中国人口超大国のゆくえ

 若林敬子著 岩波新書 \740.

 著者は1944年生まれ、厚生省人口問題研究所長を経て、現在東京農工大学国際環境農学専攻教授。

 この本は世界の危機的人口増大を初めに記し、その中でも圧倒的部分を占める中国の人口問題などを紹介。

 この中から
1. 1959年の「大躍進政策」の頃の人類史に残る大量餓死のところ。
 および
2. 「社会主義中国にも人口調節が必要」と説いた北京大学総長「馬寅初」氏について書かれたところを紹介します。



1.
 添付の図は中国が大躍進政策前後に調査した人口統計から作図したもので、1960年頃に人口曲線が大きく窪んでいるのが分かります。
 この人口曲線から著者は当時の餓死者の数は、2000万人から4200万人の間と推測しています。
 (この本が最初に出版されたのが1992年。この本が出るまでこの大量の餓死者の数は謎とされていた。
 中国政府側が1994年に4000万人と発表しています。)
 
2.
 社会主義中国の建国後(1949年)人口が急激に伸びた。予想では4億少しの筈が実際の調査で6億を超えていて、そこで人口問題の論争が始まった。
 先ず基本的に、社会主義には人口問題などは存在しないと言うのが一般的に信じられている命題であった。
 当時一つの主張はマルサスの人口論で「人間は幾何級数的に増加するが、食料は算術的にしか増加しない」というもので、これは資本主義擁護の反動的理論として退けられた。 反対にマルクス主義理論では、労働のみが富を作り、労働者の数(人口)が中国の宝という考えが圧倒した。 
 建国時香港にいた馬寅初を周恩来が北京大学総長に要請した。その馬寅初が中国の人口を調査し、1957年の人民大会で「人口増大を停めないと中国が危機になる」と主張し、これが毛沢東に伝わり、ブルジョワ右派分子として1960年3月総長の職を逐われた。
その時彼は齢80に近かった。
 職を逐われる時の彼の次のような手紙が残っている。
「私が重慶に居たとき周恩来は私を助けてくれた。また建国時香港にいた私を総長に要請してくれた。それについては充分に感謝し肝に銘じている。
 そして今回、周恩来の警告を受け入れることなく、議会で発表し、災難を受けることになったが、学問で生きる私は真理を曲げることが出来ない。出来ることなら私のこの態度を了解して欲しい」と述べている。
 (原文では「周恩来」の文字は伏せてある)

浙江省の農家に送られた彼は肺炎にかかり、また歩くことも困難な状態になり、人間と隔絶した生活を送った。
 そこへ66年から文化大革命が始まり、紅衛兵達が「反動」を追求して室内に乱入。これを知った周恩来がまた彼を助けた。
 76年1月周恩来が死去。1982年に馬寅初は102歳で死去。
 1978年8月、香港の「争鳴」と言う雑誌が、「もし中国共産党に勇気があるなら、”貴方は正しかった”と馬寅初に釈明すべきだ。馬の悲劇は中国知識人の受難の典型だ」と書いた。
 
 その他私が驚いたことを1つ書いておきます。
 3.1992年時点で、農民が都市居住証を買い取った金額の総計。300万人の農民が公安へ申告し、総額250億元(約4000億円)を国家へ払っている。