標會と没関係
(十一) 九六・十一


 今日は十一月の末です。こちらはまだ日本人達が大勢半袖のままですが、日本では多分長袖でしょうね。それともオーバーを着ている人もいる頃でしょうか。
 勿論台湾人は全員長袖に替わっています。(台湾人と日本人とでは皮下脂肪の厚さが違うそうです。日本人の方が厚い)

 十月の末に日本のプロ野球で巨人がオリックスに三連敗した時にこちらの新聞では「巨人、輸・輸・輸」と紹介されました。輸は「しゅ」と発音して負けという意味です。これはちょっと中文を知らないと理解できない文字ですね。最近、日本の文字と使い方が違うものがかなりあることに気がつきました。
 たとえば次のようなものです。かっこ内が日本語の意味です。我(私)、勉強(強制する)、狗(犬)、走(行く)、吃(食べる)、告訴(話す)、新聞(ニュース)、報紙(新聞)、都(全部)、顔色(色)、大家(皆さん)、猪(豚)、喝(飲む)。
如何でしょうか、世界的には日本は漢字圏として紹介されているようですが、似ているようで、でも日本人にとってはかなり違うと思います。又魚の名前に関してはほとんどが違うそうです。勿論発音は全く違います。日本語と似ているものはほんの少しです。
 この違いは何処から来たのでしょうか。昔々大陸から誰かが漢字を伝えに来たとき船酔いで間違えて教えたのでしょうか。それともこれらの漢字は朝鮮半島経由で来たのでしょうか。或いは全く別の理由があるのでしょうか。
 紀元後二百年頃に女王卑弥呼という人が大陸の「魏志倭人伝」という歴史書に登場したと言いますからそのころすでに漢字が伝わっていたのでしょうか。でもその頃の日本はまだ後期弥生式時代ですから一般的には文字は勿論言語さえ明確なものはなかった頃でしょう。
 とにかく今私に言えることは、あまりにも日本語と発音が違いすぎて、そして見たこともない文字も沢山あって、聞いても見ても理解できない言葉が多すぎると言うことです。

 今私の働いている建築現場では、建物が完成に近づいてきました。そのために建物の仕上げ関係の人が大勢入り込んでいます。図面を書くことはほぼ終わってきたので毎日それらの人に混じって現場を歩き回ることが多くなってきました。
 実を言いますと通訳の人が九月一杯で退職したので、それ以降は代わりの人が採用されたのですが、ほとんど自力で台湾の人と仕事のやり取りをするようにしています。 勿論話半分で、絵が半分です。私達技術関係の人はこれが強みですね。でも私の話す中文を「理解できないね」と言う人も居ます。それは私が日本人と話した直後は抑揚が日本式になってしまうことと、台湾人の側に舌を巻かない人が居るためです。たとえば日本は「るうぺん」ですが、普通は「ずうべん」のほうが理解されます。
 現場に六十歳を越えた人が台湾人が二人居ます。彼らは私を見ると、昔習った日本の先生の名前を思い出して「今でも元気でいるかね」と聞いてきます。そんな五十年も昔のこと「我不知道了」(私知らないね)と返事しておきます。
 又ある左官の人は私の名前を紙に書かせて「そのうちに日本へ遊びに行くからよろしく」と話しかけてきます。その人はずうずう弁の英語も話します。多分アメリカで働いたことがあるのでしょう。その人は日本の商品は「機能がとても良い」といって親指を突き立てます。

 台湾へ来て一番最初に驚くことは、車の運転の猛烈に荒いことですが、先日はその極端な例を経験しました。夜の十時頃だったと思います、三十分ほど台北市内をタクシーで走ったときのことです。もう動き出した瞬間からこれはかなり乱暴だという気がして片手で窓の取っ手にしがみつきました。交差点に入って、向こう側まで百メートルほど有ると思われる広いところを、信号はすでに赤に変わっているのを無視して突進します。右手からはライトを真っ赤に点灯させた車の列が走り出し近づくのを見ながら警笛を一杯鳴らし続けて突きっきりました。
 そのとき私は両手で窓の取っ手をしっかり握っていました。又赤信号で車が十台以上待っているところでは対向車線に乗り入れて速度を思い切り上げて信号待ちの車の先頭の前に回り込みました。そこは歩行者横断用のスペースです。もうこれでひょっとしたら生きて帰れないかもしれないという気もしました。降りしなに「あまりに早いので怖かったよ」と言ったら相手の運転手はさも自慢げに親指を突き立てて「そうよ俺は仲間の誰もが、お前は台北一早い運転手だと言っているぜ。ひょっとしたら台湾一かもしれないな」と威張っていました。
 一般の人でも交差点の右折左折車は、必ず先頭で信号待ちしている車の前に飛び出して曲がるチャンスを狙います。日本だったら追い抜かれた車が警笛をブーブー鳴らすでしょう。
 交通事故死の比率では当然世界のトップです。ほぼ人口十万人当たり、台湾は六十一人に対して日本は二十八人です。世界のほとんどは十五から三十の間です。三十年前の日本の千葉県を凌ぐのではないでしょうか。

 統計のついでに言えば前回述べた食べ過ぎの話ですが、現在の台湾の子供は五人に一人が肥満症という統計が出ています。同じ新聞に、世界では何十億の人が餓死に面しているという統計も出ていました。

 話がいろいろと飛びますが、私と親しくしていた通訳の人が辞めたときのことを紹介しておきましょう。
 一年以上前に、彼の仕事の上司に当たる日本人が来たときから、そもそもあまり仲が上手くいっては居ませんでした。日本人の方が誰の前でも煙草をばかすか吸います。通訳は煙草が嫌いでした。そして日本人のほうが日本語をこれも一方的にばかすかしゃべり続けます。通訳が半分も訳して居ないのにもう次から次へとしゃべり続けます。
 通訳としたら明らかに無視されている気持ちになります。そこでどうしても彼と離れて私の方の仕事に多く付き合って現場を出歩くことになります。そして九月初めだったでしょうか。日本人の方が彼を呼びつけて台湾人達の前で(勿論日本語で)怒鳴りつけました。外からの電話に応対するために、常に席に着いているようにと。明くる日台湾人の彼は朝一番で私に言いました。夕べは一睡も出来なかったと。その理由も言わず彼はその足で退職したいむねを日本の担当者に言いました。
 その時点ではまだ次の就職先を考えていたわけではないので、即日という結論には成らずに様子を見るという風に、一応は治まりました。しかし上司の日本人は他の日本人に会う度にあの台湾人を早く首にしたいと触れ回りました。私にはその話が耳に入ってきました。そのことは通訳の人の耳には入らなかったかもしれませんが、多分毎日の雰囲気で察していたでしょう。そして一ヶ月後に彼は密かに職を探してきて正式の退職の三日前に会社に届けました。そして私にも打ち明けました。

 私の意見は、彼には子供も出来たところで、今職を変へることは彼の奥さんも心配するだろうから出来るだけ忍耐するように説得していました。半年前に子供が出来てからは彼は毎日まっすぐ家に帰りました。それまでは週に何度も私に付き合って玉突きやボーリングに行きました。ゴルフの練習場にも行きました。中文の表現方法もたくさん教えてくれました。それが子供が可愛くてたまらないと言う話を毎日のように聞かせるようになりました。
 ある時、台湾人ばかりで飲みに行ったときに、彼が酒の席で「赤ん坊が可愛くてよくその頬にキスをするんだよ」と言うと、もう一人のやはり小さな子持ちの男性が「私はキスは子供のことを考えて出来なかった」と白状するような口振りで紹介しました。私にはその理由がすぐに解りました。その男性は営業の付き合いから時々黄線(日本で言うところの赤線。中国の社会では赤や紅は目出度いときに使います)に出かけることが多く、その利用の仕方も深入りして病気を移されているかもしれないと言う心配があったからでしょう。
そのように親しくしていた通訳なので、何とか辞めるのを思いとどまるように仕向けました。「日本人と付き合うにはこのような人とも何とか耐えねば生きていけないよ」と口を変えて説得しましたが駄目でした。はっきり言って私もこんな日本人は初めてです。一年前には私自身が思い切って日本に帰ろうかなと何度も真剣に考えました。心を開いて他人と談笑すると言うことがありません。会社の中では一瞬の隙きもなく働いている風を装う人でした。日本からわざわざ家族が訪ねてきても朝は職場に二時間ほど顔を出してから家族の元へはせ参じるという、それは日本人の代表的なサラリーマンでした。台湾人と見ると見下げるようなところもありました。私は日本人のそうゆう生活スタイルがいやになって外国で働くことを希望したわけですが、この外国へ来ても日本人の最悪の姿を見せつけられている気がしていました。日系企業側は彼の退職希望を聞いた時点ですぐに交代の人を雇いました。勿論名目は他の仕事をするようにとのことでしたが、明らかに嫌がらせととれるものでした。
 辞めるときは、会社は誰にも退職の事実を知らせることもなく、直接仕事の上で一番多く世話になっている私にも連絡が無く退職していくという、本当に異常な扱いでした。常時同じ部屋に居る三十人ほどの中でも知らない人がほとんどでした。退職の当日は台湾人だけの食事会が退社後たまたま有って、そこで紹介されると言う結末でした。
 三日ほどして彼と親しくしていた人だけで送別会をしました。実を言うと台湾人同士の中でも気の合わないグループと言うのがあって、そういうことになりました。その席には私の中文の先生も来ました。彼女も元は同じ会社で働いていた通訳ですが、彼女も突然首を切られるような形で退職しました。彼女が病気になったとき三人で病院へ見舞いに行ったことがありますが、お母さんが病室に居て実に上品な日本語を使うのでびっくりしました。
 彼女の退職の理由というのも普通ではなくて、仕事がなくて暇なときに翻訳のアルバイトをしているからと言うのが当人には言わなかったけれど真相だったと思います。他の台湾の少姐達は普通は雑誌を見て暇をつぶすことが多いのですが、彼女の担当の日本人がこれ又仕事の鬼のような人で、心の底に常に他人を疑うようなところがある人だったのが災いしたのでしょう。そのときも前もって入れ替わりの通訳を採用するという手段を執りました。その募集広告の大きさは日本の新聞の三行広告の半分ほどの小さいもので、しかも個人の名前を使って募集していましたが、すぐに台湾人の一人が見つけてこれは何かあると噂していました。
 何故すぐにその広告に気がついたかと言うと、この企業の場合大半の人が正式の社員ではなく、一年ごとの契約なので誰もが新聞広告に注目しているからです。又そういう形態を望む人が多いのもここ台湾の実体のようです。転職は二月の旧正月が多いようで、転職ごとに薪水(賃金)が上がると言いますから、日本とはだいぶ事情が違います。
 
 新しい職場に行くとそこで気の会った友達を捜し、信頼しあえる友達同士で「講」のようなものを作り毎月お金を貯めていきます。そして順番に誰か一人が全員の合計額を借ります。たとえば日本へ遊びに行きたくなればその講で五万元借ります。銀行と違って抵当は必要在りません。一応これは台湾の法律では禁じていますが、はるかずっと昔から続いている伝統的習慣だそうです。これを「標會」(ぴゃおほえ)といいます。勿論個人の貸し借りなので普通は最高額は五十万元ほどです。働いている人なら誰でも経験があると言います。多分横浜の中華街の人達もこの方式でお金の融通をしあって来たのではないでしょうか。
 こんな風に人間関係を作っていくので、縦の関係ということを彼らはあまり(ほとんど)重視しません。就職して数ヶ月で上司がいやだからと言って辞めたりします。又再び同じ企業に舞い戻る人も居ます。
 今紹介しているのは日本人側から退職を強要している例ですがこのようなことはあまり台湾の企業では無いそうです。

 さてその送別会では二人のその後の就職先が紹介されました。二人とも日系の企業に就職が決まっていて何とか遣っていけそうだとのことでした。
 その席には十人ほどの台湾人が居ましたが、そこには通訳が二人居たのであまり苦労はしませんでした。しかしその明くる日から本当に台湾人の中で通訳なしで働くことが多くなりました。

 仕事の話をついでにもう少し話しましょう。
 建築の工事というのは日本の場合、人間の数から言えば約半分が農業の暇な人を引っ張ってきて工事を進めているような面があります。勿論その人達は専門的な業種というわけには行きませんが、それでも毎年同じ地方や同じ企業に来たりする事が多いことと、その他の半分は数多くの専門的業種の人達から成り立っていて、今や世界のトップとしての建設業と言われて居ます。そしてその各種の業種の人が普通は何十年と同じ仕事を同じ会社で続けて行くわけです。従って図面を少し見ただけで、見慣れた書式なので工事が進行していくという、熟練者の多いことが日本の建設業を支えている大きな理由です。
 ところがここ台湾ではだいぶ事情が違います。同じ企業に数年しか居ないことや、仕事を少し覚えると他の企業に移っていくということが多いということで、仕事をよく知った人が少なく、実際あらゆるところで工事の進行が上手く行きません。請け負った仕事の中で一部困難なところが有れば「私達には出来ないと」言ってその部分だけ断ってきます。他の職種の人との関係を考えずに他業種に迷惑がかかっても「没関係」(めいかんし)と言って自分勝手に仕事を進めます。この「没関係」を頻発して話せるようになれば台湾に慣れてきた証明のようなものです。
 特に建築物の中の空調や水配管の熟練の職人が少ないのが目立ちます。
 日本の場合戦後すぐに、大きなビルの工事が日本企業の手で日本の職人の手で行われていますから、その辺の事情は台湾とは随分と差が有ります。
 思い切りの良さというか、技術の追求の無さ、「職人気質」の無さというものを知って、私も随分がっかりしたことがあります。特に建物の完成が近づいてきて、内装との取り合いで美観が重要になってくる段階では、本当に注意が必要です。その段階では熟練者がどうしても必要になります。その段階になると仕上げの細かさ、行程の緻密さが必要になってきます。それは日系企業の得意な分野のようです。
 従って台湾の企業であるのに、日系企業に建築工事を依頼してくることになるわけです。
 でもその仕上げの美観の追求、行程の細かさも程度問題だと私は思っています。日本の場合は工事の途中で何回もあちこちと図面をいじくり回して変更を重ね費用と手間を考えず完全を追求します。図面の変更をすれば当然実際にその部分を請け負った企業との間に金銭上のやり取りが必要なのですが、そこは日本独特のやり方が有って、「今度払うから」または「今度仕事を回してやる」ということで変更に伴う実費精算は行なわず下請け泣かせが罷り通っています。このような契約無しのシステムが通用するのは世界の中で日本だけだそうです。
 勿論ここ台湾では日本のやり方は本来通用しないのですが、建設企業が日係の場合強引に変更を押しつけます。
 そしてそのような美観の追求、緻密な行程の貫徹の美学の下に、他の産業と同じように、或いはそれ以上に深夜残業が延々と続くわけです。勿論私のいるこの台湾の現場では、六時には大体台湾人は帰社します。でも日本人は九時近く迄残っています。それが同僚への思いやりということになっています。

 今後日本の企業が世界の中で活動をしていくときにどの辺で折り合いをつけるかが大きな問題でしょう。

 前回お話しした釣魚島(尖閣列島)のことはそれ以来新聞には全く登場しなくなりました。しかし十月台湾で発行された週刊誌に次のような記事が載っていたことを紹介しておきましょう。それは江戸時代末期の日本人の「林子平」という人の書物の中にすでに中国大陸の島としてこの島が紹介されていることと、さらに遡って三百年ほど前に清国の海図の中にこの島が記録されていて、それぞれの書物の写真が載っていました。

 最後に職場で出会う台湾人三人を紹介しましょう。
 一人は二十七歳の少姐です。彼女の仕事はパソコンで図面を書いています。ちゃきちゃきの江戸っ子のような日本語を話します。高校を出たとき日本に行きたくて、品川にある日本語学校に一年半通いました。その間、飛行機代が高いという理由で一度も台湾に帰っていません。学費を稼ぐために五反田の焼鳥屋に勤めました。そこの店主は親切な人でした。しかし店内を毎日切り盛りするお兄さん(三十歳ぐらい)には随分いじめられました。そのいじめの理由は言葉が通じないのでお客の注文が良くわからなかったからです。それで下宿に帰ってから時々泣くこともありました。
 台湾に戻ってパソコンの塾に通って、そして現在の、日本との取引の多い企業に就職しました。それから何人かの男性と交際しました。そしたら子供が出来たので「仕方なく結婚してしまったよ。解るこの気持ち?ワハハ、、」「あなたね、台湾の新聞なんか見て解るの。そんな発音じゃまだまだ駄目ね。じゃ又ね。ばいばい」
 現在は三歳の子の母親ですが、週日は子供を遠くの両親の元に預けて清掃業の彼氏と二人で働いています。彼氏は一人で清掃事業を経営しています。そして土曜日の夜に子供を引き取りに行きます。毎日の通勤はスクーターです。
 
 次も二十七歳の男性です。「はい、今日は」と言うところだけ日本語が話せます。この建築現場の前もやはり日本の設計事務所の指揮する現場で働いていました。その後その企業を辞めて現在の会社に移りました。以前の現場の前に在ったマグドナルドに勤める少姐と仲良く成りました。彼女はその後シチュワーデスに応募して採用されました。英語が好きだったからだそうです。今彼女は日本とオーストラリヤを往復しています。日本語も少し話せます。
 それで彼女との約会(デート)は日曜日というわけには行きません。現場事務所に彼女が訪ねてくることもあります。
 彼の会社は土曜日の午後社員有志を集めて日本語教育をやっていてそれに参加しています。「これは何ですか」も最近覚えました。会社としては日本の企業との取引が多くなるからとの見通しで会話が必要なんでしょう。時々会社以外の台湾人と飲みに行って日本語を習ってきます。「すけべ」ってなんですか、と尋ねたりします。
 まだ直ぐには結婚を考えていないそうです。彼氏もスクーターで通勤です。半年前に持っていた日本の乗用車を知らない間にぶつけられて壊されました。新車はしばらくは買えません。

 最後の一人は三十歳の男性です。まだ独身です。台北市で専門高校を出ました。それからつてを頼って東京の建築事務所で働きました。というより見習いという形でした。ほとんど給料は貰えませんでした。それでも日本の設計事務所に勤めているという喜びがありました。それからまた東京の別の建築関係の会社でこれもとても安い賃金で働きました。日本の友達が出来て今でも付き合っています。現在は建築図を二人の少姐を雇ってCADの入力をしています。一人の少姐は金持ちの家なのであまり仕事を覚えようとはしません。もう一人の少姐は少し家が貧しいせいか、仕事に非常に熱心で半年でほとんどの図面が解るようになりました。もう一人最近雇った少姐は、最近始めたインターネットの方を専門にやっています。
 でも彼は営業が上手ではないので仕事が少なくなることが多く、あまり儲かっていません。先月は借りていた事務所を出て親の家に引き越しました。私にインターネットの台湾のプロダイバー(通信窓口)を紹介してくれたのが彼氏です。(月に四百元で無制限に使えます)インターネットでホームページを自分で作ってからはそこで紹介するパソコン関係の部品の安売りへの注文が増えてきて、その応対を一人の少姐が受け持っています。先日子供向けのゲームだけを展示した事務所を借りました。夜になると(六時から)その店を開けます。まだその店は新しいのでほとんどお客がありません。多分今月は赤字になりそうです。もし上手く行けばこの店は妹に管理を任せる積もりです。
 「アイフオン」というソフトを使って世界の人と顔を見ながら通話が出来るところを私に見せてくれました。マイクが百元、カメラが千元です。後は市内電話料金で世界の人と「ご対面」が出来ます。私はオーストラリヤの五十歳ぐらいの人と少し「ニーハオ」とやりました。向こうの人も台湾からと言うことで大変驚いている様が見えました。一週間語には早速私も材料を買ってきて「ご対面」を開始する予定です。
 
  では今回はこれぐらいで、再見