徐福は日本へ来たか
 
 徐福はほぼ紀元前210年頃、中国大陸を初めて統一した秦の始皇帝の命で「不老長寿の薬」を求めて蓬莱という地名を目指し東へ旅立ちました。
 
 それから400年少し経った紀元後220年頃、倭の奴国から中国へ貢ぎ物を届けたのは「女王卑弥呼」です。
 それはやはり中国の史書、後漢の次の三国時代の一つ、「魏志倭人伝」に書かれています。(魏は三国の中で日本に一番近かった)
 このことは日本の学校教科書にも登場し、日本の初めての国家の誕生を推測する大きな拠り所となっています。
 現在の所、女王卑弥呼の国が九州にあったのか大和にあったのかが歴史家の間で熱く議論されています。この女王卑弥呼が日本の歴史の誕生を推測するのに大きく扱われているのに比べ、何故かそれよりも前の徐福のことはあまり扱われていません。
 
 私は97年頃約2年奈良に住んでいました。その時地元「二上山」で「日本の国家の始まり」とか言う講演会がありました。名のある学者を呼んで日本の歴史はどこから始まったか、の話でした。講演の最初に「私は当然それは奈良であると信じている」という前置きから講演が始まりました。それを聴いた聴衆が大きく拍手しました。
 その5年ほど前、九州で同じような講演会があり、新聞でその要旨を読みました。その時も当然のように「歴史は九州から始まった」と書いてありました。
 いやあ、本当に地元の熱意はすごいと思いました。
 
 そこで話を徐福に戻しますが、詳しいことは中国の司馬遷が書いた「史書」に書かれています。しかし彼の行き先が本当に日本だったのかどうか、明確な証拠はなく、日本の幾つかの場所で徐福の一行が来たと言う伝説が残っているそうです。和歌山県の最南端の新宮市で徐福を祭った墓もその一つです。その墓は徐福公園と言う名前が付いています。
 
http://www.kumano-navi.com/shingu/miru/cource/johukuindex.html
 
その徐福公園の案内にはこう書かれています。
 「日本全国、徐福伝説は数多くありますが、ここ新宮市も徐福が上陸し住んでいた土地と言われています。
 徐福公園は、徐福の墓を中心に建てられたもので、極彩色の中国風楼門が目を引きます。中の売店には風水メジャーや三国志トランプなど変わったものが置いてあり、地元の人でも楽しめると思います。
 この徐福伝説コースは、かなり細い道を行くことになるので、塚町重臣碑をすぎたあたりで不安になるかもしれませんが酒屋やポストを目印にして、阿須賀神社までたどり着いて下さい。」
 
 02/9/2日、私がたまたま訪れた八丈島も、伝説地の一つです。
八丈島「名所旧跡と温泉のしおり」というパンフレットの表紙にこう書かれています。
    八丈民謡 しょめ節
 南風だよ皆出ておじゃれ
  迎え草履の紅雄花
    野口雨情 作詞
    八丈民謡 
 続いて解説があり、「昔、秦の始皇帝の命を受けた徐福の従者が八丈島と青ヶ島へたどり着き、南風が吹くと青ヶ島から八丈島へ渡ったという伝説を、後に野口雨情が作詞したものである」と書かれています。
 
 ここで注意したいのは徐福本人ではなくその従者と書かれていることです。
 徐福は五千人くらいの船団を組んだと言われていますから、その内の一部の人達がここへ流れてきたのかも知れません。
 
 ただこの「しょめ節」というのは、現在発売のCDの中には次のように説明されています。
八丈島で明治の中期に生まれた盆踊り唄で、島人の生活と強く結びついています。
音頭取りがショメーショメとはやし、踊り手が「ひちゃひちゃ」といいながら踊ったため、「しちゃしちゃ(ひちゃひちゃ)」と呼ばれる。(八丈島誌 より)
 
沖で見たときゃ鬼島と見たが、
来て見りゃ八丈は情け島〜イ
(ショメーショメーイ)
わたしゃ八丈のかやぶき屋根よ、
かわらないのがわしの胸〜イ
(ショメーショメーイ)
 
では本来の徐福の話に戻ります。
yahoo china に”徐福”で検索したものを次に翻訳して紹介します。
 その中に「史記」も出てきます。
1.台湾国立博物館 のホームページ
 
 秦の始皇帝の時代徐福が東に出かける。 秦の始皇帝は必ず不老長寿の薬があると信じ、燕国および斉国辺りに済んでいた仙術士、徐福にそのことを頼みます。
 徐福は皇帝の迷信を聞き入れ、次のように言います。
「その薬は東方の海上にある島の蓬莱と言う所で、三方山に囲まれ仙山とも言われている。その土地は年中春のように草花が咲き乱れ、蜂や蝶が飛び交い、風景秀麗でその美しさは何処にも負けない。そこに住んでいる人達は誰も童顔で老いても溌剌としており、青春の気が何時までも残っている。彼等は不老長寿の薬を飲んで死ぬものは居ない。」
 
 これを聞いた皇帝はそれが欲しくて我慢できなくなり、天地は自分のものであり、何処の何であろうと自分のものであると考え、徐福にその薬を取りに行くよう命じます。
 
 歴史上どの皇帝も不老長寿を願った。これは一種の職業病である。
 そして徐福に対しそこへ行くための必要なものは全て準備しようと、催促します。
 こうして徐福は三千人の青年男女を引き連れ、金銀財宝、糧食衣服を整え、船を準備し出かけた。しかしそのまま彼は引き返さなかった。
 有る伝説では彼は日本に到着したと言われている。がこれに対し学者の中には異論がある人もいる。
 その一説で、徐福は不老長寿の薬の存在を信じていなかった。「蓬莱」という地名も架空である。彼は最初から遠くへ逃れるつもりで出かけたのであって、帰るつもりは無かった、と言うのがある。
 
 そして始皇帝は何時までも徐福の帰りを待ちわびた。ついに50歳を超えて亡くなるまで皇帝は待ち続けた。
 
 歴史家は言う。始皇帝が一生の内で受けた最大の残念な、愚かしいとも言える、物語であった。
 逆に頭脳聡明な徐福は口一つで皇帝を騙し、しかも徐福は歴史に名を残したのである。
 
 台湾のHP翻訳は以上です。
 
(ところでyahoo chinaに何故台湾語が現れたかというと、”徐福”の2文字だけは中国のGBというコンピュータ言語表記方式と台湾のBIG5という方式とも同じ記号だったようです。他の文字は全て文字化けします。日本も韓国も言語表記方式は違い、文字化けします。)
中国語の辞書はこの「GB」と「BIG5」の両方に対応しています。
 
2.徐福、日本へ行く(中国大陸のHP)
 
 中日両国は一衣帯水の隣国である。現在は飛行機や船で簡単に行き来できる。しかし秦の時代、科学技術はまだあまり無く、中日の間の大海を渡ることは簡単なことではなかった。
 秦の始皇帝が中国を統一した後、紀元前221年から紀元前210年の間に彼は5度天下を見て回った。その内4度海岸を巡視し、海岸一帯の支配を広げ国防を強化する大きな希望を抱いた。その中でも一番大きな印象を持ったのは現在の青島、膠南県沿海の地。彼がそこの高台に登り大海原を見たとき、皇帝としての行く末とやがて来る死を考え心は乱れた。自分の強大さを海の向こうまで誇示し、それを実現するための長い人生を全うできることを強く望んだ。
 こうして彼は術士「徐福」にそのことを伝えた。
 
 司馬遷の「史記」の中で、”徐福”は斉の人となっている。現在この斉をめぐり、2つの地で「徐福の生地」を主張しあっている。一つは山東省青島市膠南県、もう一つは江蘇省である。共に徐福の故郷として主張し有っている。
 共に徐福研究会や碑が有り塑像が立っている。まだどちらが正しいとも確定していない。
徐福はおそらく海と関係していたと思われるが、しかし司馬遷は彼の故郷を詳しく書かなかったので、現在に至っても両地で争いが絶えない。
 徐福が相当な数の人数を集めどこから渡航に出かけたのかも、現在議論となっている。秦皇島、舟山、海州湾、蓬莱、成山頭、郎耶、等々である。一番有力なのは最後の郎耶である。
それは皇帝がここへ3度巡回し、海を鎮める為の祭りの台地を築いていたからである。
 
 史記の中に徐福が渡航したのは2度以上と書かれている。また、青年男女三千人と各種食料を整え出航した。
 これを学者が研究して船の数は約70から80艘、船のこぎ手や各種従者、工事人、或いは弓を射るもの、戦の指揮者などを数えて計五千ないし六千人に上ったはずだと主張している。
 又史記の中に、徐福が上陸したのは大きな平原であったとなっている。しかしこのような所は現在の日本には数多くある。日本は四つの大きな島と約三千以上の島から成り、その総面積は37.67平方キロあり、その内24%が平原である。
 香港の学者は徐福が日本に到達したのはほぼ間違いない事実だと言っている。和歌山県の新宮市も可能性有りと言うことだ。
 
 徐福が日本に渡ったと言う記載は史記以外に、”三国史”、”呉書”、”呉主伝”の中にも登場し、「黄龍二年春正月、始皇帝が術士徐福に不老長寿の薬を探しに出かけることを命じ、青年男女数千人と共に海に出た。大半は帰還できなかったが、一人夷州の人が還る。」となっている。
また”后漢書”の中に「皇帝は徐福をして倭の国の方へ派遣」と書かれ、また”義楚6貼”の中に「日本国は別名倭の国という。東の海の中にあり、秦の時代徐福が五百の男女を連れてその国へ行った」、と書かれている。それらの書に書かれている最初に到着した地名は現在の九州種子島ではないかと言われている。
 また日本人が書いた”異称日本伝”の中には、目指した土地の名前は日本であると主張している。
 以上から見ると誰もが徐福が行った先は日本だと言っていることになる。
 当時大海原を越えて日本に到着することは人類史上偉大な業績である。現在日本各地に徐福の遺跡が伝説として残っている。
 
 徐福は秦時代の先進的農耕、養蚕、医薬技術を持って日本に行った。それは日本の農業、養蚕、紡織、医薬業、等に大きな進歩をもたらしただろう。当然彼等は日本人から大切にされ、大きな尊敬を得たであろう。徐福は中日両国民にとって永遠に残る友好の使者である。
 
 以上で中国の徐福の翻訳は終わりです。
 
 紀元前210年頃というと日本では前期弥生式時代となっています。まだ文字もありません。
(文字はずっと後の600年頃、隋の時代に「漢の字」として、発音記号として使われました。文字はないけれど言葉はありました。)
 おそらく人々の集団も小さなものだったのではないでしょうか。そこへ大量の異国の集団がやってきて、迎えた人々の驚きはいかほどだったでしょうか。
 彼等が日本に持ち込んだ進んだ技術が日本の文化を大きく進歩させたのは、紛れもない事実でしょう。
 この原稿を書いていて浮かんだ幾つかの疑問と感想を書いて終わりにします。
 
a. このような事実が歴史的な功績として何 故大きく扱われないのでしょうか。
b. 八丈島にも従者が来たというのは、おそらく船の集団が嵐か何かで幾つかに別れてしまったのではないでしょうか。そうすると日本の幾つかの土地に彼等が分散して上陸した可能性があります。大海に沈んだ人も居るかも知れません。 
c. 徐福が何故青年男女を多数選んだのか。海の向こうで一つの新しい社会を作って、住むつもりだったのでしょうか。
 
以下は日本にある徐福関係のHP です。
 徐福公園 和歌山県新宮市新宮7178 
  http://www.jofuku.or.jp/index.html
 青森県小泊村
  http://www.jomon.ne.jp/~kodo1/index2.html
 山梨県富士吉田市
  http://www.city.fujiyoshida.yamanashi.jp/ 
 東京都八丈町
  http://www.town.hachijo.tokyo.jp/ 
 三重県熊野市
  http://www2.dango.ne.jp/kumanosi/ 
 宮崎県延岡市
  http://www.city.nobeoka.miyazaki.jp/ 
 佐賀県佐賀市
  http://www.city.saga.saga.jp/ 
 佐賀県諸富町
  http://www.town.morodomi.saga.jp/ 
 佐賀県武雄市
  http://www.saganet.ne.jp/takeo/ 
 広島県宮島町
  http://www.hiroshima-cdas.or.jp/miyajima/ 
 京都府伊根町
  http://www.pref.kyoto.jp/noson/taiken/inecho/inecho.html 
 京都は次の丹後半島のHP が適当 
  http://www.bombit.jp/tango/nazo/densetsu/zyohuku.html
 
 鹿児島県串木野市
  http://www.minc.ne.jp/kushikino/index.htm 
 佐賀県
  http://www.pref.saga.jp/syoukou/kankou/info100
 
 
 最後に、もし上記以外に徐福の伝説地をご存じなら教えて下さい。
 
      再見
           2002/9/20