山地先住民の祭り
  (九)  九六・七

 今台湾では連日三十三度前後の気温が続いています。昨年は恐ろしいほどの暑さに感じましたが、今年は少し身体が慣れて来ているように思います。その代わり日本の春に一時帰国したときはその寒さが身にこたえました。今年の冬には台湾人と同じように長袖を着るようになるのでしょうか。
健康に関していえば、私は網膜に傷が付くというびっくりするような経験をしました。片方の視力が落ちてきたので検査して解りました。これは結論を先に言えば大きな病院でレーザー光線で焼き付けて一応完治しました。
 初めは台湾で手術するのは非常に危険を伴うので日本に帰るべきだとか、周囲の人も巻き込んで大騒ぎでした。
 しかし病院に通ってみて解ったのは台湾の医者とその技術は世界のトップレベルであることが解りました。医者はアメリカへ留学して来た方が多いようです。多分コンピュータの分野の技術者がアメリカのシリコンバレーで働いたことのある人達で、帰国後その技術で今日本と並んでめまぐるしく発展している業界の先端を走っているのと似ているのではないでしょうか。
 何しろCDーROMの十倍速を売り出す予定といいますからすごいことです。(日本では今は四倍速が普通です)
 同じ職場の男性が同じ頃心臓移植手術を受けました。そして丁度交通事故で亡くなった人の心臓をもらって、治療経過も良くて台北市北端の陽明山に登っているところがテレビに紹介されました。その男性はタバコが好きで、呼吸器官の七割近くがヤニで詰まっていたそうです。彼の奥さんはとても美人で入院の頃は本当に心配していました。

 七月二十七日職場の少姐が職業野球(職棒球)の観戦に誘ってくれました。ほとんどの少姐は通勤にスクーターを使っています。それで私は公共汽車(バス)に一人で乗って待ち合わせの球場に行きました。近いところなら少姐の後ろに乗るという方法もあります。だいたいは前が男性で後ろが少姐という姿が多いようです。
 ついでですが、その後ろに乗っている少姐はスカートをまくり上げてまたがるので日本から来た男性達はその白い脚に強い好奇心を感じるようです。一般的に。
 誘ってくれた少姐は少し日本語が出来ます。それで野球の観戦中いろいろと解説してくれました。用意された席は外野席の一塁側で、当日の「兄弟」チームの応援です。対するは「味全」チームでこの数年「兄弟」チームが優勝しています。ここ台湾の職棒球の監督は全部日本人です。言葉の壁をどう乗り越えているのでしょうか、気になります。
 「兄弟」チームの監督がある雑誌で述べていましたが、ここでは大事な試合があっても、デートで休む選手もあるとのことで、日本のスポーツ界にある上からの命令だけで統率を取るやり方は通用しないとのことです。しかも外国選手(ドミニカがほとんです)は全員の体操の時も一人で皆と離れて体操をしたりするのでそれもそのまま許しているそうです。ただしこのことを他人の前で話せるのは昨年優勝したから出来る話だと新聞記者に漏らしています。
 試合が始まると球場一杯の観衆が大声援を送ります。(球場は一万人収容なので満員になっても球団側に利益が出ないそうです。一人百二十元。)
 大体は「加油」(がんばれ)とか、「全塁打」(かっとばせ、ホームラン)とか、「我愛弥」(好きよ)とか、勿論中文で叫びます。敵の投手が投げる構えを見せると歓声と笛とヤジが始まって、多分投手のいらだちを最大に煽って投球を乱そうとするのでしょう。投げ終わるまで続きます。味方がヒットを打ったときは二本の加油棒(ビニール製)を叩いて激励します。外国だから、誘ったのが女性だから野球の観戦に来ましたが、日本にいるときは行ったことがありません。まあ、来てみて解ったことですが選手を応援することである程度観戦者も試合を創り出しているような気持ちに少しはなります。
 この日は「兄弟」の三番打者が三回も二塁打を打ったり四番の外人選手(翌年巨人に来たルイスです)が全塁打を打ったりして、十一対二で勝ちました。しかも七回になると押さえの投手に一五四キロの早さの球を投げることが出来るやはりドミニカの選手を投入しました。ちなみに四番打者の名前は「路易士」で押さえの投手は「労渤」と漢字で登録されています。
 台湾ではほとんど全ての外来語に漢字を当てています。日本語に直せば前者が「ルイス」で後者が「ラオポー」でしょうか。
 ついでに紹介しますと、今台北市にドーム球場が計画中です。王監督が相談役として来たことが新聞に出ていました。

ルーカイ族
 七月十七、十八日には台東市の近くで「ルーカイ族」の新年の儀式を見てきました。その日が彼ら山地先住民の新年のお祭りということで約千人が集まりました。それを見ようとして観光バスなどもやってきました。台東市は大きな工場もなく、これが台湾なのかというくらい空がきれいでした。山々がいくつも重なって、その所々に白い雲が太陽の鮮やかな光に輝いていました。
 その山の麓の河原にテントを張って広場の真ん中には高さ二十メートル以上の三本の木で櫓を組んでロープをぶら下げてあります。ルーカイ族の参加者達は、男は頭に骨の飾りを、女達は赤や青の衣装に頭には無数の金属製のかんざしのようなものをぶら下げています。各部落の名前を書いたテントの中には老人達が朝から酒を飲んでいます。各部落ごとに男女別に腕を組んで広場の中で円形を作りながら踊りだしました。広場の真ん中のロープには若い女性が一人ずつ交代に乗ってそのロープを二人の男性が綱をつけて大きく空高く振り上げます。これは女性なら誰でも乗せてもらえるそうで、希望者がテントに大勢集まって居ました。その顔色はとても色白に見えます。後で聞いたところによりますと、彼ら山地先住民は、現在では平地に住む人と山地に住む人とが居るそうで、色の白いのは平地の部落ではないかということでした。 
 一個のテントの中に楽団のような人たちが居て太鼓を中心に電気ギターも加えて踊りのリズムを導いています。ドンドコという、大体は四拍子の音が大地を這うように何処までも続いていきます。少姐達のかんざしの金属製のきらびやかな音がしゃんしゃんと山々を越えて遠くの方に響いていきます。
 彼らの中には裸足で踊っている人も居ます。多分台北で買ったと思われるようなきれいな革靴を履いている少姐も居ます。
 その顔立ちは眉毛が濃く沖縄やアイヌの顔立ちと似ています。誰も逞しい身体で痩せている人には出会いませんでした。
 日本の週刊誌で読んだのですが、日本人の顎の骨を調査した学者の報告によりますと、五千年ほど昔台湾のもっと南から太平洋に沿って民族移動のようなものがあって、ここ台湾へ移動してきたらしいとのことです。その移動は日本列島にも流れていったのではないかと言うことです。
 その後日本列島の場合は中国大陸から移動・流入が有り、その後朝鮮半島からの移動が有って現在の日本人が構成されたのではないかという説が紹介されていました。とすれば今目の前に見ている人達が私の原始に近い姿なのでしょうか。
 その日は強烈な太陽が照りつけていました。暑さを逃れて部落のテントに近づくと年寄り達がすぐに私を見つけて日本語で話しかけてきます。「おい、この酒を飲め」と。年寄り同士が「さあ、もっと飲まんか」と肩を組み合って、もうへべれけです。その酒は粟焼酎だそうで、つまみはタニシを小さくしたような川にいる貝です。時々は蠅がたかってきています。
 彼らは普段も日本語を話す人が多いそうです。彼らは台湾語が話せません。
 現在平地で住む人たちは、高校へ行くようになって街の人たちと付き合うようになると台湾語を学びます。国民党が来てからは家庭では中文(北京語)です。テレビもあります。有線放送を契約すれば日本語番組がいくつもあります。百年前まで首狩りの習慣を持っていたことを考えると、私は歴史の変わっていくその一端を見ているような気分になりました。
 テントの半分ほどは売店風で飲み物を売っています。ルーカイ族の衣服も売っています。おみやげ店では明治三十八年の日本の一円硬貨も置いてあります。
 頭にかぶる骨飾りも有ります。もしここまで日本の観光客が来ればたちまち売り切れるほどの安さと興味ある品々と私には思えましたが、さすがにここまで来る日本人は居ません。(台北から飛行機で四十分)
 当日の新聞によりますと、男子は十二歳になると各部落ごとに厳格なスパルタ式の教育を受けるとのことで、深夜に遠くの山の中まで一人で探検に行かされたりします。
 
最近日本で発行された「宝島社」の「台湾」という雑誌によりますと、世界大戦末期に彼ら「高山族」は(当時はこう呼んでいました)日本人として誇りを持って徴兵に応じたというルポの記事が載っています。(徴兵は終戦の二年前から行われた)
 台湾を統治に来たのは日本の海軍です。海軍では徴兵というのは終戦切り切りまでなく、試験で採用していました。試験に通ると、船に乗って世界の港を巡って航海の練習をしました。そのため当時の世界の情勢は全員が知っていたということで、軍のトップは日本軍の敗北さえ予想していたのではないかと、これは日本人の戦争に参加した高齢者に聞きました。陸軍ではほとんどが徴兵だそうです。 
 この辺が朝鮮と台湾の統治の仕方の差に現れているのでは無いかという意見でした。台湾人の中には、大陸よりも日本人に親しみを感じるという人が大勢居ます。四十代以上では普通ではないでしょうか。

     テレサテン

 登麗君(テレサテン)が亡くなって早くも一年が経ち彼女の生い立ちや生涯や死因を追跡したりした本が何冊か出ています。私は徳間書店の「テレサテンの真実」という本を読みました。
 台湾に来て居るが故に感じたと思う点を幾つか述べたいと思います。

 一九七〇年代彼女は テレサテンと言う芸名で日本人に愛されました。彼女は子供の頃から芸の道に入ったのですが、日本に来たのは一九八〇年代の数年のみで、その頃の日本での芸名がテレサテンです。彼女を賛美した人数ですが、美空ヒバリは一億の日本人に愛され、登麗君は十億人以上の中国語を話す人に愛されました。大陸では資本主義の害悪として禁止されたにも関わらず、昼間は「登」(小平)が支配し、夜は登麗君が大陸を支配するとまで言われたそうです。南北両アメリカの人達も彼女の英語の歌に感銘していたということです。その合計は二十億人に登ると説明されています。これは単なる言語を使用する人間の数の問題かもしれません。
 しかし日本語が地球上では全くの少数派であることを明確に示しているのではないでしょうか。
それと彼女が亡くなったタイ国チェンマイの土地の問題です。国民党が海路を通って台湾へ逃げてきましたが、他方ミャンマーを通って南下した隊があってそれが現在世界の阿片の七割以上を生産する黄金の三角地帯を創り出したと言うところです。大陸への反攻を助けるために米軍がそれを援護したと言う説明が有ります。
 ついでに言えば、その大量の麻薬の輸送には、各国の税関の通過が必要で、これも又米軍の協力無しには不可能だという新聞記事に何度かお目に掛かったことがあります。
しかしこの問題は今後とも長期に渡って世界の闇の世界に強く影響し続けるのではないかという気がします。
 最近のアメリカの小説を読むとどこの家も「薬」を吸う場面が登場しています。
 そして現在では麻薬の買い手市場として狙われているのは明らかに日本ではないでしょうか。

 登麗君はチェンマイにフランスの青年と五年間ホテルで過ごしました。香港の大富豪との恋に破れた後のことでもあったのでしょう。初めの二年間ほどは仲が良かったと紹介されています。しかし次第に心が落ち着く間柄ではなくなっていったようです。フランスの青年は金と暇があり仕事がない状態ですから、やがてホテルを一歩出れば待ちかまえる「薬」の誘惑。「薬」は身体が火照り、部屋のクーラーで温度をどんどん冷やし、そして部屋にもうもうと溜まる煙 。これらが登麗君を喘息の発作に倒れさせたということです。

 登麗君と美空ヒバリの境涯がとても似ているところも注目しました。登の父親は国民党下級兵士として台湾に来たために大変貧乏な生活で、そのため登麗君に中学を途中退学させて酒場などで歌わせました。彼女は親しい友達に自分には少女の時代はなかったと何度も嘆いたそうです。
 この本の紹介で最後に強く印象に残ったのは、軍との協力です。八年前まで戒厳令下の台湾です。一人の少女が簡単に出国出来るわけが無く、また世界的に有名になった後の彼女を台湾当局が利用しないはずがないと言う推測があります。その裏付けも幾つかされています。それに比べれば日本の美空ヒバリはそういう政治的・国際的謀略の世界とは無縁に過ごせたのではないでしょうか。登麗君はそういう政治との関連の中で世界を駆けめぐりながら、自分の少女時代を取り上げた、母親を乱暴にあつかった父親の葬儀には帰国しないと言う選択をしました。

 今年の始め台湾の「四海」という暴力団の親方二人が殺されました。その葬式には高級車「ベンツ」が三百台参加したとのことです。乗馬姿の人も十人ほど居ました。四海の他台湾には幾つかの組がありますが、トップの二つは国民党と一緒に大陸からやってきました。そしてその二つが大変な資金を持っていると言うことです。そのことを鮮烈に誇示するような行列でした。

 余談ですが今年の五月に私の娘が結婚しました。その式には一時帰国させてもらって出席しました。その時の記念写真の中で、日本の男性が全員黒い服装をしているのを見た台湾人たちは「この人たちは黒組(やくざ)か」と聞いてきました。台湾では黒い服装はやくざ以外は着ません。背広もあまり使いません。日本ではいつ頃から黒っぽい背広を着るようになったのでしょうか。

 今私は「月亮代表我的心」(「お月様は私の心の中までご存じ」とでも訳すのでしょうか)を中文で歌えるようになりました。この歌は本当に台湾の国民歌のようなもので誰でも知っています。リズムが緩やかで歌いやすいことも影響しているのでしょう。この他にも覚えたい歌が幾つもあります。おそらく日本語には翻訳されていないものばかりでしょう。そんな歌を懸命に覚えたり、今回紹介した野球や山地先住民のむき出しの腕や脚を頭の中に描いたりしていると、台湾を通して日本と世界との関係がまた違う面から見えてきたような気がしています。
  辛苦了(おつかれさん)              再見