台湾の将来

 先ず初めに次の書を紹介しておきます。
[ 蒋 経国 伝 ]
  江 南 著 川上奈穂 訳 同成社 刊

 蒋 経国は「蒋 介石」の長男として生まれた。中国の激動の時代に、孫文の指導する国民党とソ連とが友好な状態があって、そのころソ連の大学に入学した。 
 帰国後は父蒋介石の支配する国民党の中で活躍し、やがて強大になった共産党に追われた後は父とともに台湾に渡り一九七五年台湾総統となり、その地で生涯を終えた。
 この本の著者は経国より少し若く、大陸で経国の良き政治家としての面を観察し、その後経国と同じ頃台湾に渡った後は経国の治安維持者としての冷酷な面を捉えている。
 そして歴史家としての任務のような自覚で経国の生涯を記録し続けようと努力した。この本の資料とした書類の紹介が最後に載っているが、正に膨大な数である。
 この経国の生涯についてはあまり正確には世間に知られていないようで、特にソ連での詳細は当時の時代のせいもあって中国は勿論アメリカや日本では謎とされてきた面が多かったらしい。著者の言によると経国の「社会主義者的な政治活動」は常にアメリカから批判的懐疑的に見られていたようである。
 経国はソ連の大学で共産党に入り父蒋介石を批判する声明を発表をしている。
 しかしモスクワで中国の地区党責任者と口論したことで「敵階級に利害を売り渡した」と避難されて、シベリア追放となって経国の一生は終わるところであった。
 しかし「蒋介石の子」としての存在をソ連としては将来使えると見て、モスクワ近郷の農村へ追放に止めたため命拾いをしている。
そのころから五年間が行方不明とされているようだ。経国は寝る場所さえなかった農村で人々に慕われるようになり、また工場に回された時そこの縫子エレーナと結婚している。この本には記されていないが、このエレーナはまだ台湾で健在だと思います。昨年台湾に居たとき青い目の太太(婦人)が健在と聞いたことがあります。
 この書は一貫して経国のあるがままを追跡している。そのこと自体が非常に困難な作業であったろうと思われる。
 ただ経国の活躍は、中国民衆の貧しさや腐敗した政治経済の上層部と闘ったという面もあるが、治案維持の名目で明らかに大衆の自由を抑圧したといえる面はどう見ても気持ちの良いものではない。そんな相対立する面を持った経国をその全側面を記録するというのは歴史の記録としては有意義であるが、読み物としては重く複雑な感じがする。
 勿論著者も同じような意識が常に頭を離れなかったと思われる。しかし彼は最後まで経国の真の姿を記録し続けた。

 現在ではアメリカ大統領クリントンの女性関係が連日報道されているが、中国・台湾では、おそらく日本も戦前はそうであった様に、大衆が支配者の真の姿を捉えることは死を意味した時代が続いたのである。中国では現在も変わっていない。
 台湾ではそのような恐怖の時代の最後をこの著者が演じることになった。
この書は初め一九七五年に著者の許可なく発行されたと言う。そしてその後も加筆されて彼の別のペンネームで公表されたとき彼「江南」はアメリカにいた。そこを経国配下のものが「江」を殺害したのである。
時は一九八四年十月サンフランシスコであった。アメリカはすぐに暗殺者は台湾政府の差し金だとして抗議している。
 それが引き金となって台湾での民主化の要求が爆発し、次の李総統の代にすべての活動が一応自由化された。暗殺以降五年が経っている。

 しかし国民党と言えば腐敗した党という感じが強く、当然その総統であった経国も同じと思いがちだがそうでもないらしい。
 例えば経国の全財産を公表しろと言う要求が出たとき、この著者は「経国には私的な蓄えは無い」と軽く流し経国の肩を持っている。
 また経国の代に台湾経済は大きく発展し中国体陸を引き離したと説明している。(大陸ではその頃文化大革命があって経済が後退し社会全体が破壊されていたことがこの記録には全く登場しない)
 勿論その発展の仕方にも一概に素直に受け取れない面がある、台湾の経済の発展の仕方は健全ではなく、その商品は不良品が多いと批判されていることを紹介している。
 このことは現在でも街のあちこちで見かけられるが、しかし世界のトップレベルの製品が出てきて居るのも事実である。現在韓国・タイなどで経済不安が深刻になっているが台湾ではそのような現象はない。それも経国の頃の発展により基礎ができたお陰なのだろうか 。

 この書には出ていないが、経国が何故台湾人に次の総統の位を譲ったのかが謎とされている。
経国は生きている内に次の総統には身内を選ばないとは公言していた。しかし李総統が選出される国民党大会にはわざわざアメリカから宋美麗が台湾にきて慎重に選出するようにと釘を刺しに来ていたのにである。
 そのことについては「街道をゆく、(台湾編)」司馬遼太郎著で、著者司馬と李統輝総統の対談が載っています。
 李氏は言っています。「蒋経国は入病した後も自分が死ぬとは考えていなかった。勿論毎日病床に行った私に席を譲るというような話は全くなかった。もし譲るような考えがあったら国民党内で大問題になっていたろう」と書いてあります。
 「街道を行く」の中に司馬の意見が書かれています。私は強く同感したところなので紹介しておきます。
 現在中国と台湾の関係で緊張が生まれています。中国は当然自国の領土という考えで、台湾が独立を目指せば武力介入をも辞さないことをこれまで主張してきた。しかし中国大陸は数多くの異民族を含みそれを全て一国に纏めようとするのは無理なのではないか。
 というところです。
私も不思議に思うのは中国も台湾も(台湾の国民党政府の教育の下で)、各民族の言語を「方言」という括り方で考えています。そのことによって同じ国民という範囲に収めているようです。しかし本来はその括り方は間違っています。「地方の特殊な言い方」と各民族の言語は全く別のものです。昨年カナダではフランス人による国家建設を目指す暴動が起きましたが、民族・言語の違いは現在では大きい意味を持っています。
 しかも中国には実に多くの民族が居ます。かって世界の半分を統一したと言われる「モンゴル」や三百年続いた最後の「清朝」の北方民族、その言語は現在は漢化されたそうですが、そのほか中国を支配した、女真族やウイグル族など、日本より大きくて歴史の古い民族が数多くいます。しかし漢族はもっとも文化が高くその他の民族は自立する力は無いというのが中国の考え方です。(台湾の国民党もほぼ同じ考えであるところが、救いようのない矛盾ですが)
 しかし歴史を見ると清朝末期の文化は実に現実離れした「古・閉」そのもので、紀元前の漢の始皇帝の頃の方が自由で民主的であったという司馬氏の見方に私も同感です。今何故あえて十二億の民が一つの政府の元に統一されねばならないのか。それよりも各民族の独立と自由が有ればすばらしい発展が始まるのではないかと思います。
 もし台湾に三百年前に大陸から渡った人が居たからという理由ならば、アメリカはイギリスに還るべきでしょうか。
 もっとも現実の政治はもっと矛盾を常に含んで発展していくのも事実ですが。

再見