北京ツアー
98/08/15
 1998年8月9日から「二人で四日の北京」というツアーに参加しました。
二人で16万円という費用が安いのか、大勢の参加者が有って、観光バス二台と言う人数でした。
 最近の中国は激変しているという噂を聞いていたので、果たしてその実体や如何にと言う気持ちと、もう一つは、やはり死ぬまでに万里の長城を見ておきたいという願いがありました。

 今私はNHKラジオ中国語講座を聞いていますが、八月から「ミンミン 父との旅路」と言うのを放送しています。ひとりの少女が視網膜にガン細胞が出来たために失明するところから話が始まります。そのことを知った父親は娘の目が見える間に大きな海や万里の長城を見せて置いてやろうと考えるところがあります。
 宇宙の人工衛星から地球を見たとき、人類が造ったもので見える物は万里の長城だけだという話を聞いたことがあります。それだけの大きなものなので誰もが一度はみたいと思うのは当然でしょう。
 その長さ6千3百キロといいますから日本列島の何倍になるのでしょうか。
 勿論それ以外にもいくつか実際に見たい物が有ります。

 何しろ社会主義になって以来1970年代の末まで経済成長がほとんど止まっていた国が1990年を超えてから毎年十数パーセントの成長を続けているのですから、普通一般の人たちの生活をこの目で見ておきたいというのもその内の一つです。
 それとたまたま知人で、戦前の大連で育ち中国語を話せる為に北京での仕事で長期滞在している人がいるので、その人に話が聞けると言うこともありました。

  さて北京の第一の感想は街の風情から始めましょう。
 北京市内は戦前のままの煉瓦づくりの庶民の家がありそこでは朝市・夜市に人々が「揚げパン」や「そば類」を買って食べ、また道路上に床屋が椅子を置いて営業と言った風情があります。
その家の中には風呂とトイレがなくて共同のトイレが近くにあって、風向きですぐにその場所が判るそうです。日本人が利用したくてもたぶん無理だと通訳が言っています。
(通訳は四十歳くらいの中国人男性です)
でも大通りには外壁のある公衆便所が出来つつあります。
 朝夕の通勤には自転車が大通りを埋めます。北京の自転車は全てライトがないのです。中国人は眼がよいので大丈夫だと通訳が笑いながら言っています。
 
 今回の観光の特徴はショッピングが中心の内容でした。
観光バスが行く名所旧跡の近くには必ず外人向けの「ショッピングセンター」が有ってそこでたっぷり買い物をし、トイレを借ります。
しかもその休憩時間の長いこと。一時間半ぐらい停まります。充分に買い物が出来るように配慮しているからでしょう。
 2年前まではすべての入館料と商品代価は外国人と中国人と「2重価格」だったそうですが、現在は表向きは統一価格です。それは中国がGATTに加盟し国際社会の一員になろうとしているからだそうです。
 しかし商品の価格について言えば、外国人の買う物はだいたい日本と同じか少し高い程度に思いました。交渉次第で値引きをしてくれるそうですが。
 万里の長城の入り口のように中国人も共に入るような商店では、店員が日本語を話すと言うことは有りませんが、外国人専用のショッピングセンターでは店員たちは日本語を懸命に使って勧めに来ます。
 ただ、まだ店員との交渉が上手く行かないときに社会主義の衣を着ているのかなと感じたりします。たとえば売り手の小姐はお釣りのお金をぽんと放うりだして向こうへ行ってしまったりします。熱心に買い物を勧める小姐に「私はお金を持っていないよ」と冗談を言えば、いやな顔をしてさっと向こうへ行ってしまったりします。
 日本語を使って熱心に商品を勧めにくるその姿は、これも中央の計画によるシステムなのでしょうか。
 有る小姐は私に中国のことわざを日本語で教えてくれました。
 「万里の長城を見ないと男になれない」と。”なれない”と言うあたりはちょっと日本語から外れて、たどたどしかったですが。
 現在の平均的な給料は日本円で一万八千円ほどだそうです。20代後半で1万2千円ほどです。それから比べると私達外国人が目にする物価はべらぼうに高いように思えます。 
(有料トイレは日本円で5円くらい。これは現地人も同じ)
 それでも一応どの商店でも観光客に熱心に勧めようとするのは国家公務員という制度がいろいろなシステムに変わっているのでしょう。
 現在他の国と比べて特別に変わった所は一人っ子政策でしょうか。
 NHKの先述の教科書によると、結婚した若い二人に対し子供を生む時期を職場の指導者が決定し二人に許可を出します。勿論生涯一度だけです。
 朝日新聞(7/17)によると現在の中国のトップ女優「コン・リー」さんを紹介しています。今秋日本のコマーシャルにも登場するそうです。彼女の言い分は自分の出演した映画はとても審査が厳しく一般の国民が見ることは殆どなくて、大抵は外国で見るか海賊版だと嘆いています。きっと国家は遠大な観点から慎重に指導しようとしているのでしょうか。

 今から6年前に揚子江が反乱して大きな被害が出たことがあります。その時は洪水の被害の実態を報道させないで、国民に対して「いま日本やアメリカの帝国主義がこの混乱を利用してスパイをしようと狙っている」と言って職場や地域の定例の政治集会で警戒心を高めるために革命歌を歌わせたそうです。
 でも今年の揚子江と黒龍江の被害はテレビで報道されていました。日本やアメリカの帝国主義のスパイは心配無いのでしょうか。
 ちなみに8月29日の新聞では黒龍江省では被災者850万人、損害額140億元(日本円にするには約20倍です)と報道されています。

 また一泊目の夜中に銃声と異様な騒ぎを数人のホテルの客と通訳が聞きました。それで翌日の新聞に詳細が載っているかと通訳に聞いたら「いやこの国の報道はあまり透明ではありませんから」という答えでした。
 その前日の夜私は夫婦二人で10時過ぎの大通りを歩いてみましたが、どの通りも大勢の中国人が涼を求めて街角を歩いたり座り込んだりしている姿がありました。別に店が開いているわけでもないのにその数はもう何処もびっしりとすごいものです。北京の街が暑いことと住まいにクーラー等が無いことと、社会が安定してきたという印でしょうか。

 現地に長年住んでいる遠縁の日本人に話を聞くことが出来ました。
 それによると、2年前から商店の陳列台に常に商品が並ぶようになったそうです。それまでは陳列ケースに品物が無くなっても店員は自分の責任ではないと言って手配をしてくれなかったと言います。
 北京市内から万里の長城への郊外の道路沿いには大きな共同住宅が並んでいます。しかし最近建てた物は家賃が高く誰も入らないので高層の住宅に建て替えるそうです。その一般人の入れない住宅が何十棟と並んでいます。
 そしてついにというか、来るものが来たという気がしたのは、今年の4月1日から住宅への政府の援助が全くなくなったそうです。既に入居している人とこれから入る人では大きなアンバランスですと通訳が話しています。

 言い遅れましたが北京のホテルについて最初に嫌な気になったのは、室内に貴重品を置いておくと盗られると言うことで、全員のパスポートを現地の旅行会社が別のところに保管したことでした。(安全上の問題なのでしょうか、それとも社会主義国家の管理の問題なのでしょうか。今まで行った外国では中国以上に泥棒の多い国がありますが、パスポートは自分で守ってくれと言われたものです)
 それと京劇を見に行ったとき中国人の通訳が私たちに注意した話ですが、京劇の近くは乞食が居て身体に触ったりしにくるので持ち物に注意してくださいという話をしました。
 ちょっといやな印象を書きましたが、観光に行った万里の長城や天安門前や天壇公園、明・清朝の墓などどれもスケールが大きく雄大でやはり日本とは違うという気がしました。社会主義になってから一般中国人には禁止されていた市内の大きな公園にも入れました。
 京劇の参観者は約300人ほどいてその半分は日本人です。その他はヨーロッパや台湾や韓国人でしょうか。アジアからの観光客は今年は不景気で激減しているとのことでした。
 観客席の前半分はテーブル付きの特別席です。そこに座っているのは殆どヨーロッパ人でした。経済的に世界のトップを占める日本人は全て一般席です。このあたりのお金の使い方は何を物語っているのでしょうか。
 
 翌日行った天安門のある革命広場の前では大きな壁に毛沢東の顔の絵があります。
 通訳は「この人を知っていますか。”けざわひがし”さんです。」と日本人を笑わせました。近くにはほかの中国人もいました。その一言で現在では表現の自由が有ることが判かります。数年前には想像もできないことです。そしてまたこうも言いました。
 「以前はこの人に手を合わせて毛万歳毛万歳、と言いました。でも今は”もう沢山”です」、と。そして聞いている日本人はまた笑いました。この通訳は顔はきつそうな感じですが良く冗談を言います。

 「マルクス」について、今ではどうなっているのでしょうか、と尋ねると彼は「私達はマルクスを大変勉強しました。勉強しすぎてもまた勉強しました。そして何が残ったでしょうか。何も残らなかったでしょう。人々は傷つきました、精神も身体も。だから今では誰もマルクスを勉強しません」

 また彼はこう付け加えました。「以前は誰でも政治にとても熱心でした。でも今では誰も政治のことに触れたがらないです」と。
 次に4千万人が餓死したあの「大躍進政策」について聞いてみました。(この4千万という数字は事件後35年経って初めて公表しました。しかも責任者の名前も何も明確にしない形で)
 通訳は答えました。毛はいくつかの大きな間違いをしました。その大躍進政策もその1つです。農民が全国で餓死しました。当時はそのことを知っている人もいました。でも毛に反対した人は全部殺されました。林彪もその一人で、彼は頭が良かったので、反対する方法として、彼は毛を持ち上げる手段を選びましたがそれも上手くいかなかったのです。
 
 こんな話が大通りで出来るというのは本当に中国が好くなったという気がします。これだけでも今回の旅は来て好かったという気がしています。
 別の機会に通訳から聞いた話ですが、現在国家企業の3分の1が倒産状態だとのことです。
従ってそこの管理職に就いていた党員たちの職場が無くなるわけです。それでなくても党の人気が急速に悪化しているのに、これからは党籍を持つことの意味が無くなる時代になるのではないかということでした。
 
 9年前に、中国から東京に来て私と友達になった30才位の青年がいました。彼は中国の実体を少しずつ話してくれました。
 4年前のことです。
 日本や世界で何年もベストセラーを続けている「ワイルド・スワン」や「上海の夜」を読んで私にその感想を話しました。
 「中国ではこの小説を読みたいと思う人はいないです。革命直後から私達は党によって家庭で職場で管理されてきました。上から来る命令は絶対で反対は許されません。反対すれば敵階級として単案(個人管理表)に記録されます。密告を奨励され親でも子供でも誰でも密告をさせられました。24時間管理されてきたのです。誰もがそのころの苦しさを思い出すのが辛いです。この本は当時のことを克明に記録していてとても読む気になれません」
 又彼は、「中国に来ている北朝鮮の留学生は日曜日も朝から政治集会をやっているよ。外国へ来ても自由なんか無いのです」と、顔をしかめて言いました。
 
 またこんなことも言いました。「日本では共産党がいるからとても好いですね」と言いました。私はその真意を測りかねました。日本の共産党もまだマルクス主義を信奉していると思ったからです。それで彼にその理由を尋ねると、彼は「もし中国にこの様な、政府に反対する党が存在すれば私達はどれだけ助かったか計り知れないです。あなたがた日本人は毎日の生活で反対意見を言えないと言うことがどれほど辛いことか解らないのです。」こう説明する彼の顔は本当に辛そうな表情でした。
 そして何かを想いだして彼は笑い出しました。
 「私が中・高等学校の生徒の頃は、日本やアメリカの労働者は何も失うものが無いくらい搾取され、抑圧されて毎日悲惨な暗い生活を強いられ、資本家と闘っていると教えられてきました。私達の新聞では日本の労働者が赤旗を振ってストライキをしている写真ばかり載せてきました。」
 こう説明したこの青年は、機会に恵まれて1988年に日本に数ヶ月滞在し企業を見て回りました。そしてそこで日本の自由を知ったわけです。社会主義では考えられない一人ひとりの自由を。
 89年の天安門事件の時には学生と共に行動に参加し、武器の集積なども目撃しています。
 その事件が武力で弾圧されると彼は妻と乳飲み子を祖国に置いて香港経由で日本にやって来ました。ただ少し賄賂が必要だったようです。
 天安門事件のように自国の民衆に対して軍隊の導入をすると言うのはアジアではまだ数カ国残っていますが本当に世界を騒がせた事件でした。これに対して日本の人々はどんなに感じたのでしょうか。中国政府が国民への武力弾圧で成り立っているように感じたのではないでしょうか。
 しかもその後の中国政府のしたことをまだはっきりと覚えていますが、北京市長名で次のような小冊子を世界に送付したのです。「事件で死んだ学生は皆無で警察のジープに接触して怪我をした人が居ただけであると」
 そのときは一つの国家が嘘を付くことにただびっくりしていました。
  
 彼が香港の税関を通った時「ああ自由の国がそこに有る」と叫びました。そのことが東京の有るサークル誌に掲載されました。たしか91年のことだったと思います。
 そして数日後に有る熱心な日本人の「マルクス」信奉者から電話が来ました。その声は怒りに震えるのを押さえきれないと言った感じでした。
 「おい、あの原稿を書いた中国人というのは本当に実在するのか」と。
 電話をした人に直接会って話を聞いてみると中国に対する思いこみはそれはすごい物でした。
「中国ではすべての人民は教育を受け新聞を読んでいるはずだ。党は信頼され、労働の喜びは我々資本主義の労働者と違って搾取が無く、創造の喜びを持っているはずだ」と「はずだ」を繰り返しました。
 たぶんその頃は日本でも急速に社会主義の実体が明らかになっていった頃で、でもまだこの様な信奉者も一部に居た時代でした。
 
 ついでに賄賂についても青年の説明を紹介しておきましょう。
 例えば有る党の幹部を中心に北京で新しい雑誌社を創ることが決まりました。そこでその幹部が土地建物人間の調査をして予算の獲得を上に申告しました。
 すると中央計画部では人手の確認に三年、建物の許可に三年掛かったのです。その予算が決まった頃にはその雑誌は必要が無くなっていました。海外からの企業の参加と投資が許され中国だけでゆっくりと計画することが無意味になっていたのです。
 これは責任者が党の幹部に賄賂を出すことを潔良しとしなかったためです。
こんな訳で計画経済が悪いのか賄賂を使わないのが悪いのか、とっても難しい問題です。 しかし中国の社会主義のスタートは実はきわめて恵まれた状態でスタートしているのです。
 中国人大衆の党への信頼は絶対的でした。計画経済のために労働者のストライキ権は廃止され、住居移動、転職は禁止され職業選択も個人では出来なくした状態で出発しました。これ以上やりやすい状態は無いでしょう。
 こうして計画経済のために国家に全権力を集中して、人々は完全に受け身となり、党に管理された商品となったのです。生産の向上もなくなり、文化的精神的な生産もストップしました。
 階級闘争が生産を高めると言って党は常にブルジョワ分子の摘発を奨励しました。一年に一度は3パーセントの裏切り分子を地域ごとに作り出さねばならなかったのです。(前記映画「芙蓉鎮」、本の名前は「古華」)

 文化大革命の頃、「上海の夜」に描かれていますが、あの広大な中国のすべての人間が自分のことだけを考えた利己的な姿に変わっていく様が克明に記録されています。読む者をして涙なしに済まない状態になっていました。建て前は「個を捨てた」精神的革命と謳われたにもかかわらず実体はその逆を邁進したのです。
 その頃その運動を悪用して仲間を死に追いやった老幹部が現在も要職に健在なのです!
 また真理を追究すると言うことが不可能になった結果、大衆の心理の中に迷信が広く復活しました。毛沢東に反対すると見られた幹部のわら人形を作ってくぎを差して呪い殺すことがはやったのです。(中国から来た青年の話)
 91年から婦人公論にその頃中国で出始めた小説の転載がありました。

 その1つを簡単に紹介しましょう。
 革命直後、学生たちはマルクスを読むのに懸命でした。そんな時一人の女学生は40才台の革命に献身してきた党員と結婚するように勧められます。女学生はクラシック音楽を楽しみますが、相手の党幹部の中年活動家は趣味は何もありません。しかしそのようなことで相手の人格を計るのはまだマルクスの勉強が足りない、彼のこれまでの革命への奉仕こそ最高であり女学生の考え方はプチブルの典型だと説得されて結婚を迫られます。しかし彼女は音楽の趣味を持った同年令の青年と結婚してしまいます。
 そのために、青年の方は党に睨まれて以降大変な人生を迎えるわけです。文化大革命が始まり教員をしていた彼はブルジョワであると言うことになって学校の石炭運びをさせられます。当時中国ではそれは一番卑しい職業とされていました。
 青年は妻と子供のために党の言うがままに大人しく従います。彼が台八車で真っ黒になって街の中で石炭を運ぶ姿を見て近所の子供たちは石を投げたりして軽蔑します。
 ところが妻の方はそんな彼の姿が嫌になります。彼女は浴室のガラスに自分の裸身を映して、まだ胸の膨らみが大きいことを確かめて離婚を決意し昔の男友達に電話をします。
こうして二人は別れ、小学生の男の子供は父親の方を選んで家に残ります。そこで小説が終わっていますが、実にいろいろなことを考えさせてくれる小説です。子供が父を選んだという結末は、作者が言いたかったことで、子供こそ本当の人間的なものを見ているということでしょうか。
 勿論こんな小説が強固な計画経済の頃に発表されるわけは有りません。たぶんこれからかっての痛みが少しずつ消えていく中で、中国全土で素晴らしい作品が作り出されて行くでしょう。

 私の中国の友は中国の政治のやり方について(1991年の時)、「登小平は政策決定の場を国会ではなく自分の私邸で行っていますよ。家に入る前には武装解除のために身体検査を受けねばなりません。これは正に私的な国家の所有ではないですか」と怒りを込めて話していました。
 彼が80年台初期の中国語の教科書を貸してくれました。(アメリカ人が中国語を勉強するための構成です)
勿論政府公認のものです。いかにも社会主義美化の理論が展開されています。
 中国では解放後党は人民に奉仕し、生産が毎年発達していくので人民は中国を愛し党に感謝しています、と。
 また最近九十年台初期の教科書(これは日本人向けです)を買いました。そこにも驚いたことにまだ同じような言葉があるのです。とても中国人には見せられない内容です。
 それにしても九十年台にまだこんな嘘を書いた本を発行しているとは驚きです。

 80年台の中頃にソ連邦の雑誌を見たことがあります。そこでも正にマルクス主義を宣伝しています、と言った解説がありました。曰く「ソ連では社会主義になって以来生産力が毎年計画的に発達していくため、資本主義国で見られる売春や博打や投機などはその根底から必要が無くなりソビエト社会から完全に消えつつあります」と。
 当時私は「むべなるかな」と感心したものでしたが、その後数年で消えたのはソビエト国家でした。本当に思いもよらぬことでした。
 
 私の中国の友が日本に来た頃はまだゴルバチョフが健在でした。そして次に現在のエリツィンが選ばれました。それについて彼はこう言いました。
 「この人は以前の党の幹部でしょう。マルクス主義で大衆を指導していた人間がまた政治のリーダーになるなんてソ連の人達はどうなっているの。そんな人が大衆に信頼されるはずがないと思うよ」とそれは普段あまり見られない激しい剣幕でした。
 それからまた次のようなことを話してくれましたが、当時の私にはちょっと理解の限度を越えていて無口のまま何も聞きただせなかったことを覚えています。「社会主義ではね、毎日人間がどんどん殺されていくよ」と。
 街の真ん中の青空刑場で銃殺するらしいのですが、その様をちょっと想像するだけでその先を考えることが出来ません。日本も戦争中に海外では行ってきたんでしょうが、戦後育ちの私にはその事実を確かめる勇気さえ無かったのです。それに私にも社会主義を色目で見る考えがまだあったのかもしれません。
 資本主義にも悪い面が多々ありますが、どんな犯罪者でもその個人の中に人格を認め生命を尊重する法があります。しかし社会主義になると「階級敵」というのはそこに人間というものを認めないのでしょうか。
 
 ただ彼と話していて二つのことは私と意見が合わないことがありました。
1つは中国の異民族による支配についてです。中国は四千年の歴史と言いますが、3分の1ほどは北方の異民族に支配されています。最近ではモンゴルや金や清朝です。(この3つだけ6百年です)
 それに対して彼は異民族が支配したけれど晩年には全て統治している漢文化に染まってしまったと言います。そしてまたそれら異民族に対して「けだもの偏」や従属を表す文字をつけて接してきたと言うことでした。「匈奴」と聞いただけで野蛮で文化の低い感じがしますが、漢族を凌ぐこともあったのです。例えば日本の場合は「倭の奴の国王」です。小さい奴隷のような意味だそうです。
 ものすごい奢りを感じました。
 それはまあ良いとして、もう一つはチベットと台湾の所有です。彼ははっきりと言いました。「両方とも自分の力では遣っていけない小さな遅れた国だよ」と。
 私は当時(92年頃)まだ台湾がどんな国か知りませんでした。チベットはダライラマに指導される仏教国だと言うことは知っていました。
 しかしチベットがどんな宗教を信奉して居ようとも中国の方式で支配することには賛成しかねると主張しておきました。
 ただこの様な議論を通じて、社会主義とマルクス主義を倒したいという気持ちを持っている青年でさえも中国の党の強い教育を受けているとしみじみ感じました。
 
 95年に私は台湾に行ってすぐに地方の農村を見るチャンスがありました。そこには山の上の農道までコンクリートが敷かれていたのです。
 中国では現在でも農村には学校も電気もなく、ましてコンクリートを敷いた道路さえないのです。台湾ではほぼ全ての子供が高校まで進学しています。中国とは比べ物になりません。
 中国では今でも多分同じ教育をしていることとは思いますが、無知の恐ろしさを感じます。
 つい最近「7年間チベットにいて」と言う映画を見ました。第2時大戦中にチベットに滞在したドイツ青年の物語です。仏教国のチベットが中国の解放軍に侵略されていく場面があります。中国は飛行機と大砲と機関銃を持って国境を越えて入ってきます。チベットは小銃だけです。話になりません。
「宗教は敵」だと叫ぶ解放軍兵士。土の中のミミズさえ殺せないチベット人。
 どんな民族国家も自分たちで将来を決定する権利を持っていると私は思いますが。
相手がマルクスを信じ、まして中華民族を相手ではチベットの将来は難しいことですね。

 台湾の場合は、「中国が武力攻撃を準備」と聞くと経済に余裕のある台湾人は進んでカナダやオーストラリヤへ逃げていきます。そのために子供たちに何処の家でも小さい頃から外国語を教えます。今後台湾がどうなるか、これも難しい問題です。
なぜ中国人はそんなに大きな国家が必要なのでしょうか。
 
 私は帰国の途中日本の空港で日本の高校生くらいの会話を聞きました。
彼らは受験勉強の話をしていたようです。
「私も自分の納得が出来ればこのコースでも良いんだけど」と言っていました。
それを聞いて私は日本の場合この「自分という存在を確認して自分の人生」を歩いていこうとするその姿は、多分戦後しばらくしてから一般の人達の言葉になったのではないかと思いました。それまでの歴史では自分というものの主張を持った個人として生きていくことが許されなかった時代が続いてきたように思えます。ただ生きてきたので、生きるために懸命に働く、そんな歴史だったのではないでしょうか。個人の選択の自由なんていつ頃から口に上るようになったのでしょう。しかし今は日本の場合各人が自分というものと格闘して可能な人生を歩んでいこうとしています。これが二十世紀の最大の特徴ではないでしょうか。中国の場合まずそのことが可能な政治を実現することが最優先すべきではないでしょうか。漢民族ではなくて個々人の納得出来る道を探ることが先決ではないかと思います。
 しかし他方、これまで国家権力の縦社会の中で上から命令され下に命令してきた国の人達が個人の信用とか個人の責任ということを理解するのは大変な困難だと思います。しかしそのことを理解し現実の社会で適用していく方法を探らねば中国の再建など有りえないでしょう。
 トラベルジャーナル社「北京で七年暮らしてみれば」(石川郁)と言うのが90年からの7年間の北京の姿を女性の目で細かく紹介しています。
 現実に海外の企業が中国に入ってきて、お仕着せではない企業のあり方を北京人に示しており、そこの外国企業での経験者が独立して行くところが何人か紹介されています。独立しようとしてこれまで通りの官僚主義で商売をしようとして失敗する人も紹介しています。
 私の旅の通訳が言っていましたが、北京市の3Kの汚い仕事は、地方から出稼ぎに来ている農民たちが請け負っているとのことです。
 この本でも農民の紹介があります。
 月収が普通は千元ほどに対し、農民の場合定職証明がないと部屋を借りられず、また保険も利かないため、警察に届けると言って農民を脅して家賃を値上げする家主が居ることや、1日に何件も掛け持ちで働いても450元稼げば上の方だと紹介しています。
 
 また中国では外国人が部屋を借りる場合3DKで最低30万円、まあ50万円は必要だという紹介があります。
 数年前に仕事で中国に行っている私の知人が居て、同じ金額の話を聞いたことがあります。でもまだその話は現実とは理解できません。そんなことが世界で通るのでしょうか。
 この本の著者の場合、中国の国家企業に勤めて家を借りていますが、その場合年に2回便所の排水が壊れて部屋の中が洪水になっています。
 そういえば私の中国の友達もよく言っていました。日本のコンセントや水道の蛇口を持って行けばよく売れるだろうなと。中国では計画経済になってから技術の進歩は無かったからだそうです。

 最後に日本人の旅の仕方について通訳の話を紹介しましょう。
「最近は中国人も旅を出来るようになりました。まだ少しですが。彼らの宿舎を手配するときは注意が必要です。部屋の中のクーラーなどまだ使い方に馴れていないので壊されることが多いのです」
 「それから日本人の案内の時は、1日の計画は大変です。四日で北京全部でしょう。朝8時には出発です。夜もどこかへ出かけます。
 1週間なら北京に上海も含めなくてはなりません。
 これがヨーロッパ・アメリカ人となると簡単です。
 朝は10時頃からどこか1つだけ見て夕方3時には帰ってきてゆっくりとし、夜はネクタイをして夕食を取りに出かけます。」
 
 私達日本人の生活スタイルをぴったりと表現していると思いませんか?