京都の太秦の由来について

2004/10/23 記す

 京都の西京区に「太秦」(うずまさ)と言うところがあります。現在は昔の大映撮影所の展示館が観光地となっています。
 この「うずまさ」と言う言葉はちょっと日本字離れしていて、恐らく外国、多分中国か朝鮮半島から伝わったものと関係しているだろうと、私は今まで考えていました。

 今回太秦にある「蚕の社」と、近くの古墳を見学することが出来、また下記のような資料を見せて頂き、大まかなその歴史的由来を知ることが出来ました。

 先ず「蚕ノ社」から、説明しましょう。次の写真がその社にある3本鳥居です。



少し上から見たところ           横から見たところ   
 鳥居の頭は正三角形です


 鳥居の中心から清水が湧き出ています。その水が鳥居の廻りに溜まり、小さな池となって外へ流れ出ていきます。近隣の叔母さんの話によると、昔からこの水が流れていて、夏などは此処へ足を入れると冷たくてとても気持ちが良かった、と言います。
 
 さてこの社の名前が「蚕」となっているのが、太秦と関係しています。この辺りに住んでいた「秦」氏が蚕の養殖による紡績を業としていたことと、社を造るというのは大きな勢力を持っていただろうということです。
 
 次は太秦地域の地図です。数多くの大きな古墳群があることが解ります。つまりこの辺りに「秦」 と名乗る豪族が住んでいたことが判ります


そして以下は「天塚古墳」の管理人からお借りした「葛野大堰築造と松尾遺跡」東昌夫著, に記された内容の概略です。
  そこには明確に、かってここに住んでいた「秦」という豪族が中国からの渡来人であることが書かれています。

  秦と名乗る部族が近畿西部に来たのは430年頃、約1万名。その前は北九州・瀬戸内海などに定住し、航海に習熟した海事集団だった。
 その後約2,3万名の中国からの渡来民が加わり、現京都市から西部、桂川上流の治水工事に従事し、当時常時洪水の発生地となっていたその辺りに「葛野大堰」築造に7万人程を動員し完成した。
 秦族は中国の言語と風俗・習慣を持ち、万里の長城の築造の技術を持ってこの大堰を完成したと考えられている。この「葛野大堰」が完成したのは490年頃からの工期10年間。その後約300年ほど経過した頃には経年劣化で消滅し、現在は地上には姿がないが、地下に存在する場所が確認されている。

 現在太秦にある古墳群に埋葬された人名と時代は次の通り。

 段の山古墳  470年 秦公酒
 清水山古墳  490年 意美秦公  (秦公酒の長男)
 天塚古墳    510年 忍秦公 (秦公酒の次男)
 垂箕山古墳  530年 宇志秦公 (意美秦公長男)
 馬塚古墳     560年 丹照秦公 (宇志秦公長男)
 蛇塚古墳    580年 河秦公 (丹照秦公長男)
 双岡一之岡  610年 国勝秦公 (河秦公長男)
   不明     ー    秦河勝 (国勝秦公長男) 
                 この頃が秦部族の全盛期。

 古墳群はこのほかに、松尾族、伏見族のものがある。

 秦部族は治水・墾田・機織・土木・交易・鋳造などの先端技術を持っていた。
 「葛野大堰」築造以前は”松尾族”を名乗っていたが、秦公酒時代に松尾族から分離した秦族が、大蔵大臣の役職を受け、「兎豆麻佐」の称号を得た。これを初め「太勝」に充て、後に「太秦」とした。
 延喜17年(917)、聖徳太子伝暦に、聖徳太子が憲法17条を創った後の8月、「秦河勝の先導で楓野大堰に臨みて宿し仮宮を峰岡の下に造る、日ならずして了る」と記されている。

 この後も秦部族は長岡京や平安京の造成に重要な役割を果たした。

資料の紹介は以上です。

 また、太秦には広隆寺があります。ホームページでそれを開くと”日本書紀によると、秦河勝が、聖徳太子から仏像を賜わり、これをご本尊として建立したと”と書かれています。

現在でも京都市には秦(ハタ)さんと言う名字の人が各所に住んでいます。

 私の感想と疑問。
1. 日本の古代には中国と随分深い繋がりがあったこと。
2. 特に治水や都の造営、機織、財政等々多くの面で先端技術を受け入れていること。
3. 1万名もの人数が中国から来たと言うことに驚きます。このような人数が一度に来たとは考えにくいので、ある時はかなりの人数が大挙して、有るときは少人数が長期にわたって渡来していたのだろうと思います。
恐らく彼等は、中国や朝鮮の政治的或いは自然災害などの大混乱から逃げてきたと思われます。
 
 秦族より500年以上早い時代、 「徐福」は約5000人で渡来したと言われていますが、当時の船の大きさを考えても、一艘に乗れる人数は数百人と思えるので、大船団でやって来たのでしょうか、これを見た人達は大きな驚きの目をしたと思います。
4.  日本の古墳そのものは400年代後半から580年頃までで、それ以降は突然古墳形式が使用されていません。では古墳形式は中国から来たのか、朝鮮から来たのか、そして何故古墳形 式が廃止されたのか、その辺が私の疑問です。
    日本の最古の古墳、キトラ古墳などは、北朝鮮北部にその原型があると言われ、その保存に日本政府が協力する事になっています。

5. 「兎豆麻佐」の称号はどんな意味があるのでしょうか。 発音からすると外来音のように思えます。この時代は日本文字がまだ確定していない時代です。漢字を発音記号として使っているので、文字からだけでは意味を判読できません。
   この「うずまさ」も当時の政権(?)内部での使用言語でしょうか。この言葉は外来語ではなかったようですね。「うずまさ」の発音は中国語にはありません。
   日本古来の言葉かそれとも朝鮮言語系か、それとも??
また大蔵大臣の役職を与えた当時の政権とは誰なのでしょうか。飛鳥に都が出来たのはもっと後の時代のようです。(6世紀後半)

6. この「秦」部族は秦の始皇帝の末裔という話もあるそうですが、始皇帝の時代から600年ほど離れているので、あまり信用できません。