食べ過ぎ
  (十)  九六・九


 今回は私の病気の話を初めにして、後で今台湾を騒がせている尖閣列島(釣魚島)の話をしましょう。

 視網膜の病気になってレーザーの治療をしたことは前回お話しました。その治療はひとまず完治したのですが、八月のお盆休みに日本へ一週間帰ったときに、一応念のために大学病院で検査を受けました。治療は完全であるとのことでしたが眼底の膜に皺が寄っていてそれで視力が落ちているとのことでした。その検査には受付から麻酔の点滴から含めて半日が完全につぶれました。しかも麻酔がとれたのは夕刻でした。その日は八月十五日で東京中の人が地方へ出かけているのでしょうか、道路は何処も空いていて空は青く道もゴミが少なく、本当に日本は綺麗だなと感心しました。又台風が通った翌日だったので透き通った空からは太陽ががんがん照りつけた日で台湾顔負けの三八度という強烈な暑さの日でした。台湾は三五度を超す日はほとんどありません。(日本で、二十年以上前までは三十四度になると新聞の一面で報道されていたのではないでしょうか)
 で時々眼底検査を受けた方がよいと言うことで、台湾へ戻ってから近くの町医者へ行きました。看板にレーザー治療の設備ありということが書いて有りました。するとどういうことでしょう、目の検査に麻酔をかけることもなく、大学病院の巨大な検査機を使うこともなく、虫眼鏡のような中に小さな光源を持ったものであっと言う間に検査は終わりました。問題の通訳の言葉ですが、それは医者のお母さんと患者の私とが電話でやり取りすることになりました。
「私は日本語はあまり上手くないのですよ」という丁寧な声が聞こえて、顔が見えないのですが上品な日本のお年寄りという感じでした。声の感じでは七十数歳と言うところでしょうか。そんな通訳のお世話になった検査の結果、眼底の皺は実は治療時の内出血ということでした。しかも次のことが一番に言いたいことですが、病気の内容を知った最初にその医者は糖尿病は大丈夫ですかと聞きました。実はこの眼科に行く二週間前に尿道結石になり痛くて近くのこれも日本語が通じる町医者に行きました。そこでもこれまでの病歴を聞かれて目のことを言うと最初に「では糖分を調べましょう」と言われました。少し前に新聞か何かで糖尿病になると視網膜のような毛細血管が細くなっていくという記事が頭に残っていたのでまさか自分の病気がこれに関係有るとは本当に驚きました。
 その結果通常よりやや糖分が多いことが解りました。大体私は甘いものはほとんど食べません。コーヒーには砂糖を入れません。それなのに何故糖分が多くなったのでしょうか。今日言いたいことはこのことです。私が台湾にきて約一年で何故糖分が多くなったか解るでしょうか。医者の推測では私が運動不足と言うことでした。しかし私は仕事の性質上毎日地下四階から地上十七階まで階段を歩いています。そんな生活なのにこれはどうしたことでしょうか。
ああ、出来ればもう少し早く糖尿のことを教えてくれていればという後悔が有りますが、済んでしまったことは仕方有りません。
 勿論私自身はすぐに原因が分かりました。まあ一言で言えば食べ過ぎですね。
 痩せ気味の私は異国で病気になっては大変だと言うことで、毎日寮の食事を出来るだけ多く食べました。見ただけで手を着けない人もいるようなものでも私は懸命に食べました。そして時々いろんな台湾人に誘われて外食します。当然台湾では日本式の注文と違ってテーブル一杯にいろんなものを注文します。そのほとんどは油を使った料理で、又肉類がどの料理にも含まれています。食事の終わりには点心といって甘いものが出て、本当の最後には果物が出て終わりの合図となります。
 ここでも私は全部偏り無く箸をつけました。最近では豚の血でも一応は箸をつけます。
 まあこんな訳で当然必要以上に私は糖分をとったことが解ると思います。皆さんも台湾に来たときは気をつけてください。台湾では本当に皆さんテーブル一杯に注文します。しかも日本人同士で出かけるときは、「自助餐」といって食べ放題の食堂を選びます。そんなときもあらゆるものに手を出そうとします。普通の店で三百元ほど。ホテルで五百元ほどです。
 外国で病気になるほど不安になることはありません。町医者で私の番になって呼ばれるとき私の名前の発音が解らないので看護婦が肩を叩きにきてくれるのですから。大きな病院の時は掲示板に患者の番号が電光表示となっていました。
 そしてこの不安ですが、今回は少し複雑な気持ちになりました。というのは日本の大学病院で検査を受けたとき、レーザー治療をすれば保険が効かないので三八万円かかると言われました。台湾の大きい病院で治療を受けた時は五千元でした。共に保険なしです。(日本円に直すときは四倍します)何故こんなに値段が違うのでしょうか。これでは大きな病気になれば台湾にきて治療をした方が安いのではないかと思います。そして日本のような「高度に発達した社会」というものがなんとお金のかかるものよ、と言う気がしました。(保険が利けば二十分の一とのことです)
 ついでですが私のいる職場に今年心臓移植した人が今復職して働いています。日本ではまだ成功した例が無いと聞きましたが、このことなんかも複雑になる理由の一つですね。この人の病気の原因はタバコの吸いすぎで機能の七割が不純物(タバコの脂)で詰まっているとのことでした。それで現在は出来るだけタバコを周囲の人が吸わないように気を使っていますが、建築現場でいろいろな職種の人が出入るする関係でこれは大変難しい問題です。

 さて医者に注意されてから私は毎朝近くの「芝山公園」を散歩しています。この公園は周囲が徒歩約一時間の大きさですが、山の上では沢山の人達がグループを作ってダンスや体操をしています。体操とは勿論太極拳が一番多く、ダンスは社交ダンスです。その曲は日本の歌手のブルースやワルツなどもあります。東京音頭を全員が壁に向かって踊っている人達も居ます。美空ヒバリのかんかん踊りを踊っている人も居ます。バトミントンや卓球もあります。もう少し私が若ければそれぞれのグループに混じって朝の一時を楽しんでいることでしょうが、今はおにぎりを途中で買ってそして英字新聞を読んでいます。
 八年前まで戒厳令を敷かれていたところとは思えない楽しさと自由の雰囲気が溢れています。その戒厳令の時代にダンスなど人の集まりが必要なことが許されたのでしょうか。職場の台湾人に聞くと、蒋介石の頃は最も厳しく勿論許可がされなかったそうですが、その息子蒋経国の時になって大幅に自由が増えたとのことです。この経国は元は情報収集の方面を担当していて怖がられた存在だったことも有ります。奥さんがロシア人で(というよりソビエト人でソビエトの留学時代に知り合った恋人です)目が青いことで知られています。蒋介石は国家予算の殆どを大陸奪還に投資しました。しかしその後一九七八年に総統となった息子の時代にはもう時代が変わっていたのです。
 で、世界一長い戒厳令の社会では有ったのですが、今ではその頃に芽生えていたものがこんな風に庶民の生活に花を添えてくれているのです。もっともまだ二十年しか経っていませんが。ダンスを踊っているのは四十代五十代の人達です。
 だから私の説明には愛好家の年令が歴史と少し合わないところがあるようですね。曲が日本のものが多いことや年齢からゆくとどう説明すべきななのでしょうか。まさか日本の統治時代に社交ダンスがあったと思えないし。しかも国民党がここへ来てからは日本が本当の敵という教育を台湾人にしてきました。何しろ日本の内容のものがテレビで放送許可されたのは三年前からです。(九月に行われたテレビの子供番組の人気のトップは一位が「一級さん」で二位が桜丸小丸子です。大人のトップも一位二位がたけし城と志村けんです。)
 前回お話しましたが終戦三年前から日本の軍隊に愛国心から兵士になった高山族の人達がいますが、彼らは国民党が来てからはそのことをひた隠しにしてきていました。このために日本政府への補償要求が表面に出せなかった訳です。

 この「芝山公園」は日本の統治に対する反逆事件でも有名なところです。この周辺の人達は日本の教育制度というものを理解が出来ず、信じようともしなかったのに、しかし当時台湾へやってきた教育担当者達は唯日本政府の計画通り、学校を建ててその教室で現地人が教室へ来るのを待っていました。しかしやってきたのは、子供ではなく、武器を持った人達で、数人の日本の教育者が殺されました。そのことを書いた石碑が公園の頂上に有ったのですが、草むらの中に今は倒されていました。
 
 さて釣魚島の問題ですが、七月、八月頃は香港の反対運動の紹介が主だったのですが、八月に日本の右翼が台風で倒れた灯台を再度建て直してから毎日の新聞のトップにこの問題が出るようになりました。九月の第一日曜日には高島屋の食料品売場にデモ隊が押し寄せて日本製の商品を持ち帰るという事件も報道されました。商店主も問題の性質上反対できず、困った表情をしているところが新聞に出ていました。
 三十人の若者が白はちまきを巻いてこの島に台湾の旗を建てに行く行動隊結成のニュースもありました。毎日曜日には総統府前に千人規模のデモ隊が行進しています。このような連続した行動は半年前に大陸が弾道弾で台湾の総統選挙を脅迫したときにも無かった、激しいものがあります。台湾人の気持ちの動きが身近に感じられます。
 
 先日も職場の昼休み、周囲に台湾人ばかり十人ほどがテレビを見てわいわい騒いでいました。中身が釣魚島のことは解りますがそれ以上のことは解りません。とにかく私には何の説明もしてくれません。あとで聞いて解ったことは、テレビ局が大陸と台湾と日本との海軍力の比較をやっていたということです。それによると日本の海軍力は両国を遥かに上回っていて日本の全艦隊がその島にやってくれば力ではどうしょうもないという説明があったそうです。こんな風に台湾人皆がかなり身近に問題を考えているのが解ります。
 遂に台湾省と台北県が公共工事の入札を当分の間、日本企業に対して禁止しました。その二つは国民党の強いところです。
 でここでちょっと説明を付け加えておきますと、デモを組織しているのは国民党から飛び出た「新党」です。決死隊を組織したのは右翼の一つです。
 国民党も新党も大体日本が嫌いです。だからこの釣魚島の問題が起こったというとそれは言い過ぎですが。
 
 台湾の新聞には香港の抗議行動もかなり詳細に紹介しています。ただその表現ですがこんなところがあります。「香港人のグループが共産党の、敵の旗を釣魚島に建てに行く計画中です」
 でも毎日こうゆう雰囲気の中で新聞テレビを見ていると、私もこの島の行方を真剣に考えざるを得ません。
 まず一番の問題は日本の政府にあります。国際問題になっているときに、話合いをしないで、右翼が七月八月と二度にわたって灯台を建てに行ったときに黙認をしてきました。やはり政府の態度、考えをはっきりと説明すべきだと思いました。
 次はこの島の本当の所有主は誰かということが問題です。日本の新聞によりますと、一八九五年(明治二八年)の約百年前(ちょうど清国から台湾の割譲を受けた年)から日本のものであり、戦後は沖縄の領土の一部として(当時は琉球政府)米軍が使っていたということですね。しかし最近は無人島としてだれも近寄らなかった島です。それが二百海里の漁業権や、この島には石油が埋蔵されているらしいということで俄然国際問題となってきた経過があります。
 私は毎日その島の位置を新聞で見ているわけですが、何故台湾のすぐ北にある島が日本のものか不思議でした。沖縄列島の並びとはかなり左(西)へ外れています。(沖縄の石垣島は台北よりも南にありますが)でもここ台湾に居るからでしょうか、ほぼその歴史が解りました。百年前に日本が清国から台湾を譲り受けたとき、それ以前は何処のものだったのか、それが問題ですが、多分無人島として注目さえされなかったのではないでしょうか。少なくとも日本からあまりにも離れすぎているので日本の領土ではなかったと思いますが如何でしょうか。
 そのころこの島は無人島だということで、無視されてきて、領土としての意義など無かったのではないでしょうか。       
以上は私の考えですが、今日の新聞によりますと、自民党は日本領土として再確認したということが書かれています。
 でもこのことはそれほど昔のことではないので簡単に結論が出ることだと思います。明確な説明の出来る態度を日本の政府として取ってほしいと思います。少なくとも右翼のなすがままで、後は海軍力にものを言わすような態度は避けて欲しいという気がします。

 ここ台湾は外国ですが、これほど日本に親密な外国は世界に一つしかないということが海外で仕事をしてきた人達の共通の意見です。そのような国が世界にあると言うことは、海外との貿易で生きていこうとしている日本にとってこれに勝る財産はないのではないでしょうか。
 これから新たにもしこれに似た友好国を作ろうとしたらはやり五十年はかかると思います。「無人島一つ」で今まさに日本は友好国を無くすかもしれません。
           再見