千利休は、今でいえば、イベント・エグゼプティブ・プロデューサー

余りにも有名な人なので、

このサイトに来て下さった方は、ある程度はご存知のことと思いますが・・・

ここでは、私が知ることの出来た範囲で、簡単に書いてみます。

詳しい解説は、多くの一般書・研究書が出版されていますので、

それぞれの興味に応じて、お求め下さい。



【もし、名刺を持っていたら・・・】

千利休は、 現代で言えば、

国家規模での交渉の場や、国際見本市等における

総合プロデューサーとして「人」「物」「金」「時」を扱った、当時としては稀有な人。

と考えて良いのではないかと思います。



利休が与えられた、戦国時代の 「茶堂(頭)」という地位は、

公式な接待業務の一切を取り仕切る役目を担う役職で、



利休の仕掛けた、様々な創意工夫が、招待客の魂を揺さぶり、接待役という肩書

を超えて、親交が深まっていったことが、数多くの『茶会記』から読みとることが出来て、

これらの確かな人脈が 以後、当時の政財界に影響を及ぼしたようです。

おとなしく畳に座って、静かに茶筅を振っていただけでは、こうはなりません。



晩年、侘び茶を深く追及して行ったことから、

本来はそれを望んではいなかった、という研究もあるらしいですが、

21世紀の今、茶道が「おもてなし」の一つの形として、実社会に活かされ、

あるいは世界に発信されようとしているのであれば、

わたしたちにとっても、知る価値はあるのだろうと思います。



【参考】千利休がプロデュースした茶会の主催者
1565年(43歳) 松永久秀(*)
1573年(51歳) 織田信長
1575年(53歳) 織田信長
1582年(60歳) 織田信長
1585年(63歳) 正親町天皇への献茶(豊臣秀吉)
1587年(65歳) 北野大茶湯、出展800団体超。(豊臣秀吉)
                        (*)京都「山科」20万石城主



【現代を生きる私たちの、目標となる人物として】

景福庵では、この先人を範として、

現代社会を生き抜く力を身に付けることを目標の一つとしています。


茶道を学んで行くと、


現代人が、あらゆる職種・集団生活で求められる、

コミュニケーション能力・・・礼儀作法・・・自律やする力などが、



500年ほど前(室町後期)から試行錯誤がはじまり、

400年前(織田・豊臣)に利休によって確立され、

その後(徳川、近代実業家)の政財界で重用されていたものと

合致する事実に出会って、驚かされます。



そこから、茶道が単なる趣味のものではないこと、

花嫁修業として、未婚の女性だけに押し付けられるものではないことに気付かされます。



利休の師(武野紹鴎)の師である殊光(=しゅこう、村田姓が付く場合もあり)が記した

『心の文』の中に 「茶の湯の目的は人間としての成長」という記述があります。

そこからも、女性のみに学ばせようとした特異なものではないことが分かります。



【物からも心からも無駄を省く。という強い信念】

極限まで無駄を省いた「わび茶」を、諸々の所作と思想を、実際に体感することによって、

500年の実績に基づいて、効率的に身に付ける、

日本人のために特化した 《社会人基礎力*》 の養成システム。

それが茶の湯だと断言して良い。と私は考えています。


                               *経済産業省のページを参照下さい。


【参考図書】

『秀吉の知略「北野大茶湯」大検証』
竹内順一・矢野環・田中秀隆・中村修也
淡交社

斉藤康彦
 『近代数寄者のネットワーク〜茶の湯を愛した実業家たち』
(平成19年〜21年 日本学術振興会 科学研究費)
思文閣出版

他、多数。