台湾と日本の関係
   (十二)  九七・一

 台湾に来て以来、早くも二年に成ろうとしています。私が勤める建物もほぼ完成してきました。多分今回が最後の手紙になると思います。
 台湾に来て結局良く解らなかったのは台湾人の日本に対する考え方です。本心のところで日本をどう考えているのか、結局確信がつかめぬままここを去ることになりそうです。

 建築物が完成に近ずくと大勢の、日本で言うところの臨時工が入ってきます。年寄りの方も大勢居ます。セメントなどの埃だらけの汚い環境で、しかも重いゴミがそこらじゅうに散乱する現場ですがその清掃が主な仕事です。年輩の人は私達日本人に会うと慇懃に黙礼をします。その仕方は多分台湾人同士ではしないと思うほどの丁寧なものです。
 そして一日の仕事が終われば毎日行列を作って女性の場合千三百元の日当をもらいます。(四倍すれば日本円になります)男性は千六百元です。中には大陸から四人家族で出稼ぎに来ている人も居ます。そのことは、たまたま現場で最も美しい女性は誰だろうかと日本の男どもが物色中に私も立ち会って、それと言われた人と話し合って確認しました。三十代半ばの女性で、両親と妹とが大陸から働きに来ているとのことでした。もっとも妹さんは台北で現地の人と結婚しています。そのような伝が在って台湾へ出かけてくることが可能なのでしょう。当の美人の女性は大陸に子供が居ます。普通台湾の女性はあまり強い化粧をしませんが、彼女は真っ赤な口紅をつけていました。
彼女は客家族で大陸では同族集団で家を円陣のように建てて住んでいます。そうして他民族の攻撃から守ります。 
 大陸からの渡来が観光目的に許可されたのはこの二年の間のことです。原則としては大陸からの出稼ぎは許されていません。それは台湾自体が今不景気にあることと、いったん許可した場合この小さな島があっと言う間に人間で溢れてしまう恐れがあるからとのことです。何しろ飛行機で一時間のところに薪水(賃金)が十倍で言葉が通じる土地があることになるわけです。でも日本と同じように建築現場は国際色豊かなものです。一人を呼べば家族中で出かけてくると言うのは中国的と言えましょうか。
 その臨時工の女性達のことですが、彼女たちは仕事を熱心にすることで日本人の間では有名です。台湾の男性はあまり熱心ではありません。そのような男性が多いために女性は働き者という、これは日本人の推測です。
 ついでに最近の結婚事情を紹介しておきますと、台湾の女性が強く成りすぎたということで、大陸やベトナム、などへツアーに出かけてそこの女性と結婚することが流行っています。新聞の広告に東南アジア向けのそのような呼びかけが多く出ています。東南アジアには中国語を話す人が大勢居ます。しかも大人しい女性が多いからだと、これは有る独身の台湾女性の解説でした。
 彼女の話によると台北市内には独身の高学歴の男性が極端に少ないと言っていました。というのは今台北の少し南にある新竹市というところがアメリカのシリコンバレーと言われ、コンピューター関係の成長産業が密集していて台北市内にはそのような男性の就職先がないからです。

 さて台湾と日本の関係についてですが、こちらへ来た頃は日本が五十年間植民地にしていたために、民族的な反日思想が根本にあるものと覚悟していました。
 しかし年寄りの日本人に対する慇懃な態度や若い人の日本への高度な文化への憧れなどを見ていると、実際の本心ではどうなんだろうと言うことが解らなくなります。
 国民党がこの地に渡ってきて以来表向きだけだったかもしれないけれど、日本の文化は敵性なものとして押さえてきました。今でも公立の大学には日本語学科はありません。私立にはほとんどあります。それにも関わらず娘の名前に「子」をつけたりする人が時々居ます。
 日本語を学びたいという人達は大勢居ます。
 私は登山をしたときに知り合った若い中学の女の先生達に、お互いに言葉の練習をしましょうと誘われて毎週二時間会話の練習をしました。と言ってもお互いの紹介や雑談でしたが。それは現在まで約半年続きました。彼女達の同じ学校にもう一人日本語を学びたいという人も居て、私も日本人を誘って会話を楽しみました。一人は歴史の、一人は国語の先生でした。「将経国」元総統の青い目の奥さんやその子供のことなど興味在る話をしてくれました。台湾では授業にマイクを使うことや、暴力を振るう生徒もいることなどを聞きました。
 私の方は一休さんや祇園の舞妓の話などを紹介しました。明治の最初の頃、大臣の夫人は皆芸者だったと言ったらびっくりしていました。

 彼女たちに日本に対する考えを聞くと、日本の統治を台湾人は誰も感謝していると言います。それは当然のことだという言い方です。ただその言い方が「日本の皇民化教育」が良かったからだという言い方です。その言葉には今の日本人には受け入れられない古さを含んでいるのでちょっと消化し切れません。
 彼女たちの言う「良さ」は実際はどの辺にあるかというと、第一が治安が良くなったこと。二番目が社会的な基礎が、鉄道や道路・各種産業が興されたことです。そして第三が教育が台湾全島に渡って実施されたことです。
 台湾で発行されている日本語の歴史書などを見ると次のように書いています。
 日本が支配を始めた頃台湾はまだ一つの国としては纏まっていなかった。台北に清国の代官が居たが彼らは庶民と対話することはなかった。多くの民族対立や、場合によっては芸術派の対立が常時あり、集団で武器を持って襲ったりしていた時代であった。暑い国なのに治安が悪くて夜は窓を開けて寝られなかった。
 又日本が上陸したということもその統治が始まったということも知らない人がほとんどであった。新聞やその他の連絡網がまだ無かったからである。

 その皇民化のやり方については次のような表現があります。「学校で白木の神社に奉られた天皇を拝むように言われたが、私達はお寺は赤や青・黄色の原色で塗り込められたものでないと有り難みがないものと思っていたので、日本の無色に近い神社には御利益が返ってくるとは思えなかった」

 日本の統治が終わった時にはすでに台湾では工業生産が農業生産額を超過していました。大陸が十五年前にまだ農業生産が工業生産より多いと言う記録があることを考えると近代化がかなり進んでいて、現代の高度成長が頷けるのではないでしょうか。

 ここで一人の七二歳の台湾人の話を紹介しましょう。丁寧な日本語をすらすらと話します。彼は今でも働いています。日本の教育を中学まで受けてそれから公職に就き直ぐに海軍に入りました。
 以下はその対話の概略です。

 学校の話

 小学校の生徒は台湾人だけで先生は台湾人も日本の女性も居た。
中学校は日本人も一緒になった。義務教育になったのはかなり後のことで、各家庭へ先生が就学の奨励に回ってきた

 皇民化教育

 中学の中では日本人との間に差別はなかった。就職してからは役職に就けないなどの差別があった。反日思想は、高等教育を受けた人ほど強かったと思う。一般の人は殆どそんな考えはなかったと思う。
 日本人は毎月の「拝拝」(今でも行われている習慣で毎月第二と第十六日に紙幣に模した紙を燃やす宗教行事)を禁止しょうとした。日本の天皇を拝ませようとした。

 警察

 こそ泥を捕まえると徹底的に叩いたりした。それから裁判所に送った。当時は人格とか人権もくそもなかった。
 山地民族の統治には警察が直接住民管理まで行った。しかし先住民と結婚する日本人も居た。

 終戦時に恨みをもたれた日本人は暴行をふるった警察官と、毎年田畑の収穫高の査定をするときに賄賂をもらって不当なことをした役人等が少し居て、住民に襲われたことがあった。他の人は安全・平安に帰国した。学校の先生などは別れを大変惜しまれた。それほど教職の人達は生徒の成績を上げることに熱心で先生同士が競争し、補習授業も無料で教えてくれた。
 戦後も当時の生徒が旅費や宿泊代を出し合って日本から先生を招待する人達が沢山いる。招待されて、うれしさに泣き出す人日本の先生も居ます。そのときの会話は日本語を使います。

 戦争

 十八歳で軍属に。(職業軍人)しかし半強制的なものでは有った。赤紙の徴兵者とは日本の靖国神社に登録されるかどうかが違う。自分の名前は今でも登録されている。

軍隊では日本人との間に全く差別はなかった。戦争に勝つという規律が全てに優先していた。民族的な差別は許されなかった。
 海軍の中では各種試験、能力に応じて日本の館山の砲兵訓練所に送られたり、高雄(台湾)の軍艦の整備訓練所に送られた。日本での滞在中に日本人女性と結婚した人もいる。現在その人は夫婦で日本に住んでいる。
 成績の悪い方から南方に出征した。自分の海軍の同期生で生きて帰ってきたのはちょうど半分である。
 その軍隊の同期生達が昔の日本人の隊長を台湾に招待することは今でも行っている。現在千人の同期生の内百人ほどが生きていて連絡があり、前回は三十人ほどが参加した。

 慰安婦

 軍隊の命令で、台湾にある女郎屋から地域ごとに人数を割り当てて前線に連れていった。その場合は本人との契約のようなものがあった。
 女郎の身分によっては持ち主の一方的な選別、軍への売り渡しもあった。
 最後の頃は{特別看護婦}という名目で、看護婦の資格無しで本人をだますような手段で連れ出していった。前線の慰安婦が不足したからである。

 日本人

 彼らが居た頃は良く「俺の責任で」と言う言葉を使った。
そして実際彼らは責任を守った。就職してからも、そのやり方が多く、約束を文章にする必要はほとんどなかった。
 しかし大陸から「国民党」が来てからは、彼らは何も約束を守ろうとしない。従ってその約束を紙に書いて記録することが必要になった。

 終戦

 戦争終了の時は、米軍の爆撃が終了することを意味したし、また中華民国との再統一についても歓迎する気持ちがあって、どんな結果になるとは考えず誰も喜んだと思う。
 しかし国民党が大陸から遣ってきて、一九四八年の二・二八事件が起こり、彼らは高等教育のあるものから無差別に殺して回った。
 大体、大陸から彼らが逃げてきた直後にアメリカは「国民党」をその規律の無さ、腐敗を知って見捨てていた。実際崩壊寸前だったと思う。
しかし一九五一年の朝鮮戦争が起こると、アメリカは反共の砦として台湾と国民党が必要になった。財政援助もしたし、米軍の顧問が台湾にやってきた。
それからの三八年間は連れて行かれるもの、姿が見えなくなった人達が全部殺された。(白色テロ)と言う恐ろしい時代が続いた。
 日本が居た頃は賄賂は実物(穀物や衣類など)がこっそりと使われたが、彼ら国民党が来てからあらゆる場で「紅包」(現金を入れて)が公然と使われるようになった。それが大陸の三千年の習慣である。

 台湾の独立

 八十パーセント以上が望んでいると思う。「新党」(国民党から昨年分裂)のように大陸へ帰りたいという人の中にも実際帰って見ればあまりにも生活水準が低いために、大陸へ戻りたいという人は居ないようだ。(大陸の都会地でさえ十倍以上の賃金格差がある。平均で三十倍という人もある)

 現在の社会について

 戒厳令は解除され、軍事力による統制は無くなったが、代わりに現在は暴力が大きく支配している。これは都会では分かりにくいが、地方へ行けば公然と存在している。(地方議会の長の四分の三は暴力団と関係があると新聞は書いている)

 今の若者について

 最近の傾向として若い人が自分の子供に国語(北京語)を使わせる人が多くなった。私達老人が孫と話が出来ないというのは本当に残念で悲しいことだ。
 これは一つには国民党が学校教育で台湾のことを全く教えないからだ。歴史は全て大陸のことばかりである。私達はやはり先祖から受け継いだこの台湾語を守るべきではないでしょうか。 

 以上で彼の話は終わりました。

 この話を聞いてほぼ台湾人の考えが解るのではないでしょうか。この話は台北市の料理店で、料理の注文は彼が台湾料理らしいものばかりを選んでくれて、私は嬉しくもあり又ツバメの丸焼きのようなものを藁の中から出したときはちょっとびっくりしたりした。その食事代を私が奢ったためにその後一週間ほどして台湾一のお茶のおみやげをわざわざ持ってきてくれました。

最後に一月末に霧社(台湾中部の山の中)に二泊三日の旅行をしたときの話をしましょう。
そこは周囲が四千メーターに近い山に囲まれた、現在は温泉の名所になっているところです。以前紹介した霧社事件の碑が出来ています。抗日烈士記念碑と書かれています。旅館や出店の人達は大体が原住民の人達で(この辺りはタイヤル族)、私が日本人と解ると時々日本の言葉を中文に混ぜて使います。顔の形は私達日本人とほとんど変わりません。年寄りはタイヤル語と日本語を、戦後育ちは台湾語と中文を使います。勿論タイヤル語も。
 若い人は就職に台中などの都会に出て行きます。以前私が出会った女性は色が白く目と口が大きくて、イタリヤ人のヌードダンサーが国会議員になって有名な人とそっくりな人と出会ったことがあります。多分色の白いのは若いときから都会に出ているからでしょう。この温泉地帯の人達はやはり陽に焼けた顔をしています。あえて共通なところと言えば、目の形が逆三角形で小鼻が多いように思えます。

 私が地図に載っているダムを目指して小道を下っていくと行き止まりになりました。周囲は見渡す限りの原野で人一人見えません。そのとき年寄りが現れたので、私が北京語で道を尋ねると直ぐに発音と言葉の使い方から解ったのでしょうか、「あなたは日本人か」と日本語で言って姿勢を正して右手を耳の横に上げて敬礼をしました。多分その女性は普段はあまり日本語を使っていないような感じで時々思い出して言葉を選んでいました。そして孫を呼んできて小型のトラックでダムまで乗せていってくれました。その途中も時々私に敬礼をして話しかけることがありました。その孫は現在台北で働いているそうです。もうすぐ「過年」(日本の正月)なので帰っているのでしょうか

 たった一人で原野で道に迷った私に対してこのように親切にしてくれるのは大変ありがたいことです。おそらく他の国だったら襲われているのではないでしょうか。五十年から百年前の日本の先輩達が残したものを、今私がこのような形で経験できるとは。人間のこの世に残す尊いものとは、結局五十年、百年経たないと解らないものでしょうか。
 また宿泊したホテルではロビーでお茶を売っている少姐がウーロン茶を何回も小さな器に入れるという本式の方法でご馳走してくれました。これは無料でした。多分私が日本人と解ったからでしょうか、下手な私の中文の相手になってくれて、家族のことなどを紹介してくれました。三人兄弟で上の二人は台中に働きに言っています。彼女は末っ子です。父は五十九歳で近くの農園業の企業に勤めています。そのホテルから自宅までは車で四十分かかりますが、現在はまだ免許を取っていないので同僚の少姐に乗せてもらっています。その同僚もタイヤル族で私に時々日本語で話しかけてきました。また帰りには公用車(県営バス)の乗り場まで同行してくれました。私がチップに小銭を渡そうとすると「不用」と言って逃げてしまいしました。
 
 現在原住民は高年者の失業率が大変高く、法的に保護が叫ばれるようになってきました。台北市長は総統府の表道路を原住民が使っていた名に変えました。日本の東京大学を卒業した原住民が台湾に帰って政治家になる予定という話を日本に帰ってから東大生に聞きました。

 最も原住民と言っても、それは紀元後数世紀の間にもっと南の方から民族移動をして来た人を指します。その移動は日本列島をも通過して北へ向かったという説もあります。従って原住民という表現も歴史的に相対的なもので、その以前にもすでに人が住んで居たのでしょう。
 
 さて一つ気になるのはこれまで長々と台湾の経験をさも物珍しく書いてきましたが、しかし実は日本には私の書いたことを実感として検証できる人達が大勢居るらしいのです。中文ではなくて、台湾語を使って現地で育った人達が。その数は何十万人に登るのではないでしょうか。その人達の話というか歴史的な紹介が日本では非常に少ないのはどうしてでしょうか。私自身ここへ働きに来るまで台湾についてほとんど知らなかったのです。

 私の習った学校の教科書にはひょっとして「台湾」と言う文字さえなかったのではないかという気がします。勿論これは私が学校時代怠けていたからかもしれません。 
 しかし日本の近くに存在する日本と同じ一つの島「国」として、日本は尊重し付き合う必要があるのではないでしょうか。私の周囲の台湾人で、台湾は小さいが故に地図の中で見つけにくいので、日本人や世界の認識が少ないという人が居ます。或いは台湾は小さいので仕方なく大陸と将来は合体せざるを得ないと言う人も居ます。大陸よりは日本の方が好感が持てるという人も大勢居ます。「俺達台湾人は大陸から来た人を北京人と呼んでいる」と話してくれた人も居ます。

 ここには一人一人個性を持った人達が居ます。日本人に比べもっと個性的に生きようとしているように思えます。日本人は個性的と言うよりは企業の肩書きを背負って生きようとしているのではないかとこのごろ考えています。肩書きがあって初めて自分があります。一人一人肩書きの無くなった中で、それは小さな存在でしかありませんが、そこにこそその人の「人間」が現れて生きて来るのではないでしょうか。
でも私のこのような考えを彼ら台湾人に話しても彼らはきっと言うでしょう、「没関係」(メイカンシ)と。