デジタルメディアが著しい進境を示す今日。これと連動して、デジタルメディア論がいっそう盛んだ。そしてその多くはいずれも力作だろう。だがそこには一つ欠けているものがあることを、発信者に気づかされる。たとえば「情報スーパーハイウェー構想を理解する為のアメリカ放送史入門」をみてみよう。これは発信者が以前籍を置いていた東北大学で担当した大学教育開放講座の記録だ。インターネットを語れば必ず登場する情報スーパーハイウェー構想が放送史の文脈で語られていることに気づきたい。発信者自身、こう述べている。
「情報スーパーハイウェー構想に向けての様々なアメリカでの動きがマスコミで報じられている。専門家は、この構想が今後どんな変化をもたらすのか予想に忙しい。しかし、これまでアメリカの放送はどうであったのか、どのように発達し、どのような問題を抱えていたのかを理解することも、この構想を理解する上で大切ではないだろうか。」(「情報スーパーハイウェー構想を理解する為のアメリカ放送史入門」)近視眼的にならず、全体を大きく俯瞰するのは、「変化を止めるとか、変化から逃れるとか、変化を無視するのではなく、変化を知った上でそれを受け止めた上で主体的に対処するための知識を得る上での一助にした」いという意識ゆえだろう(『デジタルメディアは何をもたらすのか パラダイムシフトによるコペルニクス的転回』国文社、1999年)。デジタルメディア論、あるいはメディア論といえば、即インターネットに話題が集中する傾向がある。そのなかで、ラジオやテレビといった従来メディアの生成と変容を語り、それに基づき、それと連続してデジタルメディアを論じるのが発信者のスタイルであり、魅力である。これは近年のデジタルメディア論に少なからず欠けているものではないだろうか。このスタイルとメッセージを深く受けとめたい。