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人々の網の目 - Web of People -

 研究者の個人サイトは数あるが、トップページを飾るグラフィックのためにデザイナーと独占契約を結んでいるのはここくらいだろう。才能にあふれる専属デザイナーの力作が出迎えてくれるこのサイトのオーナーは赤間道夫。愛媛大学法文学部総合政策学科に籍を置く経済思想史の研究者だ。
 心が安らぐグラフィックの真下に「First started, October 1, 1995」とあるように、既に5年以上のキャリアを持つこの老舗サイトの名はオーナーの名をかけた「Akamac HomePage」。
 サイトはAKAMAC E-text Links、AKAMAC E-text、Digital Volunteer Project、『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』という主に四つのコンテンツからなる。これらのメインコンテンツは、トップページに大き目の文字で列挙されており、ナビゲーションという点からもわかりやすい。

 四つのコンテンツ群のなかでも、Akamac HomePageの最大のアピールポイントになているのがAKAMAC E-text Links。「膨大な量のE-textが存在するだけに、特定の分野にかぎったリンクはそれなりに有益だ」との考えに基づいて編まれた電子テキスト(E-text)のリンク集。赤間の専門である経済思想史、社会思想史分野の電子テキストを収録対象としたリソースリスト。単純に電子テキストを羅列したわけではない。世界中に点在する電子テキストを人物という観点から結びつけた労作だ。実に一六〇人を超える著者はアルファベット順と誕生日順の二系統にわけて索引化されており、著者の略歴と写真も掲載されている。ここまでくるともはやリンク集より、データベースと呼ぶほうが適切だろう。それもクリック一つで時空を自由に行き来できるダイナミックなデータベース。まるでドラえもんの「どこでもドア」と「タイムマシーン」が一つになったようなデータベースだ。
 AKAMAC E-textは赤間のライフワークの一つといえそうなマルクスをテーマにした壮大なプロジェクトだ。なにしろあの大著『資本論』を原著のドイツ語のまま電子テキストにしようというのだ。既にある電子テキストをリンクで結びつける先のAKAMAC E-text Linksとは異なり、こちらは赤間自身が電子テキストの作成に携わっている。ドイツ語の『マルクス=エンゲルス全集』第四版をテクストにして、この全集の第23巻にあたる『資本論』の電子化が進められている。当初は一人で始めたものの、次第に海外の友人の助言や助力を得られるようになったという。志を立てて力を尽くせば、自ずと理解者は現れる。だが、後にみるように、なによりも赤間自身が他人の志を理解することに努めるからこそ、自分自身も理解者を得られるのではないだろうか。
 Digital Volunteer Projectは、かのグーテンベルグ・プロジェクトの日本語版を意識したボランティアによる電子テキストの作成プロジェクト。現在のところは日本語訳『資本論』のCD-ROM化を目標としている。このプロジェクトはまだ構想段階にとどまるところが大きいようだが、そのぶん大きなビジョンが描き出されている。いわく「大月、青木・岩波・新日本・河出などのものを包括した「完全版日本語『資本論』」のCD-ROM化」、そして「「英・独・仏・露・日対照『資本論』」の実現」。赤間自身が指摘するように、実現すれば出版史上に輝くものとなることは疑うべくもない。むろん実現は容易ではない。実現に要する時間も労力もはんぱではあるまい。しかし、あの『資本論』を比較・対照の視点から編みなおそうというこのプロジェクト。コストをものともしないだけの魅力があるではないか。ただならぬコストを承知した上で、それでもなお取り組んでみたくなる壮大なビジョンを描き出すところは、赤間の魅力の一つといえるかも知れない。
 四番目の『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』はマルクス・エンゲルス研究者の会が編集・発行する雑誌のページ。赤間が編集委員を務める同誌の最新号の内容と既刊分の目次が掲げられている。ウェッブの怖さはサイトを持たない者はときに存在しないものとして扱われかねないことだ。特にそれが企業や団体のような組織であればあるほど、この傾向は強くなる。であればこそ、独自にサイトを立ち上げることができない組織は、そのままただ時機をうかがうのではなく、形式にこだわらずにまず発信したほうがいいことがある。「我々がいるぞ」「ここにいるぞ」と。この『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』は、そういった自己の存在表明の一つのモデルといえるだろう。気張ることなく関係者が、自分の関わる組織を紹介するよう努められるかどうか。これは組織がその構成者にとってどのような意味を持っているのか、どのような価値を持っているのかを物語る。少なくとも『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』という雑誌は、赤間にとって自分がそこに関わっていることを無視できない存在であること、そしてて赤間に注目する者は無視してはいけない存在であることが察せられるだろう。

 赤間の活動はAkamac HomePageにとどまらない。いやむしろ、Akamac HomePageはあくまでも赤間の活動の一端を伝えるに過ぎないといえるだろう。赤間の活動を貫く一つの行動原理となっているのは、先にも述べたように常に他人を理解することに努めようとする姿勢だ。この姿勢はAkamac HomePageからだけでは、把握しきれない。Akamac HomePageを基点としつつも、Akamac HomePageを出たところでの赤間を知るべく努めなけれなるまい。まさに赤間が他者を理解する際の姿勢を我々も赤間に対して持たねば、赤間の世界には近づけない。
 赤間の活動をみていくと、まずはコーディネーターとしての顔に気がつく。既にみたように、ボランティアの協働を前提としたDigital Volunteer Projectはその一例だが、他にも日本経済学史学会<http://society.cpm.ehime-u.ac.jp/shet/>やメディアと経済思想史学会<http://member.nifty.ne.jp/MHET/>、コンピュータ利用教育協議会(CIEC)<http://www.ciec.or.jp/>での活動にコーディネーターとしての赤間の存在が感じられる。日本経済学史学会ではサイトの共同管理者を、設立発起人の一人でもあるメディアと経済思想史学会では研究会の司会を、コンピュータ利用教育協議会(CIEC)では会誌『コンピュータ&エデュケーション』<http://www.ciec.or.jp/ed/>(柏書房)の編集長をそれぞれ務めている。「ひと」と「ひと」とをつなぐ困難な仕事にこれだけ広範囲に渡って取り組んでいるのは驚きですらあるだろう。
 他者の理解、他者の仕事の理解に努める姿は、『コンピュータ&エデュケーション』誌で、歌田明弘さん、菅谷明子さん、古瀬幸弘さんら、注目の人物へのタイムリーなインタービューを実現してきた編集長としての仕事によく現れている。同誌が研究者や学生といった大学の人間だけではなく、いやそれ以上に小中高の現場の教員を読者層としているだけに、一連のインタビューを実現させてきた功績は小さくない。

 理解は定義へとつながり、評価と紹介へと進む。物事に虚心でかかり、固定観念にとらわれずにその本質を見据え、自分の言葉で定義するという赤間の社会科学の実践は、彼のこれまでの発言にもみてとれる。特に私的なサイトに多く見られる「自己紹介」や「プロフィール」に意味を見出し、それは「普通の市民生活を送っている人たちがそうした客観化する営為を通じての自己確認、アイデンティティの回復行為」、いわば「知性的活動を客観化するという行為」であると位置づけたことは特筆に値するだろう。この言葉、知的活動の成果であることが無批判に前提とされる学術情報の発信者の側から発せられているだけにその意味は大きい。
 自分の言葉での定義づけを経るため、その先にある評価と紹介には力がある。評価と紹介を受けた側がさらに先に進んでいくようエンパワーする力だ。労働史の研究者である二村一夫が自身のこれまでの著作を電子化して公開する「二村一夫著作集」に対して、赤間が発した言葉はその好例だろう。少し長いが引用しよう。

「それでもなお、二村の試みはいくつかの限界もあるように思う。第一は、著作集はすでに発表した印刷=活字をデジタル化したものにすぎないことである。印刷を前提にしながらもウェブ上でも読むことが可能になったところに評価の第一のポイントを置いたが、その裏側にこの印刷を前提にせざるをえない、文化・慣習があるからである。評者も含めて発表の場としては印刷メディアを抜きに考えられない現実をふまえれば、この限界を二村に負わせるのはあまりにも酷かもしれない。いずれウェブやインターネット上の(印刷を介さないという意味での)オリジナル作品がそれ相当に認知され、評価されるようになれば事態は別の展開になろう。第二は、ウェブ上の著作集編纂にかぎりない敬意を表しながらも、デジタル「化」(「 」に注意!)、つまりすでに一度印刷に付されたものの加工だということである。デジタル「化」は発表した作品の事後的措置であり、補助的手段にすぎない。実はこれも二村の試みそれ自体に限界を刻印するにはあまりに一面的であることを自覚している。しかし、ウェブ上の著作集は、著作集であるがゆえに新しい試みなのであって、内容を問わないとすればこれに類するリソースはかなりの数にのぼるであろう。デジタル「化」も機械的に処理できるわけではない。デジタル「化」に要する時間も考えるほど短くはない。そうしたことを考慮しながらもデジタル「化」のもつ限界を感じざるをえないのだ」。<http://www.ne.jp/asahi/coffee/house/ARG/compass-020.html>

二村の取り組みを「先駆的な試み」として早くから注目し、「従来の研究者のライフスタイルを一新するのみならず、知的産物の客観化作業の冒険でもある」と位置づけて、随所で紹介してきた赤間ならではの発言、赤間だからこその発言だろう。
 指摘は指摘のままで終わらない。指摘を受けた二村は後に初期の労働運動家である高野房太郎の評伝をウェッブ上で書き下ろすことを決めるにあたってこう述べている。

「高野の評伝を書くことはだいぶ前から考えていたことですが、このようにWeb上での書き下ろしに踏み切った理由のひとつに、赤間道夫さんが学術系オンラインジャーナルACADEMIC RESOURCE GUIDENo.37(1999.08.05発行)に「知的産物の客観作業の冒険 ――『二村一夫著作集』が意味するもの――」と題する論稿を寄せられ、このサイトに対し過分な評価を与えられた上で、以下のような問題点を指摘してくださったことに、少しでも応えようと考えたからでもあります」<http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/takanoden00.html>。

もはや説明を必要としない。ここからは赤間の言葉に二村がいかに励まされたのか、動機づけられたのかがよくみてとれる。赤間が批評し、それに二村が応えるという構図。ここに成り立っているのはまさに対話だ。この結果、赤間があらかじめ意図していたものかは定かではない。だが、一つ確かなことは、

「肝心なことは、インターネットを通じて「ひと」に問いかけ、得られた知識・情報を共有するコミュニティであることだ。「ひと」と「ひと」との無限の連鎖をつくりあげていくことが大事なのである。……。必要なことは、生身の人間の生き様、文化の交流であり、あらゆるインターネット神話を乗り越えて維持すべきコミュニティがこれである」。

という自身の信念が決して間違っていないことを、赤間は身をもって示したことだ。
 おこがましさを恐れずにいえば、ここに赤間の真価がある。これを見落とし、Akamac HomePageの枠内だけで赤間を語ることは意味を持たない。先に述べたようにAkamac HomePageを基点としつつも、Akamac HomePageを出たところでの赤間の言葉と行動を知るよう努めよう。そうすることは赤間の世界へと我々を近づけ、その世界を垣間見せるだろう。知へ接近しようとする我々を強め、知への接近を意味あるものとするだろう。(2001-08-13記)


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