客家族
(四)  九五・九

 今年の夏は日本よりも台湾の方がやや涼しく、この南の国へ避暑に来ればいいのに、などとこちらの日本人は冗談を言っていました。でも九月になるとさすが日本には負けそうで、まだこちらは三十四度を越える日が続いています。
九月の十日(土)は中秋節の祭日で満月を見て月餅という菓子を食べて祝います。この二日間の連休に台湾西中部の台湾人の田舎に私は招待されました。今回はそのときの話をしましょう。

 私を誘ってくれた友達は日本に五年居たので日本語はぺらぺらです。その田舎の空気が綺麗で真夏でも夜は布団を掛けて寝るほど冷えることを語って、とてもすばらしいところだと自慢していました。今回私を誘ったのは、養殖椎茸の栽培で、正に猫の手を借りたいほど忙しいからです。その田舎というのは実は彼の奥さんの故郷です。
 奥さんは、日本人の私が田舎の家がむさ苦しいところなので、大丈夫かなと心配したそうです。私は「没問題」と答えておきました。
で、土曜の朝六時に待ち合わせて三人でバスに乗り込みました。道路が空いている時なら三時間ほどで着くそうですが、その日は台湾全体が故郷へ帰ってお祝いをするので、高速道路は大変な渋滞です。勿論バスにはトイレが着いています。山懐の静かな町に着いたのはお昼前でした。台湾ではこんな田舎でも全て道路は舗装されています。
 私の友は、「客家」族で子供の頃は客家語を話して育ちました。客家と書いて「はっか」と呼びます。(中文では「けーちゃ」と発音します)客家族は台湾の人口の一割程だそうです。だから彼は台湾語を話せません。
 奥さんは台湾語で育ちました。勿論小学校に入れば全ての台湾人は国民党の命令で中国語(中文)を習います。と言うわけで私と彼女の家族との会話は彼と奥さんとが同時に協力してくれないと通じないことが解りました。
 台湾に来て直ぐに覚える言葉は「めいよう」(無い、とか違うと言う意味)ですが、公式でない場所では台湾語の「ぼうら」が頻繁に使われています。その日の田舎でもその言葉だけは何回も聞きました。
 そして実際、その二日間の旅は楽しいものだったのですが、私自身の顔を想い出すと始終にこにこしながらも、周りに飛び交う言葉をほとんど理解できていなかったことを初めに白状しておきます。
 台湾では三千メーターを越える山が百以上有ると言うことですが、それはもっと南東の方角だそうで、ここ台中では周囲にそれほどそびえる山は見えず残念な気がしました。日本の田舎と明らかに違うのは、椰子などの木々が並び、時にはバナナの木がたくさんの実を付けていることでしょう。そして確かに台北と違って空気はさわやかでとても気持ちが良かったです。
 台湾のもっと南でも今年の日本が記録した三十九度と言う気温はここ台湾では有りません。後一度上がれば四十度で、ヨーロッパでは死者が出ていましたが。
 約三百年前オランダ人達が来た頃は本当に「ホルモッサ」(麗しい)所だったのかも知れません。 
着いたところは家族経営らしく小さく区切られた果樹園が広がり、ほとんど人も通らない中に急拵えで作られたような三千平方米のテント形の養殖場です。直径十五センチ、縦二十センチほどのおがくずの筒の中に椎茸の菌が撒かれていて、それに水をかけて一週間ほどすると背丈十センチ以上の椎茸がにょきにょきと出てきます。そのおがくずが約十四万個も並べられています。芽を出したキノコは二日で十センチ以上の大きさになります。一つのおがくずから三回キノコがとれます。その日は祭日だと言うことで学生アルバイトの手伝いが居ず、五十歳代の夫婦とその子供達五人(と言っても全員成人している働き盛り)、そしておばあさんが二人。その他に親戚のおばさんと言った顔ぶれです。着くやいなや珍しいお客だと笑顔で迎えてくれましたが、ほとんど休む暇もなく私も仕事を手伝うことになりました。仕事はおがくずの筒からキノコを抜き取ったり、そのキノコをはさみで傘と胴と土付きの部分とに切り分ける作業があります。大きなテーブルに山と盛られたキノコから、その周囲に五人ほどが並んで一つづつ 取り出して切っていきます。その他に切り分けたキノコを電気で乾燥する設備もあります。
 椅子に座ってするので楽な作業だと想っていたら、飛んでもありません。同じ作業の連続というのは肩が直ぐにきんきんに張ってくるのが解ります。
 でも簡単には悲鳴を上げるわけには行かないほど目の前にはどんどんとキノコが積まれていきます。作業をする人達は身内の者ばかりということも有るのでしょう、大声で冗談らしきことを言い合って笑い有っています。その話し方は言葉の投げ合いのような感じです。大体台湾では女性の言葉でも投げつけるような言い方が普通です。(と聞こえます)日本人の場合言葉尻一つがずいぶんと雰囲気を和らげることに使われていることにこちらへ来て気がつきました。その辺を理解するのは外国人にとって大変難しいようです。
 顔中しわだらけで少し背中の曲がった七六歳のおばあさんまでが時々冗談を言っています。ところがその手の早いこと。ざっと観察したところ私の三倍ほどの早さです。時々歌を歌っていましたが、後で聞くと数年前にクリスチャンになったのでそこで覚えた教会の歌だそうです。友達の奥さんには妹が二人居て、下の人が英語の専門学校に通っているので、英語で話しかけてくれる約束でしたが、その期待は無駄でした。眼鏡をかけてにこにこしているだけで、私に語った一言は食事の時に「おいしいか」と恥ずかしそうに日本語を言っただけでした。真ん中の妹さんの目は少し変なことに気がつきました。ほかの人達の瞳には艶があって光を含んでいるのに彼女にはそれがなく鈍さが感じられました。初めは疲れているのかなと思っていたのですが。詳しくは後に解りました。
 一番下の弟さんは街に出て働いているそうですが、今は親の仕事が大変なのを聞いて休みを取って手伝っているそうです。真ん中にもう一人弟が居ますが彼だけが親の仕事を助けるために都会に出ないでがんばっています。男達は上半身裸です。時々テントの中の気温を計っては屋根に回転式のスプリンクラーで水をかけて冷やしています。十一月頃までこの方式で収穫が出来るそうです。
 
私が一時間もすると肩や首を回す仕草をするので、みんなが気を使ってくれて、友と二人でスクーターに二人乗りして周囲の散歩に行ったりしました。
 夕食はバーベキュウです。近所の若い人達も来て十人以上になっていました。
空には薄赤い満月が椰子の木の上に見えました。七十六歳のおばあさんは私の横に座って少し日本語が出来ると話しかけてきました。でも昔は家庭の仕事が(お茶摘み)忙しくあまり学校に出席しなかったとのことです。でも「日本語の歌を歌うよ」と言い出して大声で歌い出した歌は、初めが「君が代」でした。それを歌うときはいつも国旗が掲揚されていたと言います。この歌が突然目の前で歌われてちょっとびっくりしました。しかもその歌い方がたんに子供の頃覚えた懐かしいだけの感じで歌われるとは。植民地朝鮮と台湾の違いをこんな風に体験できるとは思いも寄りませんでした。次が「あの山に黒雲送り、雷様がぴっかりこ」と言う歌ですが、私は聞いたことがありません。この歌を歌うときは国旗掲揚はなかったそうです。
 日本の歌を歌ったのは何年ぶりですかと聞いたら、しばらく手の指で計算していましたが、誰それの生まれたとき以来だということで、それは五十年以上前のことだそうです。歌の歌詞ははっきりと解る日本語でした。成人してから日本語を勉強している人のぎこちなさは全くありません。みんなで拍手をしていたら今度は私に歌えと言うので「荒城の月」を歌いました。中秋節にぴったしの歌だとそのおばあさんがほめてくれました。この歌は聴いたかも知れないが確かな記憶はないとのことでした。二つ下で七十四歳のおばあさんの妹さんは、日本人の家庭ではよくすき焼きを食べていたよと「すき焼き」と言う言葉を何度も口に出していました。
私自身の田舎は能登半島です。ここ台湾とちょっと比べるために日本の昔話をさせてください。
 十五歳の時に能登へ一人で行ったことがあります。まだ高度成長時代の前のことで、今から思えば日本の貧しい時代でした。そこで聞く言葉は「いらしんすけ」位しか理解できず「だっちゃかんない」となるとさっぱり解らず、つんぼになったのかと寂しくなったのを覚えています。でも夜になると海の潮騒の音がはっきりと聞こえたものです。食事は一人づつの小さな台の上に食器を置いて食べました。まるで雛人形のように。食べた後は食器でお茶を飲んで、そのままお膳に伏せて洗う暇もなく大人達は田圃に出かけ、子供だけが残されたものでした。家の作りは大きくて玄関は土間になっていて、入り口は開けっ放しでツバメが自由に出入りしていました。便所は家の外にあり、牛小屋と並んでいました。戦前はまだ紙がなかったので目の前につるした藁縄を使ったそうですが、私が行ったときは新聞紙でした。でもその小屋がばかでかくて暗くて板を渡しただけなので、足を下まで踏み外したこともありました。
近所(と言っても隣がかなり離れているので遠い近所ですが)子供達と家の中で隠れん坊をして解ったのですが、その家の主人達の寝る部屋は家の北側でいつもじめじめしていました。そして年中蚊帳がつりっぱなしでした。主婦は食事の時も、掃除の時も、子供達にさえほとんど話をせず何か指図をするのはいつも太ったおばあさんでした。多分男親の方もほとんど口を開かなかったような気がします。
 上の姉たちに聞けば、嫁が姑のタンスを黙ってあけたので、姑が怒って嫁入り道具を里へ送り返して離縁させたと言うような話もざらにあったそうです。
 貧しさだけでなく誰もが重苦しさを引きずっているような雰囲気をその頃強く感じたのを覚えています。きっと都会だけで育った人には理解できないような話ではないでしょうか。これは女性の地位が低かったということだけではなしに、嫁も夫も大きな家族の中で小さな役割しか認められないような、厳しい条件が家族とその周囲にあったのではないかとそんな風に私は理解したものですが。

 と古くさい話をしてしまいましたが、しばらくして日本に高度成長の時代が来てからは田舎も変わりました。牛を手放して、車で田圃へ出かけるようになりました。家の中に便所を取り入れ、表には鍵をかけ、冬場は都会へ出稼ぎに行くようになりました。そうすると全ての実権は夫婦が握るように変わってきました。ツバメはどこに巣を作っているのでしょうか。

 話を台湾に戻しますが、夜は私達三人とおばあさんとが家に帰って休みました。残った人達は小屋の中に泊まったそうです。私が休んだ家は台湾の代表的な家造りでした。玄関の正面は壁一面に仏壇が飾られています。そして幾つかの椅子が置いて有るだけです。その仏壇は下半分が真紅の大きな二本の柱で上半分がやはり赤や青・黄色の仏像で、表通りから丸見えです。それまで台湾に来て以来このような玄関を何度も見たときその華やかな感じに何かの商店ではないかと思ったのですが、その家に泊まって初めて納得しました。近くにあるお寺も屋根や柱は真紅です。けばけばしいと言っていいほどの飾りが建物全体に装飾されています。同じ仏教と言っても何故これほど日本と違うのでしょうか。日本に伝わってくるまでにどこで色彩が黒と白に変わってしまったのでしょうか。
 台北市ではクーラー無しには寝られない夜でしょうが、そこでは扇風機さえ無しに熟睡しました。
 明くる日は八時頃からまた仕事を手伝いました。家族の人達は朝4時から頑張っていたそうです。
 さてその日の午前中手伝って帰ることになったのですが、最後に妹さんのことを聞きました。別に隠す気も無く軽く話してくれた中身は、かなり気の毒なものでした。

 「妹は気が狂ったのです」という言葉でその話が始まりました。彼女は高校までは学校の成績も優秀でした。一九歳の時にある男性と、二人だけで結婚を約束する仲になっていました。しかし彼の方が親に打ち明けたところ、二人がまだ若いことや、彼にはまだ未婚の姉さんが居ることなどで反対されました。それを聞いた妹さんは突然気が変になってしまったのです。そして不思議なのはおばあさんに対して、いつも激しく怒ったり呪ったりするそうです。そこで家族の人達は、これはおばあさんのご亭主(すでに死亡)のたたりではないかということで、これまで不十分だったお墓の作り直しを親戚みんなでして霊をまつる計画をしているそうです。
 
今回の話を始める前に、友達の名をどんな名前で書くべきか迷いました。
というのは、このような深刻な話になると実名はさけるべきかなどと考え出したのです。ここは台湾という外国とはいえ日本と非常に近い関係にあることを最近つくづくと感じているからです。夏の観光だけで十万人が訪れるというだけで無く、私の知っている日本の友人達の全ての会社の関連会社がここに存在しています。本当に小さな会社まで、例えば煎餅やお菓子の会社まで、日本語の袋のままで売られています。
 台湾人の側から見ても友人や親戚を日本に持っている人が大勢居るのが判ってきました。
 また仕事で困ったことが有って日本の会社に電話を入れると、直ぐに日本人が飛行機で飛んでくるのです。飛行機代は往復六万円ほどでしょうか。このように具体的なことになると気を使うほどのきわめて近い関係に有ることを日本にいる人達はまだ気がついては居ないかも知れませんが、でも話は直ぐに伝わるような条件にある両国であることも事実だと思います。
             再見