千葉哲也恩人を求めて中国へ
       (NHK 朝8時からの放送)

 12月2日(再)放送「千葉哲也中国の故郷に恩人を求めて」を見ました。かって敗戦時の混乱時期に千葉さん達6人家族を助けてくれた人に会う旅は実に感動的な物語となっていました。
 千葉哲也は満州で生まれ育ちました。場所は遼寧省首都審陽です。6歳の時敗戦で引き上げました。お父さんは審陽で工場を経営していました。そして突如敗戦を迎え帰国するとき、中国人たちが塀を乗り超えて日本人の家に押し寄せてくるような状況で、ある中国人が彼ら親子を天井裏に隠して、そして冬を過ごすことができ、翌年生きて帰国することができたのです。
 中国人の名前は「除集川」と言いました。その人は父の工場で通訳として働いていたのです。天井裏に隠れているとき哲也の父は「もしほかの中国人に見つかると除さんが大変迷惑をする」と言うことを子供達にきつく教え、小さな空間で兄弟4人が我慢していたそうです。審陽の冬は厳しく窓ガラスも霜で白くなります。そこに哲也は指で絵を描いたり、あるいは紙切れに絵を描いて他の弟たちにお話を作って楽しく過ごしたのです。窓からは外で中国の子供たちが遊んでいるのが見えました。そのときの絵を描くことが後に彼が漫画家となる素地を作ったのだろうということでした。

 テレビはNHKのカメラマンと一緒に審陽にいくところから始まります。前もって中国側に「恩人除集川さんに会いたい旅」と言うことの連絡を取っていたので、審陽のテレビ局が人気番組の中でそのことを放送し「除集川」さんを探す骨を折ってくれていました。
 審陽に着くと地元のテレビ会社も千葉さんと同行しカメラを回しました。
 最初にもたらされた情報は「除」と言う姓は合っていましたが、しかし人違いでした。しかし次に名乗り出た家族がまさに千葉さんが求めていた人たちでした。しかし除集川さんその人は3年前に亡くなっていたのです。
 千葉さんは昔匿ってもらった部屋に案内されました。かすかに残る想いでをその天井裏部屋から、ゆっくりと引き出していました。案内してくれたのは当時3歳だった除さんの娘さんです。千葉さんが現在65歳ということですから、その方は62歳くらいでしょう。
 除さんは戦後大変な苦労をしました。文革が始まり、昔「日本のスパイ」であったということになり、批判大会に引き出され、首に60キロの重しをぶら下げて、市中を引き回されたのです。そのため首筋に2センチほどの凹みの傷ができ、それは一生消えなかったのです。
 審陽に「1931年、日本による鉄道爆破で侵略が始まった、中国民族の慚愧の記念館」があります。そこの展示場に親子の銅像があり、そのデザインを千葉さんが描きました。(制作は中国側)千葉さんは子供が親を見上げているその姿で少しでも両国の対立が柔らかいものになることを願ったといいます。「もちろん日本の行為は許されるようなものではないが、しかし少しでもこの子供の素直な顔から、対立の気持ちが柔らいでくれないかと願った」と述べています。
 そして千葉さんは恩人達の家族に案内されて除集川さんのお墓参りをしました。
 
 この番組を私は本当に感動の気持ちで見ました。千葉さんの恩人への想いは一言一言が日本人である私の気持ちにぴったりと重なりました。両国の間に今も厳然と存在する辛い苦しい感情の対立。この言葉は日本の側の言い方でしょうか。中国人にとっては苦しく悲惨で、恨みが伴っているでしょう。それは55年経った今でも当然でしょう。
 千葉さんの感情とその想い、どの言葉もきわめて自然なものと思いながらこの番組を見ました。
   04年12月2日記す