名物上棟式
   (七)  九六・三

 三月十六日、台北市の気温は三十度まで上がりました。例年よりは少し早めに夏が来つつあると言うところでしょうか。
 三月二十三日の台湾の歴史始まって以来の総統選挙を間近に控えて街には各候補の宣伝カーの列が登り旗を立てて走っています。
 三月早々、大陸がこの選挙に合わせて、独立派の伸張を圧さえるために、軍事演習を行うと発表して以来、ここでの雰囲気を簡単に紹介したいと思います。日本の新聞では中国・台湾双方で緊張が高まると書かれています。
 一言で言えば全く何も普段と変わっていないと言うのが結論でしょうか。
 万一を考えてスーパーストアにお米を買い出しに行く人をTVで紹介していましたが、それもほんの一部で列が出来るほどではありませんでした。
 銀行へ不安定になる台湾元を米ドルに替える人達の姿も報道されました。がそれもほんの一部でしょう
 昨日の新聞に大陸が戦闘攻撃を台湾に与えないことを米国に約束したことが報道されて、今日は又ドルを元に替えに行く人の姿がTVで紹介されていました。
 長距離弾道弾が台湾島の両端に3発、発射されてからは、大学生の連合組織が大陸に抗議して座り込みを始めました。婦人の権利拡大を組織してきた人達の大陸への抗議も紹介されました。
 台湾近海諸島に現職総統が出かけて住民に安心するように説得しているところもTVに出ました。
十五日には野党の民進党が米国に対して「インデペンデンス」の台湾海峡派遣に感謝する声明を発表しました。
 日本から台湾に向かう観光客の数は少しは減ったのでしょうか。
一番変わったことといえば、タイやフィリッピン等から出稼ぎに来ている人達の九割が違約金を取られてもいいから国へ帰ることを望んでいると新聞に書かれていました。彼らは本当に大陸が攻めてくると考えているようです。国元の家族から電話が来ているそうです。
 しかし日本人については国元から電話が来たという話はまだ誰も聞いていません。私達日本人の周りで働く台湾人達は全く普段と変わりません。
どちらかというと日本人の方から話題を向けないと、そのことに触れてきません。

 その反応を簡単に紹介しましょう。
三十代・四十代の人達は誰も二年間の徴兵制度を経験しているので、鉄砲を撃つことが出来ます。そして緊急事態が迫ったときには近くの軍事施設に召集されます。そのことを彼らは楽しみにしています。その日は毎日の退屈な仕事を離れて、軍隊訓練所に行き、もっと退屈な軍の宣伝TVを見て一日を過ごします。そして給料は政府で保証します。
 もし大陸が攻めてきたら、それぞれの人達が、「俺は日本の忍者の使った飛道具で戦う」とか、実践経験者にしては現実離れした話題になります。
 中には「俺は銃が使えるから、大陸が攻めてきたら銃を奪って銀行強盗を一緒にやろうか」と誘ってくる人も居ます。
 まじめに考えている人の答えは「まあ、もし大陸が攻めてきたら私も軍隊に入るかも知れないな」というものでした。
 多分日本でこの紹介を読んでいる人は、ちょっと雰囲気を理解しにくいかも知れません。普通の日本人なら、まず第一に台湾人は大陸のことを同じ民族としての親近感を持っているのか、または頭の上を弾道弾が飛んでいるこの現実に恐怖や怒りを表さないのかと言ったことに疑問を持つでしょう。
 一般的には五十年間の日本の支配が終わり、日本は出ていきました。その後大陸から国民党がやってきて五十年経ちました。だから国民党も台湾から出ていって欲しい、ここは我々台湾人の島なんだというのが普通の台湾人の気持ちでしょうか。

 だから今回の大陸の脅かしは台湾人にとっては「没関係」(めいかんしい)と誰もが答えます。国民党の力を象徴し「宗美麗」の所有する台湾を代表する真っ赤で巨大な圓山大飯店が焼けたとき彼らは快弥を叫びました。
 しかし具体的な損害を大陸から与えられているこの現実に対して、はっきりとした不満さえも表現しないところが彼らの普段の生活態度と、この島の複雑な歴史に関係しているということでしょうか。
 特に目立つのは政治や国に期待せず、自分の将来は家族や「講」を通じて守るという面でしょうか。
 大陸にはすでに約二万以上の台湾企業が投資し生産活動をしています。その企業の助けがないと日本も欧米も大陸への投資が出来ないと聞いています。
 そして現職の国民党の総統が三十六パーセントの支持率で当選確実視されていることもまた余所者にはなかなか理解しにくい所なのです。
 その総統は大陸の出身者ではなく台湾人であることや、独立をはっきりと打ち出している野党民進党の国会議員の中に、親が大陸出身者の人が出てきたことなど一層、複雑な構成になっています。

 先日「民進党」の地方議員の選挙集会を覗く機会がありました。台北市のど真中の賑やかな所で小学校の校庭を借りて夜の七時から始まりました。中央の舞台には今回立候補する人達が次々と出てきて挨拶しています。その言葉は全て、かねて聞いていた通り台湾語でさっぱり判らないのですが、会場でもらったチラシによると、親が大陸出身者も居ます。名前の紹介も台湾語で、勿論親が大陸出身者も台湾語で挨拶です。
私の驚いたことに、北京語で普段名前を紹介されていますが、ところがその呼び方が台湾語ではまた発音が違うのに気づきました。例えば陳は北京語(中国の標準語)でツェンですが、どうも台湾語では全く違うようです。

 校庭を埋めている人達は老いも若きもとりどりで小さな子供も居ますが、台湾の普通の姿としてネクタイをしているのは議員さんだけです。そして皆さん普段着のように見えるので、日本の選挙の集会とはずいぶんと雰囲気が違います。いかにも台湾民族が集会をしているという雰囲気でした。
 そして途中から陳台北市長も現れました。何人かのボディガードに守られています。彼の姿を見ると大衆が「わー」と大声援を送ります。
 この地方選挙の結果は台北市と高雄等の大都市では民進党が多数を占めていました。
 
 工事現場の方では鉄骨が屋上まで組上ったので上棟式が行われました。工事現場の入り口を飾りつけて、大勢の方がお祝いに来ました。「鈴割」りの時には台湾らしく爆竹をけたたましく鳴り響かせます。
 たまたまそのとき前の大通りを葬式の車が通りました。鉦や太鼓やトランペットなどが、明らかに台湾の葬式らしく賑やかに車を連ねて通り過ぎていきました。日本人には賑やかに思えますが、台湾人には多分悲しい思い出を呼び覚ますのでしょう。
 台湾では葬式の朝はテントを張って楽隊が繰り出したり、飾り立てた車が何十台と集まってきます。その騒がしい車の行進を週に何度も見ることが出来ます。
 
 現場のお祝いが終わると今度は夕方から近くの料理店を借り切って宴会です。そこまでは日本と大体同じでしょうが、その宴会の中身がちょっと違います。
 楽団を呼んで若い女性の裸踊りが始まります。その女性は一人ずつ会場にやって来て、始めに楽団に会わせて三曲ほど歌います。そしてそれが終わると服を全部とって会場の中をマイクを持って歩き回ります。参加している各企業の代表の人達が準備してきた紅包を少姐に渡します。するとその感謝の仕草なのでしょう、渡した人に頬を寄せたりしています。
 その頃は殆どの人達は酒が回って居る頃でしょう、会場はもう賑やかなこと。
 紅包は会場のあちこちに上がった手にひらひらしていて、そこを目安に少姐が会場を回るわけです。紅包を若い男性に押しつけて、そこへ踊り子が来るように仕向けたりする人もいます。一人が終わって出ていくと次の少姐が店に入ってきます。料理店の前は別に特別の仕掛けがしてあるわけではなくて、ガラス張りですから、通行人が時々覗いていったりしています。子供も覗いたりしています。でも人だかりがするほどでは有りません。五人ほどの踊手が来たでしょうか。
 近くの人に聞くとこの習慣は昔から有るそうで、三十八年間の戒厳令の時も行われていたらしいとのことです。会場には勿論現場で働いている男女が居ます。お祝いに来た施工主の会社の男女も居ます。
 その宴会の最後は景品付のクイズです。でもその頃は進行係も誰も酔いが回っていて、会話は全て台湾語です。会場では正解の度に歓声が上がっていますが、日本人にはさっぱり判りません。
 宴会がお開きになると又別の市の中心部で飲み直そうと誘ってくれます。でも私はそういうとき断っています。誘ってくれた人が車を運転するわけですが、まあ、誰ももう酒が一杯回った状態です。真っ赤な顔で車を吹っ飛ばすのです。酒か命かどちらが大事かという選択の問題と思います。

 お目出度の話のついでに、台湾の結婚式の風習についても書いておきましょう。
 台湾では招待券を発行したりしません。そのかわり誰でも何時でも参加できます。つまり会場の準備などは宴会場の料理店任せです。おおよその出席人数を届けておくだけです。宴会場では司会者が居るわけでも有りません。ただ参加者一同が共に食事をするだけです。従ってお祝いのスピーチも有りません。当人だけが着飾っているところが特別と言えるでしょうか。そして途中から二人が各テーブルに挨拶に回ってきます。
 そして最近の台湾の流行として、当日二人のアルバムが回覧されます。そのアルバムが特別なのです。衣装と背景を変えて十数駒ほど撮影されているわけですが、その華麗なこと。本当に美しく夢一杯に仕上げてあります。この制作費が馬鹿になりません。給料の何倍かに成るとのことです。
 このアルバム作成のために二人は撮影会社の人達と街のきれいな公園などに出かけたりして場所を変え衣装を変えて記念のアルバムが完成するのです。中には「こんな美人は何処の誰だっけ」と言いたくなるような造形したものもあるとのことです。
 
結婚後は両親と一緒に住むという人達が圧倒的です。それは住環境が少ないという事情からでしょうか。台湾では男も女も皆とても独立心が強く自尊心が強く、日本よりはアメリカ的な個人主義の尊重の発展した国だという気がします。それで親と一緒に生活して上手く行くかと言えば、やはり嫁姑がもめることもあるそうです。
お祝いの紅包を当日二人に渡すのですが、その金額は十一とか二十二とかお目出い数字があるようで、これは地元の人に聞かないと判りません。
 当然宴会となれば乾杯が度重なります。正月(二月)の前後には尾牙(忘年会)が何度かあったり、過年(新年)会があり、そして工事現場での宴会があったりで、春の間は少し飲み過ぎの感じでした。特に若い人達ばかりの宴会では、小さなコップですが、目も止まらぬ早さで喉に流し込んだり、自信のある人は特大の大ジョッキのビールを一気に飲み干したりと、そんな雰囲気の飲み方ですから、私は翌日気持ちが悪くなったことがあります。

私自身の休日の過ごし方について少し紹介しておきましょう。日曜の朝六時半頃起きて陽明山(台北市の最北にあります)に出かけます。まず近くの商店街に行って朝食をとります。最近はハンバーグの店に寄ることが多くなりました。冬でも店の外に持ち出してテーブルの上で食べます。まだ言葉は通じませんが壁に掛かっている札の所を指さして注文します。間違っても文句を言うわけには行きません。スーパーで英字新聞を買ってきて読みます。中文の新聞はさっぱり判りません。
 そして山を目指します。麓まで三十分です。登山口にはもう大勢の人達が並んで居ます。「がんざ」が台湾語の「おはよう」でしょうか、そんな挨拶を何回も受けました。私の方は「早」と中文です。
 急斜面ですが一時間で中腹の陽明公園に着きます。ここは多分台北市全体から遊びに来るのでしょう、朝から大勢の人達が来ています。そしてここには温泉があり、特に年寄りがお湯に浸っています。
 そこから私は公共自車(バス)に乗って帰ります。急ぐわけは日曜日にはしたいことが一杯有るからです。
 下宿の近くに高島屋があります。そこで一時間ピアノの練習をします。五十元です。ピアノの担当の少姐と言葉が通じないのに好くもこんな方法が探せたものと自分ながら感心しています。
 ここは開店早々から大変賑わっています。一階正面には舞台と天井までの大きなガラス張りの水槽があって熱帯魚が泳いでいます。四階には本屋があって日本語のパソコンの月刊雑誌は一ヶ月遅れで手に入ります。
 余談ですが一度夜遅くこの前を通った時のことです。公共自車が一度赤信号で停止してライトを消灯しながら、対向車線が私一人だと判るとライトを点燈して走り出すのに出会いました。私は大きな地震とか大事件があって走り出したのかなと思って下宿へ帰ってTVを見たりしたことがあります。勿論何事もなかったのですが。慣れないと本当にびっくりします。

 余談ついでにもう一つ。下宿のそばに公設市場があります。その中を通って見ればここは日本と違うと強烈に印象付けられます。同じ食事の材料が並べられているのですが、なぜこうも違うのでしょうか。肉は全て骨の付いたままです。家庭の台所もその骨の付いたままで料理します。そのため日本のように細い包丁は家庭に置いていません。刃渡りの大きなもので、まな板上の肉を骨ごとがつんと叩き切ります。こんな大きな包丁を持っている女房と喧嘩したら早く手を挙げないと危険で仕方ないという代物です。
豚の血が豆腐のような形に固めて並んでいます。果物は種類が多くどれも日本のものより二倍は大きいのではないでしょうか。首を絞めた鶏がぶら下がっています。
 魚屋の親父が客そこのけで中国将棋を打っています。馴染みやすいと言えば花屋さんくらいでしょうか。

 さて日曜の続きの話です。下宿へ帰って一時間昼寝をして、台北駅へ出かけます。もうタクシーを使わないでバスを使います。料金は十四元です。運転手に料金を尋ねて「スースークワイ」と言う発音を聞いて理解するのはまず不可能です。舌を巻いて発音すれば「シースークワイ」です。
 そこで夜まで碁をやります。台北で一番大きな店で百人近くが碁を楽しんでいます。年齢は高年者の方が多いようです。私の相手をしてくれる人が、私が一回目で緩手を打ったら二回目は相手をしてくれません。他の人の所へ行ってしまいます。誰もものすごく誇り高い態度です。
 時々日本語の分かる人が相手をしてくれることがあります。でも誇りの強さは変わりません。場所代は百元です。
 台北駅の近くに大きな公園があります。いかにも中国風の屋根の反り返った休憩所があって池もあって良いところです。
 帰り道にそこを通って帰るわけです。その公園の名前を陳市長は二.二八事件の記念公園としました。不思議なことに公園内に若い二人ずれというのが見かけられません。散歩している人は大勢居るのですが、若い人達は何処へ行くのでしょうか。
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