魏 京生「勇気」   (獄中からの手紙)
  訳 鈴木主税 集英社¥2500。

 下記は魏京生の獄中記の一部で、「チベット」に関して書いたものです。
 それを私のスキャナーで読みとり、訳者には無断でここに紹介します。
 多分これまでチベットについて紹介したもので最も的を射たものではないでしょうか。

 魏京生は1979年に、北京で彼等若者が貼った「民主の壁」運動の記事が政府を批判していると言うことで、逮捕投獄。当局の命令で同囚の人達に暴力を受けたり、海抜3000メートルの労働改造所に送られたりして身体をこわします。
1993年に、2000年オリンピック開催地選出で国際的批判をかわすために仮釈放。その後再投獄。1997年に病気治療目的でアメリカへ追放。1950年生まれ。
 彼は獄中で多くの手紙を書かされました。思想改造したかの点検のため。もちろんこれらは幹部の目にまで届かなかったらしい。しかし1993年の仮釈放の時、それまでの手紙すべてを返さねば出獄しないと宣言。オリンピック委員会開会が迫ってきて、中国当局は手紙を彼に返還。これが後にアメリカで出版された。  巻末注より
 
 魏京生の婚約者は平尼(女偏に尼)と言い、彼女の父はチベット共産党の前党首、プンツオグ・ワンギャル。(この文の中ほどに出てくる)
魏の逮捕後二人は別れた。
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  一九九二年十月五日
        登 小平 殿

 あなたが始められた宣伝活動を拝見すると、ご白分でお選びになった後継者に満足されていないだけでなく、あなたが個人的に関与されているチベット問題についても気をもまれていることがわかリます。ですから、あなたの下僕たちは大急ぎで「チベットート主権と人権」と題された白書をつくりあげ、白分たちの無能と無知をおおい隠したの
です。これはすなわち、あなたご白身が無能であリ、無知だということでもあるわけです。彼らはあなたや中国の人民をだまそうと、相も変わらず昔ながらの嘘やこじつけを並べ、自分たちの地位や権力を守ろうとしています。
これでは、彼らが夢から覚めるころには、チベットはもはや中国の一部ではなくなっているでしょう。ドミノ現象が一二〇万平方キロメートルのチベットの地を超えて伝わり、あなたは歴史によってあざ笑われ、非難されることでしょう。事態の改善とチベット問題の解決をはかるためにまずやらなければならないのは、問題が何かを把握することです。部下たちの心地よい嘘に耳を傾けるだけでは、問題の本質はつかめず、ましてや解決などできません。

 私白身、チベットの歴史に関してはわずかなことしか知りませんが、それでもあなたやあなたの部下たちよリもこの問題をよく理解していると思います。ですから、思いきってこの手紙をあなたにあてて書くことにし、あなたが自由にものの言えるアカデミックな雰囲気をつくりだしてくださることを望みます。そうすれば、学識者たちがこの件に閑して洞察していることをもっと語り、そこに介在している閉題を探りあてることができるでしょう。これ以外の方法をとれば、この問題を解決する最後のチャンスを見失い、旧ソ連やユーゴスラヴィアの二の舞いを踏むことになります。

 チベット問題は、その特異作と主権閉題があいまいなために難しいものとなっています。実際問題として、現存の国際法では、解決を見出す手がかりは皆無に等しいのです。
何しろその大部分がおたがいに矛席しあっているので、国際法をひきあいにだして判断をくだすことができません。
しかもそれが今日、世界で他に類を見ないほど複雑な問題なのです。時代遅れで、拘束力のない国際法に過度に依存したところで、今日、私たちが直面している問題の解決にはなりません。

 たとえば、現実にカナダやオーストラリアは完全な独立と主権を享受しています。ところが、もしこの二国をイギリスの植民地として、あるいはさらにイギリスの領上と定義づけたとすれば滑稽でしかありません。この二国の国家元首はイギリス女王であり、政府高官は女王によって承認されなければならないから、という理由でです。問題の解決をするにあたっては、現実と直面すべきであり、歴史書のなかだけに「証拠や事実」を見出そうとしてはなりません。チベットの問題はそれよりももっと特異で、複雑なケースなのです。チベット統合は(清王朝と中華民国時代にそれぞれおこなわれましたが)非常にユニークな形態でなされたので、大半の学者には理解ができません。しかし、例の白書を執筆した人たちの理解は、学者たち以下で、彼らの主張では事実が明確になっていません。
チベットの立場を特殊なものにしているのは、チベットが主権を失ってはいないが、完全な独立国家でもなかったためです。独立はしていないが、植民地でもないのです。

 独立した主権国家として、自国の問題のすべてを処理してはいなかったが、同時に、清朝によって派遣された按辮という役人は、チベットを自国の一地方として統治していたわけでもありません。実際には、チベットは内政に関しては完全な白治をおこなっていたが、外交問題では、清朝の傘下にいたのです。このような体制であったため、すべての事情を知らない中国人や外国人たちは、チベットを中国帝国の一地方であると見なしてしまうのです。このような統合形態を示す類似の例は、他にほとんど見当たりません。
法的な見地からすれば、この関係はイギリスやEC、あるいは未来のEU内の関係にどこか似ているかもしれません。人びとは白分たちを統一体(イギリス、ヨーロッパ、中国など)の一員として認識していますが、同時にそれぞれの独立国の一員という認識もあるのです。統一体は自由意思によるものであり、関係国はそこから離脱する権利をもっています。イギリスの場合は、王国の統一は主権の統一となりました。ヨーロッパの場合は、平等な立場における民主的な統一によって、主権国家同士の統一体のかたちになりました。そしてチベットと中国の場合、実際の主権の統一は、最高権力者同士が相互参加するかたちでおこなわれました。ヨーロッバの統合と中国の統合は、法的な見地からは同じものではあリません。

 合意事項と慣例にしたがい、清朝やその後継者である政府は、ダライニフマの依頼があった場合にのみチベットに軍を派遣しました。これらの軍隊は、ダライ・ラマの要求どおり、任務が終了するとすぐに四川省あるいは青海省に戻っていました。清朝は常備軍の派遣はしていなかったのです。チベットに派遣された清の按耕を守るための部隊が、ラサにある指定の兵舎に駐屯しているのみでした。清朝はチベットの外交や軍事問題に一部責任を負っており、チベ
ットの保安に努め、定期的ではないが反逆者の鎮圧もおこなっていました。
 ダライ・ラマの率いる宗教集団には、清朝の統合を維持するという重要な任務が与えられていました。ダライ・ラマは、清朝における国教の精神的な最高指導者としての役目をはたしていたのです。ダライ・ラマは昔の「皇帝付の教師」のような存在ではなく、国教の精神的な最高指導者であり、清朝の領土の八割かた(チベット、新彊、青海、甘粛、四川、雲南、ビルマの一部、内および外モンゴル、東北部の省、そしてロシアの極東地域の一部)において、皇帝以上に人望を集めていました。清朝の初代皇帝がラマ教を国教とした主な理由は、「モンゴルの諸地方を統治するには、ラマ教を統一する必要がある」と気づいたからです。

 ラマ教は、中国が歴史上最も広大な領土(ソ連邦よりも広い領土)を支配していた時期に、国を統一するための主要戦力となっていました。清朝は、その見返りに、その武力と巨額の財政援肋をして、ダライ・ラマが撮高の地位と権力、および現在以上の領土にたいする主権を保持できるようにはからいました。この統合によって双方が得た恩恵は、「莫大」という言葉でも不充分なほどのものでした。

 そのためこの統合は確固たるものとして長くつづいたのです。双方の法的立場は平等でしたが、実際の権力はちがいます。チベットに大使を派遣し、膨大な物資を送ることで、双方の閑係における均衡を保っていたのです。さもなくば、おたがいに均衡と平等を保とうとしても、チベットの宗教指導者のおよぽす力のほうが、清朝の皇帝の力を上まわってしまうのでした。
たしかに、清朝とチベットの関係は」艮い年月のなかでさまざまな変化を経てきましたが、基本的なバターンは清時代後半まで存続し、双方の関係は安定していました。そのためにチベットは、朝鮮やヴェトナム、ラオス、ビルマ、モンゴルのように中国から独立しはしなかったのです。英国軍がラサを占拠したときにも、チベットは確固として中国寄りの立場をとりました。こうしたことはすべて、共通の利益にもとづく自発的な統合が、人間社会の基本的法則にしたがったものであったからなのです。すなわぢ、「国民の利益こそ最優先される」という基本原則です。
 
 清時代の後半から中華民国となるまで、一〇〇年以上にわたって、中国自体が弱体化してしまったため、チベットの安全保障に関する任務を遂行できずにいました。それでも、ダライニフマの政府は双方がかわした条約を尊重しつづけ、主権の統合を危険にさらすようなことはしませんでした。チベットが「分離」を試みていれば、外モンゴルと同様、難なくやりとげていたことでしょう。中国では内乱が起きていたし、外国勢力もチベットが独立を主張するよう奨励していたのですから。白書のなかでは、これまで誰もチベットを独立国家として承認していないとしていますが、これは誤りです。イギリスがインドを統治していたころ、とくに西栂拉(シムラ)会議が開かれたときには、独立国としてチベットの席も用意されていました。チベットの独立を既成事実としようとする試みが成功しなかったのは、ただダライ・ラマの政府がそれを辞退したからにすぎません。弱体化した中国政府代表による抗議は、のちに言われるほどの影響力はありませんでした。

 中国政府が長期間にわたって義務の遂行をおこたり、チベットの領土の多くが外国勢力によって占領されたり、併合された当時は、ダライ・ラマ政府の地位はさらに強大なものとなっていました。中国とチベットの関係が疎遠になったのは、この時期でした。原因としてはまず、中国が近代化社会へ移行し、宗教の影響力が衰退していたことがあげられます。宗教は元や明、そして清時代の初期のころとくらべ重要性がなくなっていたのです。もっともその影響をまったく無視できるほどではありませんが。二番目は、中国がきわめて弱体化して、西欧諸国の相手などとてもできない状態となっていたため、チベットが自己防衛をする術を身につけていたことです。中国による軍事援肋はもはや必要ではなくなり、依存できるものでもなくなっていました。三番目は、チベットと中同の密接な関係が、イギリスやインドから日用品が人りこみ、徐々にむしばまれていったことです。四番目は、近隣諾国や地域をひきつけていた漢民族の文化の魅力がなくなり、近隣の民族にたいする求心力が弱まってしまったことです。

 こうした過程のなかで、政府同上が疎遠となる以上に、チベットと中国の民衆同士は離ればなれになり、精神的な疎隔感は、別の兄方をすればいっそうひどいものとなっていました。チベットの人びとの心のなかでは、中国人のイメージは、昧方や守護者というものから、信用できないイメージに(その大半は中国国内の四川省の人びとや、北西剖のイスラム教徒のもたらしたものですが)とってかわりました。中国人のほうは、白分たちを進んでいると考え、チベット人を遅れていて無知な「半人半獣」のような存在と見なし、生き仏の臣民とは考えなくなりました。このようにおたがいが差別しあい、不信感をもつことで、即座に
分裂が起きたわけではありませんが、その後に報復や分裂をひきおこす布石となりました。この悲劇を引き起こしたのは、登小平殿、あなたご自身なのです。
 早くも一九四〇年代から、チベットの統治者たちは、チベットにおける社会改革を検討しはじめていました。彼らが求めていたのは、イギリスやインドのような社会制度であり、宗教的価値観にもとづいた穏やかな改革でした。何千年という歳月を経て築きあげた慣習に則して、独自の改革を実施したいと考えていたのです。外国人や外国人のような漢人によって改革がおこなわれることは好みませんでした。(国民党はこの伝統をなんとか尊重したため、チベット族との関係はもっと友好的でした。)またチベット政府は、革命によって地主と闘い、その土地を分配し、階級の敵を殺すことは良しとしていませんでした。これは支配階級にだけ当てはまることではなく、社会全体の風潮でした。「解放された農奴たちは共産党の到来を待ち望む」というスローガンは、あなたがたの宣伝文句にすぎません。

 これはまったく当時の農奴たちの本心をあらわすものではないのです。ご白分の昔の部下である牙含章やプンツォグ・ワンギャルに聞いて、チベットの農奴をかりたてて共産党がおこなった本当の「偉大なる功績」とは何かを教えてもらえば、私が偏見をもっていないことがおわかりになるでしよう。
 実際のところ、ドイツやロシアなどほとんどの国々で農奴を解放したときに最大の障害となったのは、農奴自身だったのです。この社会共通の意思と、中国共産党の行動ゆえに、チベット政府は国民党と手を結ぶことには反対せず、一方、共産党勢力のチベット人りには断固反対し、プンツォグ・ワンギャルに率いられたチベット共産党をチベットから追放して、中国人を追放する口実としたのです。このような外交手法を見れば、当時のチベットが完全な主権を行使していた(外交、国防問題ともに)ことがよくわかります。四川省軍やチベット共産党の駆逐は、外交ルートを通じてインドの援肋を得ておこなったものです。
その当時、中国共産党の勢力は絶頂期にありました。他の国の共産党と同様、中国共産党は主権や民族白決権をほとんど尊重しません。一方、インドはイギリスの支配から独立したばかりでしたから、共産党と戦うためにチベットを支援するのは容易ではありませんでした。ですから、チベット内に共産党勢力が人るのを防ごうとする努力は、失敗に帰したのです。さらに、若かったダライ・ラマが世間を知らなかったことと、チベットの官僚制度が腐敗していたことが主な原囚となり、ラサは共産党軍によって簡単に占拠されてしまいました。郡小平殿、あなたと毛沢東がチベットを平和裏に解放しようとして下した決定は、正しい政策だったと見なされるべきですが、これは強大な軍事力による圧力のもとでなされた合意であり、国際法ではそれゆえに無効とされなければならないものなのです。しかし、この政策がきちんと実施されていたら、ダライ・ラマの政府もそれを受け入れ、中国とチベットの主権の統合は存続し、国際社会も既成事実として認めたことでしょう。

 このようになっていれば、チベットも中国にとって頭痛の種とならずにすんでいたでしょう。チベット人は信頼できる民族であり、小細工には長けていません。残念ながら、あなたご白身を含む毛沢束などの共産党指導部は、朝鮮戦争における「勝利」と経済の復興でひどく思いあがっていました。「大躍進」や極左的政策を中国本土で実施したとき、同時にあなたがたはチベットでも極左政策を実施し、そこでの民主的改革を促進することにしました。こうすることによって、実際には「チベットの平和的解放に関する協定」をあなたがたは破棄していたのです。チベットではあらゆる階級の人びとがこれにたいして怒り、共産党の極左政治に反対して民衆が蜂起しました。外部の者と異国の宗教にたいする戦いという旗印のもとにです。中国政府はこれを反乱と見なしました。
 この戦争のあいだ、そしてその後の長い年月、チベット人と中国人はおたがいに差別し、軽蔑しあい、それが憎しみにまで発展して、はては軍が無実の人びとを殺害したり、役人が人びとを拷問にかけたりするようになりました。両民族のあいだはいっそう疎遠となり、独立に向けたチペットの闘争は激しさを増しました。このような状況下で主権問題にふれれば、共産党がその問題について考慮したことがあるかのような誤った印象を人びとに与えることになります。双方の対立状況やその形態は、かつての宗主国と植民地とのあいだの関係とちょうど同じようなものです。今日のユーゴスラヴィアの状況にも似ています。

 最近世界に起こった二つの例を見てみましょう。良い例と悪い例です。一っはユーゴスラヴィアです。中国政府内におけるあなたがたのように、ユーゴスラヴィアは他の民族の自決権を認めず、しかも武力に訴えて、他の民族がそのような権利を手にするのをはばみました。その結果、ユーゴスラヴィアは自からの目的を達しえなかったばかりか、人ぴとの心に憎悪を植えつけてしまい、これから長いあいだ、その代償を払わなければならないでしょう。もう一つの例はロシアです。ロシアは他の民族の自決権と自治を尊重し、独立国家共同体として存続させ、将来に向けて統一の可能性を残しました。そのうえ、すでに根づいていた相互の信頼や好感情は傷つけられることなく、そのまま残ったのです。この二国におけるぢがいはさらに明らかになるでしょう。セルビアはロシアよりもはるかに良い条件にありました。過去においては、ロシアのほうがセルビアよリも、数多く他の民族の不満をかきたててきましたが、そのような問題がどう扱われたかによって結果が変わったのです。その他の条件が変わらない場合、双方でもっとも大きなちがいとしてあげられるのは、ロシアが人問社全をつかさどる法則を遵守し、他の民族の白決権と自治を尊重したことです。そのため統一に有利な状況もでてきたわけです。
現代の人間社会では、統一に向けた動きのほうが、分裂に向けた動きよりも強いものがあります。一つの民族が他の民族にたいして主権や行政権を主張しすぎることは、統一を妨げます。すでに分裂してしまった社会、あるいは分裂の途上にある社会は、大きな圧力をかけて、一つの民族が他の民族にたいしてかぎりない行政権を行使した社会なのです。すでに統一を達成した社会、あるいはその途上にある社会が直面する最大の難関もやはり、主権を過度に強
調するかどうかなのです。統一による利点は明らかですが、統一に反対する声も同じように強いのです。人びとはなぜ統一に反対の主張ばかりするのでしょうか。統一を維持するのに、ただ上から圧カをかける政策のみで成功している例がどこかにありますか。たとえそのような例があったにしても、それはまだ分裂にいたっていないだけにちがいありません。

 あなたがたは反植民地主義と国家の独立を数十年にわたって叫びっづけてきていますが、実は、あなたがたはそのどちらも本当には理解していなかったのです。他のスローガンと同様、ただ単に手段として都合がよかったために利用したのであり、本当に理解しようとしたわけでも、純粋に信じていたわけでもありません。これがまさに、あなたがたの「左翼」病の原因なのです。
中国とチベットの関係は、旧ソ連やユーゴスラヴィアの内部における関係よりも、はるかに良好なものとなれたはずです。一九四九年までは、中国はチベツトを抑圧したことはなかったし、強制的に属国としたこともありませんでした。双方は白由意思にもとづいて、主権の統一を達成していたのです。今日ですら、中国とチベツトが統一する可能生は、旧ソヴィェト連邦内あるいは、EC諸国間の統一よりもずっと高いのです。強制的に国外に逃れた当初、ダライ・ラマは独立を主張しなかったし、いまでもそれは変わりません。この事実から、統一にはまだかなりのチャンスがあることがわかります。それにもかかわらず、あなたがたは古い考えや政策にこだわり、古い官僚体制を信頼しつづけました。あなたがたがしているのは チベツトが分離するように仕向けていることなのです。中国はすでに清時代の領土を半分近く失っています。これがつづけば、これからの世代の人々は労働力を輸出することで生計を立てなければならなくなり、中国の国家を活性化することはできなくなります。
 過去四〇年にわたっておこなわれた抑圧と殺戮の悪しき因果関係を廃絶し、中国とチベットの関係を正常な発展に向けて軌道修正するには、まだ多くのことをやらなければなりません。中でも急を要する課題は次の三つです。
 第一に、漢人とチベット人が相互にもっている憎悪と差別を根底からなくし、とくに漢人がチベツト人にたいして、心に抱いている誤った考えを根絶させなければなりません。

 過去四〇年におよぶ宣伝工作によって、チベット駐在の党幹部(その他の地域でも同様ですが)は、チベツト人にたいする根深い偏見を生みだしており、それが転じてチベット人のあいだで漢人にたいする憎しみがいっそう深くなっているのです。実際の状況は想像を超えたものであり、あなたがたの部下たちが語ってきたこととはまるでかけ離れているのです。
 いくっか例をあげて、ことの重大さをわかっていたげくようにしましょう。まず、私の両親にはチベツト人の知りあいはいませんでしたし、チベツトについて学んだこともありませんでした。両親がチベットについて知っていることと言えば、共産党の言ってきたことだけでした。両親の考えではチベット人は半身半獣なのですから、私がチベツト人女性と結婚しようとしたとき、両親が猛反対をしたのも無理はなく、私を勘当するとまで言って脅しました。のちに両親がその女性を知るようになって、考え方を改めるようになりました。しかし、その女性の両親は、私の親のような親戚をもつことには我慢がならず、私がこのチベットの一家の義理の息子になる望みはなくなりました。

 次の例です。私がチベット地方の青海に収容されていたころ、漢人の幹部がチベット人を侮辱する言葉を何度も耳にしました。彼らはチベットのものは何であれ見下すのです。たとえば、チベット犬は有名ですが、漢人の幹部たちはそれでも中国の中心部からつれてきた大を飼っていました。私がチベット犬のよさを説明すると、幹部たちは笑いました。彼らが私の言ったことを信じるようになったのは、テレビで外国人がチベット犬に大金を支払っていると報道してからです。また、チベットのバターが西洋料理のレストランにでてくるバターと同じようなものであることを、信じようとしなかったということもあります。「遅れたチベット人」が外国人と同じ食物を口にするなんてありえないというわけです。ほかにもまだ例はあります。ヤクの肉はとてもおいしいのですが、チベットにいる漢人幹部は、「何も食べるものがないからヤクの肉でも買わなくては」などと言います。私がヤクの肉が好きで、チベットのバターを買ってきてもらいたいと考えていることを知ると、あるチベット人医師は初めのうちたいへん驚いて、私もチベット人なのだろうと考えたものです。
 こうした例を見れば、共産党幹部がチベット人のことをどう考え、どのような扱いをしているかがわかります。そのやり方は、アメリカの白人がインディアンを差別する以上にひどいものです。率直に言わせてもらえば、あなたご白身がチベット人にたいしてそのような偏見にみちた態度で接しておられ、これが関連するすべての書類、声明文、その他宣伝物などにあらわれているのです。これでは漢人とチベット人とのあいだの疎隔感は深まり、やがては分裂することになるかもしれません。

 四〇年にわたる不満による傷を癒すのは、並みたいていのことではありません。しかし、その目的に向かって日々努力はつづけるべきなのです。少数民族を尊重しない幹部がいるところは、どのレベルでも別の人と交替させるべきです。そして同時に、すべての少数民族を同じように優劣なしで扱うべきなのです。優劣をつけるというのは、ある民族は外部の人間として扱われていることを意味するからです。漢人のショービニスムは、すべての刊行物から排除するべきです。過去四〇年間、狭義のナシヨナリズムとショービニスムを愛国主義と見なしてきた人びとが大勢いました。チベットの王に嫁いだ唐の文成公主のことがよく思い浮かべられます。チベットを文明化した中国人の救世主として知られる人です。ただしこれは誇張であり、歴史に則していません。私が送られていた青海の強制労働収容所があったところは、薛仁貴将軍に率いられた一〇万人の中国軍に対して、チベット軍が勝利をおさめたところでした。
この戦闘の結果、文成公主は和睦の印にチベツトに嫁ぎましたが、あの地域にいる幹部たちは誰もこの話を知りませんでした。彼らはみな、チベツト人たちは、中国の皇女によって「教化された」と信じていました。また彼らは自分たちがチベットに送られたのは、チベツト人が何世代にもわたって住んでいる不毛な土地を開拓するためであると信じており、その言動はまるで植民地の支配者のようでした。あなたがたの片寄った宣伝工作のせいで、チベツト人にたいして国民が偏見をもつようになったのです。このようなものの見方は変えなければなりません。それと同時に、あの白書の執筆者が示したような誇張や偽リは排除しなければなりません。

 急を要する第二の課題は、政府がチベツトの市場経済をもっと急速に発展させ、中国の中心部とチベツトの市場を経済的により密接に結びつけることです。前世紀には、イギリスやインドの日用品が、チベツトの市場で容易に手に人るようになっていました。ここ四〇年ほどのあいだに、チベットの市場は多大な損害をこうむりました。いわゆる「社会主義計画価格」がチベツトの鉱物資源や家畜に定められていますが、これは植民地的な搾取にほかならず、チベットの経済に途方もない損害を与えました。あなたがたの援助では、この損失を補うことなどとてもできませんしかも、あなたがたが与えた援助の大半は、抑圧的な機構を支えたり、現地で漢人がおこなっている科学科学研究に使われてしまったのです。これには多方面にわたる政府機関、漢人のための病院やホテル、軍事施設、観測所、地熱発電所などへの資金が含まれており、チベツトの経済が本当に必要としているものではありません。
 どのような言い逃れをしても、チベツトの人びとはあなたが思っているほど愚かではありません。あなたがたが心から援助していないことを見抜いていますから、あなたがたを信用しはしないでしょう。政策を決定する者はチベツトを自国の一部として考えるべきであり、財政援肋は適切に、チベットの経済に本当に役立つよう、もっとも効率よく発展させることを目指しておこなうべきなのです。いろいろな経済上の障壁や「管現価格」は排除すべきです。チベットの日用品はもっと簡単に中国の市場に出せるようにし・価格も優遇するべきです。その他の地域てもこのような努力をし、チベットと中国のその他の地域間における経済、通商関係を改善するべきです。チベツトー漢関係を確固たるものとするうえでこれはきわめて重要です。

 第三に、中国政府はチベットの宗教上の指導者たちを人質とする政策を放棄すべきです。チベット人は信仰の篤い人でも、そうでない人でも、この政策には強い嫌悪感をもっており、これは明らかな人権侵害です。中国政府は、いわゆる「大漢帝国」のような考え方をなくし、ダライ・ラマとの交渉のテーブルにつくべきなのです。ダライ・ラマはあなたの誠実さにたいして懸念を抱いています。あなたが過去にダライ・ラマの信頼を得られなかったのが原因です。ですから、ダライ・ラマに交渉の場を選ばせ、またそう望むのであればラサヘの帰還も許可するべきなのです。
これらはすべて妥当で基本的な条件であり、理解できないものなどありません。あなたがこれらすべてに同意できない理由などないのです。ところが、いまは、ダライ・ラマの代理人との会見の取り決めですら、中国政府の承認を得なければなリません。これは本当にやりすぎではないでしょうか。このように、言いわけをして交渉を延期するということは、あなたがたがまるで自信がないことのあらわれです。交渉が本格的に始まれば、白分たちの戯言がすべて暴露されるのではないかと、恐れているのです。交渉が始まれば、チベットが中国の一部として残る可能性は高まり、そのためにも交渉はなんら前提条作なしに始められるべきです・望ましいのはダライ・ラマを招碑し、ラサに戻れるようにすることであり、そのほうがダライ・ラマのまわりに立身出世主義者をはびこらせておくよりはるかによいでしょう。むしろ、ダライ・ラマに漢人と同盟しなければ、野心的なインド人に頼らざるをえないことに気づかせるべきなのです。彼らとて、漢人となんら変わりあリません。シッキムやブータンやネパールが、将米の独立したチベットに向けたよい手本となるでしょう。
私たちのほうがうまくことを運ぶことができれば、チベット人たちも、すでに何世紀にもわたって存在していた統一体を離反して、わざわざ苦しむ必要などあるでしょうか。

 現代の世界の動きは、最終的には統一に向かっています。
統一による利点のほうが、欠点より多いのです。ダライ・ラマの昨今の言動を見れば、私などよりも問題の本質を理解していることと思います。ダライ・ラマも彼なりの問題をかかえています。あまりにも強引に迫ると、ダライ・ラマは他者の庇護のもとに逃げこんでしまいます。
                         魏 京生