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「デジタル・カレッジの夢と逆夢」
加藤哲郎(一橋大学社会学部教員)
21世紀を目前にして、百科事典のブリタニカ<http://www.britanica.com/>が、インターネット上にエンサイクロペディアを公開した。私もアクセスしてみたが、最初は一日百万アクセスとかでダウンしつながらなかったが、ようやく最近再構築したようだ。
日本橋の丸善<http://www.maruzen.co.jp/>から、戦前日本の社会科学文献の著者のご遺族について、問い合わせがきた。国立国会図書館<http://www.ndl.go.jp/>所蔵の戦前文献をデジタルデータ化する計画が進んでおり、著作権継承者の了解を得たいのだという。
著者の死後50年をすぎた書物は、すでに日本文学の世界では、「青空文庫」<http://www.aozora.gr.jp/>としてウェブ上で読めるようになっている。小熊秀雄とか葉山嘉樹とか、私もダウンロードして楽しんでいる。
もちろん、マルクス、エンゲルス<http://csf.colorado.edu/psn/marx/Archive/>はいうに及ばず、アントニオ・グラムシ<http://www.soc.qc.edu/gramsci/>、ハンナ・アレント<http://www.nakayama.org/polylogos/philosophers/arendt/>やヴァルター・ベンヤミン<http://pixels.filmtv.ucla.edu/gallery/web/julian_scaff/benjamin/benjamin.html>の世界でも、英文テキストでのデータベース化が進み、世界のどこからでもアクセスできる。この勢いでいけば、電子メールやメーリングリストの双方向性と組み合わせれば、新しい学問世界、新しい大学も、インターネット上で可能になるのではないか? そんなことを、考えてみた。
さしあたり、これを「ウェブ・ユニバーシティ」と名付けておく。イギリスのオープン・ユニバーシティや日本の放送大学<http://www.u-air.ac.jp/>は、映像での講義と郵送でのレポート往復・添削に集中スクーリングを組み合わせて単位と学位を与えているのだから、動画を含むホームページに電子メールを組み合わせ、ネット電話も使えるようになれば、論理的には、十分大学として機能しうるだろう。学生の募集も入学試験も、資源のムダになる紙を使う必要はない。すべてネット上で済ませればいい。
この大学は、キャンパスはいらない。「効率化」を基準とした大学経営も、教授会すら不要かもしれない。学生は、好きな科目の好きな講師を世界のウェブ上で選択し、それが単位として認定され蓄積されれば、学位になるだろう。ただし、卒業論文や修士・博士論文については、テーマの領域の数人以上の専門家の審査を必要とするだろう。
講義のためには、講師の方が努力しなければならない。レジメだけではない充実したシラバスと、講義ノート・データベース、参考文献のリンクやフィールドワークの周遊コースも、準備しなければならない。
コースの試験は、メールでのレポート提出と個別の質疑応答で足りる。むしろ、学生にホームページを作らせて、文部省<http://www.monbu.go.jp/>の喜ぶ第三者評価も可能にすればいい。卒業論文は、無論、ウエブ大学と学生ホームページの双方に永久保存される。
いや、社会的実践と理論的研鑽をふまえ、卒業論文が立派に更新されていけば、本人の申請にもとづき、ウェブ大学審査員がアクセスして再審査し、その内容に即して、修士・博士と上位の学位を与えていってもいい。この大学は、文字通りの生涯教育を可能とするだろう。
翻訳ソフトが発達してくれば、外国人留学生というカテゴリーも不要になる。国境を超えて、瞬時につながるのだから、別に身体の方は移動する必要はない。
いやむしろ、個々のウェブ大学は、それぞれ専門領域に特化するカレッジ方式にして、世界中の「ウェブ・カレッジ」をネットワークで連接し、単位認定や卒業要件のみに、グローバル・スタンダードを設定すればいい。自然科学はドイツ、文学はイギリス、アメリカで経営学を学んで日本文化論専攻、なんていう単位取得も可能だ。
もっと細かく、たとえば政治学の学位なら、日本で官僚制論、アメリカで合理的選択の行政学、フランスで政治思想、ドイツで政党論、スウェーデンで福祉国家論、イタリアで社会運動論、メキシコで開発政治論、インドで政治文化論、などという単位の組み合わせも可能だ。
要するに、講師も学生も、国籍は不要だ。ただ学問的努力と真理への接近のみが基準となる、文字通りのユニバーシティになる。これこそ本来の意味でのアカデミアであり、大学の誕生の精神そのものではないか?
だが、論理的・技術的には可能に見えるデジタル・カレッジの夢も、20世紀末の現実から出発すると、すぐに色褪せてくる。
学生の本人確認は、いかなる形で可能か? パスワードだけでは、簡単に破られる。試験のレポートは、本当に学生のオリジナルだろうか? キーワード検索で、いくらでも優秀な論文のコピー・改作は可能だ。アメリカの大学では、すでに問題になっている。
電子メールでの個人指導は、面接に代わりうるだろうか? 感情の起伏や内面の心理は、カウンセリングできるだろうか? そもそもインターネット時代の「コミュニケーション」「ふれあい」とは、何であろうか?
なにしろ講師の側に、超人的努力が必要とされる。小さな部屋にパソコン1台で済むとはいえ、24時間専門領域の最新の研究水準を追いかけて、それを学生に教育しなければならない。しかも、その最新成果そのものが、本物かどうか見極めなければならない。キーワード検索程度では、全然不十分である。
卒業要件・学位認定同様、研究上の著作権や特許権は、グローバルに設定されなければならない。だが、その認定はどうする? だれがどこで決める? どこかにセンターを設けて早いものがちにするという手はあるが、それが公開された途端に、瞬時で世界標準になる。
翻訳なる仕事は、ソフトが発達すると、学問とはみなされない。だが、言語のニュアンスの違いはどうする? 実際のインターネットは、英語帝国主義の世界だ。言語や文化の壁を、インターネットは本当に超えることができるのか?
そもそも講師は、どのようにして決める? 教授・助教授なんて本当に必要なのか? ある分野ですぐれていても、他の分野は素人の専門家は、いくらでもいる。だれがどのように教育資格を付与するのか? その審査の基準は何か? 結局学位と同様に、グローバル・スタンダードのもとで、系列下せざるをえないのか?
ある領域の教授が、他の領域の学生ということもありうる。相互に単位を認定しあう麗しい自己満足も可能だ。もちろん、それを仲介するビジネスは、たちまち生まれるだろう。かつてのモザイクがネットスケープ、エクスプローラーに取って代わられたように、論文検索ソフトや加工改作ソフトのニュー・バージョンが横行し、やがて、各分野に代筆業者が現れるだろう。
それが貨幣で売買されれば、知の世界も、グローバル市場になる。某宗教団体トップの熱望するノーベル賞だって、改作技術次第で容易になる。そんな学位や褒賞に、いったいどんな意味があるのか? 影響力や権威はたちまち権力に転化し、創造的研究の妨害ウィルスや攪乱ウィルスが蔓延して、ジョージ・オーウェル風逆夢アカデミアが生まれてくるだろう。……
だから、ウェブ・カレッジの夢は夢のままにして、さしあたり、伝統的活字文化や旧態依然たる学術教育体制へのゲリラ戦を考えよう。
最新の読売新聞調査では、20-30歳代の3分の1は、月に1冊も本を読まないとか。長期低落の活字世界を尻目に、インターネットの方は、確実に広がっている。学校教育でも、まもなく必須になる。そんな段階での現実的オータナティヴを、二つ、三つ。
まずは、あらゆる活字論文に電子メールアドレスを併記し、情報公開と読者の批判をあおぐ慣習法をつくろう。それは、研究者自身にとっても、役に立つはずだ。学会の蛸壺的・同業組合的コメントより、よっぽど有益な批判や示唆を得られるだろうから。
『書斎の窓』11月号<http://www.yuhikaku.co.jp/shosai/mokuji1999.html#1999_11>を読むと、松浦好治「ネットワーク時代の法学入門」には、上述「ウェブ・カレッジ」の萌芽となる、ネット教育の豊かな体験が書かれている。惜しむらくは、文末は「大阪大学大学院法学研究科教授」とあるだけだ。ところが、同じ号の森彰「大学における英語教育の改革の試み」には、「東洋大学経営学部教授 mori@*****.toyo.ac.jp」と、ちゃんとメールアドレスが記してある。
私は、『歴史評論』10月号特集「歴史学とインターネット II」<http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/rekihyo/594-contents.html>に「インターネットで歴史探偵」を寄稿して、そこで「活字論文の文末に著者の電子メールアドレスを載せ、読者の批判やコメントを求める方式」を提唱した。無論、自ら「katote@ff.iij4u.or.jp」と末尾に記したが、驚くべきことに、この雑誌の版元は、版権をたてに1年間はインターネット上での発表を許さないということで、未だに予告した私のホームページ<http://www.ff.iij4u.or.jp/‾katote/Home.html>には収録できないでいる。出版文化中心主義の旧弊は未だ根強いが、まずは隗より始めよだ。
第二に、研究・教育労働者は、文部省学術情報センター<http://www.nacsis.ac.jp/nacsis.index.html>の枠や、履歴書・講義案内だけの大学公式サイトを飛び出して、自らホームページを開設し、自己責任で運用しよう。リンク集を見るだけでも、それぞれの研究・教育内容は、ずっとわかりやすくなる。顔がみえなくとも、ネチズンの相互交流は始まる。ただし、手紙や電話・ファクスでのコミュニケーションも、排除しないようにしよう。
日本のインターネット社会学の世界で、すでに確固たる定番の位置を占めてきた「ソキウス」<http://socius.org/>の野村一夫さんが、今春から法政大学大原社会問題研究所<http://oisr.org/>の「デジタル・ライブラリー」<http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/dglb/>運営に加わり、ニューズレター「OISR-WATCH」<http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/about/watch10.html>を編集している。もともと本誌ではおなじみの、二村一夫さんが運営していた日本の人文・社会科学の最先端サイトを、ウェブ上での業績・実績が高く評価されて、野村さんが引き継いだかたちだ。
私とインターネット上で「知識人論争」をしたことがある「市民のための丸山真男ホームページ」<http://www2s.biglobe.ne.jp/‾MARUYAMA/>H・田中さんのホームページ内論文を、政治学者の田口富久治さんは、最新の活字論文「丸山真男 プロス・アンド・コンス」(立命館大学『政策科学』7巻1号、1999年10月)で、学術的に引用している。残念ながら、H・田中さんのホームページURLは省略されているが。
今後は、活字論文にも、URLの注が普通になるだろう。私自身は、『思想』1999年1月号の「思想の言葉:短い二〇世紀の脱神話化」<http://www.iwanami.co.jp/shiso/0895/kotoba.html>以来、URLを文献資料と同等に扱い引用するようにしている。
第三に、特定領域での研究会や情報交換ネットワークをたくさんつくり、できるだけオープンに、議論を展開していこう。チャット方式では冷やかし・いたずらメールがたえないなら、メーリングリストでも、パスワード方式でもいい。ウェブマスターは、輪番制がいいだろう。しかし、少なくともその成果は、ウェブ上で公開すべきだろう。また、顔の見える会合も、年に一度は開いた方がいいだろう。
すでにウェブ上には、無数の学会・研究会が、ホームページを開いている。研究会案内やニューズレターが、ホームページと電子メールのみの学会も珍しくない。
たとえば、去る10月末の日本思想史学会シンポジウム「丸山思想史学の地平」<http://www.twcu.ac.jp/dept/history/hist/shisoshi.html>のように、ウェブ上で参加をよびかけ、大学・研究機関勤務者のみの閉じられた学会から、普通の市民が参加できるオープンな学会へと変貌しつつある例が現れたのは、頼もしいことだ。
ウェブ・カレッジの夢は、いまのところ、既成システムの補完と改良になりそうだ。だが、いま確実に起こっている変化は、やがてはこうしたゲリラ戦を、塹壕戦・陣地戦へと変えてゆくであろう。いまや、アカデミズムの世界でも、「静かなる革命」が、進行しつつあるのである。
(E-mail: katote@ff.iij4u.or.jp; URL:
http://www.ff.iij4u.or.jp/‾katote/Home.html)
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[編集部注記]
文中で紹介されている森彰さん(東洋大学経営学部教員)のアドレスについては、プライバシー的な側面を考慮し、一部を無意味な記号で置き換えてあります。