現在、いわゆる「アソシエーションの波」が多様な形態で、またグローバルな規模で、押し寄せてきています。我々人類は今、「アソシエーショナルな革命」の渦中にあるとさえ表現する専門家がいるほどなのです。そういう実態研究について代表的なものをいくつか批判的に紹介したい。
 第4に、私は、遠い未来社会はこうだという風に机上プランを立てるというアプローチは実践的焦点にすべきではないと考えております。実践的焦点というのは移行諸形態に当てられねばなりません。つまり我々が現実に入り込んでいる生活諸関係から出発して、未来社会へ向かって現行諸制度を決定的に一歩超えるような実践的変革諸目標を、実践し討議しながら練り上げていく、ということに焦点が当てられるべきだと考えます。そういう意味での移行形態論をいくつか紹介したいと思います。ひとつはイギリスの政治学者ポール・ハーストの「アソシエイティブ・デモクラシー」の構想、もうひとつは大薮龍介という日本の政治学者の過渡期論です。
 最後に時間があれば、我々の諸関係、諸運動をアソシエーションの方向へ転換するのに資するような基礎研究のための、いくつかのテーマ、いくつかの問題意識を紹介したいとおもいます。できればこの基礎研究のために共同作業を組織しまして、活動家世界でも十分検討いただけるような形で、できるだけ早く出版したいと思っております。

【1】『マルクスとアソシエーション』をめぐって
   ―論争的文脈の紹介

 私は1986年から5年間、31回にわたって大阪哲学学校でマルクス再読のための報告をおこない、多くの市民や活動家たちの参加をえて、議論を重ねました。ですから『マルクスとアソシエーション』(1994年、新泉社)は、直接には思想史的研究書なのですが、同時に活動家や研究者の皆さんに、「ソ連型社会主義世界体制」の大崩壊という歴史的事態を踏まえて、非力ながら私なりに問題提起を行い、議論を呼びかけようという思いで書いたものです。幸いなことにこの本には賛否両論、予想を超える大変大きな反響が寄せられており、5年が経過した今日でも、この事態は続いております。問題提起した当事者として、心から感謝すると同時に、大きな責任を感じている次第です。とりわけ、各方面から指摘された問題点を私なりに咀嚼整理し、皆さんの前に理論的課題として再提出すること、また実践的具体化に向かって基礎研究のための協同作業を呼びかけることは、自分の能力の如何にかかわらず、ぜひやらねばならないことだと考えております。

マルクス解釈としての妥当性の問題

 さて、まずはマルクス研究者からの反響なのですが、これについてはかなり肯定的なものが多かっただけでなく、質の高い基礎研究も相前後して出ました。例えば新メガ(現在オランダで編集されている新しいマルクス、エンゲルス全集)の編集委員であり、今日出席しておられる渡辺雄三さんの学生時代の友人でもある法政大学の大谷禎之助さんも、大体同じ方向で大部な論文を書かれました(「社会主義はどのような社会か」『経済志林』63巻3号、1995年)。また政治学者の大藪龍介さんも、過度期論を中心にしてマルクス・アソシエーション論の読み直しを行いまして、力作『マルクス社会主義像の転換』(1996年、御茶ノ水書房)を出しました。さらに私も編集者の一人になりまして、『マルクス・カテゴリー辞典』という事典が去年、青木書店50周年記念出版物として出ました。これは現在第一線で活躍中の日本のマルクス研究者105人の協同作業として出されたものですが、この事典も、アソシエーションという方向性を背景的問題意識の一つにしております。これらから見て、アソシエーションを中心にマルクスを読み直す方向は、今日のマルクス解釈の非常に有力な一潮流になっているということは、最低限言えると思われます。

影響史的比較論的アプローチの克服

 第2に、思想史家からの反響なのですが、「この本ではサンシモンやオーエンやフーリエ、特にプルードンを扱っていない」というのがありました。それは事実その通りなのですが、私としては意識的にそうしているのだということを、ここで強調しておきたいのです。従来マルクスとアソシエーションの関係を論じる時には、おうおうにして、「サンシモン主義的な制約がマルクスにある」とか、「プルードンと比べて国家主義的だ」とか、そういう比較論、誰の影響をどう受けているという影響論、を中心にマルクスを見ていたものが多かったといえるでしょう。私としては従来のマルクスのアソシエーション論に対するこのような比較論的影響論的アプローチというのは間違っていたとまでは言いませんが、非常に限界があったのではないかと言いたいのです。あくまでマルクスの理論の全体構成の中で、アソシエーションがどういう核心的意味をもっているのかというような形の展開ができていなかったんじゃないか。従来のいろんな論文と読み比べていただくと分かるわけですが、影響史的比較論的なマルクス・アソシエーション論の段階を質的に越えることができたということに、自慢話めいて恐縮ですが、私なりの自負があるわけです。つまり、プルードンにマルクスを結びつけ、マルクスを限界づけようとか、そういう風な外在的アプローチを私は全くしていないわけです。もちろんプルードンを評価しないとかいう事じゃないんですよ。とりあえずマルクスのアソシエーションというものを、マルクス自身の理論の全体構成の中で内在的に明らかにすることによって、従来光が当たっていなかったものに光を当てることができたという、かなり強い自負をもっているわけです。

未来社会の机上プランと移行諸形態

 それから社会主義経済論の専門家の中には、「ソ連が崩壊したのに、それに代わるような「可能な未来の経済システム」を提示していないじゃないか」という反響もありました。これも事実その通りなのですが、この批判も、ちょっと私には釈然としないのです。いわゆる「ソ連型の社会システム」が崩壊したからといって、新しいシステムをになう現実の歴史的諸主体も現実の歴史的諸プロセスもなしに、即刻机上のプランを対置しようとすること自身が、大いなるミスリードになりかねないんじゃないかと思われるからです。確かに、社会主義経済学者たちは経済システムというのが出来上がって初めて学者としてやれるわけですから、システムを語りたい気持ちはよくわかります。でも一つのシステムの生成というのは非常に複雑な過程であるということは今日、自然諸領域でさえ言われているわけですね。ましてや、日本なら日本で、そしてグローバルな世界で、我々がアソシエーショナルなシステムを作っていくということになりますと、偶然的諸条件を含む非常に複雑な歴史的諸プロセスを覚悟しておかなければななりません。
 むしろ我々のアプローチとしては、一方で我々の実践を導くべき一般諸目標、基本諸原則を(不動のものとしてというより、実践の進展に応じてバージョンアップを図るべきものとして)確認しつつ、実践的焦点はあくまで移行諸形態(過渡的諸形態)に当てるべきだと、私は考えております。つまり我々が現に入り込んでいる生活諸関係から出発しつつ、未来社会へ向かってこれらを決定的に一歩超え出るような変革目標を、実践と討論を行いつつ共に作り上げるということです。この本では直接扱っていませんが、そういう移行諸形態を現代の我々の現実的諸関係にそくしつつ論じるということが、きわめて重要な課題であることを確認しております。しかしこれはあくまで移行諸形態についての話です。他面、未来システムについての机上のプランを論じていないというのは、自分の能力がない(もちろん能力はないんですが)からというだけではなくて、私なりの思想のあり方に関わっているわけです。

実践的諸方策の不在?

 それから、活動家サイドからの反響で言うと、もちろんいろんな積極的評価もいただいておりますが、疑念は二つぐらいに集約できるように思います。第一は「実践的諸方策を提示していない」というものです。
 これも事実その通りなのですが、こういう疑念を提出される人の中には、マルクスから何から何まで取ってこようとする姿勢が見られる場合があります。我々にとっての実践的諸方策は、現に我々が入り込んでいる生活諸関係から自覚化され定式化され共有されるべきもので、我々にとっての実践的諸方策を、この本のようなマルクス研究から直接取ってくるというような倒錯したドグマティズムの意識は、私は持ってないわけですね。マルクスから得られるもの、得るべきものは、あくまで、アソシエーションの方向へ向かって、自分の生き方なり、活動の仕方なり、日本社会のあり方なり、現代世界なりを変革していく、その実践的諸方策を導くための「いくつかの基本的な足場」にとどまるのでして、あとで詳しく述べますように、そういう「基本的な足場」については、『マルクスとアソシエーション』で、いくつか提示しようとしているわけです。

闘争や権力問題の回避?

 活動家サイドからの第二の疑念は「協同組合やNPOやボランティアだけで社会主義などできるのか」とか、「権力との闘争や権力のための闘争を回避してしまうのではないか」とか、「新保守主義的な国家リストラ策に乗ってしまうのではないか」というものです。
 これらの疑念には、一面で従来の主張や信念への後ろ向きの固執が表明されている場合があります。またマルクス・アソシエーション論に関する新しい諸研究を何も読まず、それを何か現在の協同組合の問題とかNPOの問題とかボランティアの問題とかと同一視している場合もあります。ひどい場合には、慈善事業のようにイメージされるんですね。それは今までの左翼の活動家たちの多くがアソシエーションの概念をまともに考えてこなかった結果なのです。アソシエーション論というものが今日、どういう地平に立っているのかということを、一度しっかり勉強していただいた上で、判断していただかなければならないんじゃないかと思います。
 しかし同時に、上の疑念には、アソシエーション論への転換にともなう実践的混乱への危惧も、まだ実践的試練に耐えていない若い思想への慎重さも、表現されております。その意味では、これらの疑念については、私も一応は了解できますし、アソシエーションをめくる今後の討論の中でも、批判的意味を持つだろうと確信しております。これらの疑念に答えるのはこれからということになるでしょう。なによりも、実践的諸方策のレヴェルで議論が具体化することが不可欠でしょう。理論的には、アソシエーション論のマルクス的特質を強調することによって、これらの疑念をある程度は解消することができるように私は考えております。しかし最終的には、アソシエーション論的転回を採用することの妥当性をめぐっては、採用するものも採用しないものも、お互いに歴史の審判を仰ぐ覚悟をするほかないでしょう。     (次号へ続く)


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