突然の
キューバ訪問


 1993年の年末,突然に私はキューバへ行く機会に恵まれました。妻と2人で決心したのが12月のはじめ。それから2週間でパスポートを得て2人は成田から飛び立ちました。
 行く前に書店に立ち寄ったり図書館に行ってみたりしましたが、キューバに関する観光案内書は日本では発行されていないことがわかりました。そのため現地で立ち寄る場所は旅行代理店の勧めるままにしました。世界で一番美しい海岸といわれるバラデロ(世界で一番きれいな海岸は無数にあるそうですが)と言う名は今でも舌が良く廻りません。
 
 日本からキューバまでは丁度地球の裏側なのでメキシコ辺りで一泊しなければなりません。また飛行便の都合もあってロスアンゼルスでも途中下車(機?)しました。そのロスで日系人に会いました。彼は私達がキューバに行くと聞くと顔を退けぞらして驚き「どうしてあんな共産主義の国に行くのか」と眼を丸くしていました。この感じではキューバでは英語を話す人とは会えないのかなと心配にもなったのですが、ところがどうして、カナダやメキシコ、欧州、或いは南米から多数の観光客が来ていました。特にカナダ人達は冬の間の日光浴を兼ねて長期間同じ場所に滞在しています。(長期というのは日本人に比べてで、日本人は2週間ほどの期間にあちらも見たい,こちらも見たいという要求をするのでキューバの観光案内の人達は困っているという話を聞かされました)
 帰国後代理店で聞いた話では,正月を挟んでキューバへ行った日本人は20人だそうです。

 キューバといえばアメリカの経済封鎖が最も関心を集めていると思います。
そのため、経済的な危機の状態にあるとも聞いていました。
次の話は日本政府の外郭団体が発行している調査報告書から得たものです。

 1959年の革命以来、アメリカは経済封鎖をしていますが、最近そのやり方はかなり徹底していて、第三国の企業がアメリカの商品を20パーセント以上含んだ物を輸出すればその意図と商品の形に関わらず、報復を受けなければなりません。
 ところが、その法律をアメリカ議会が決議すると同時に、カナダやメキシコ、スペイン、フランス等が他国干渉だという国会決議をしています。
 
 この辺に、日本から見れば同じ欧米の資本主義の国と言っても、それぞれ個性を発揮して活動しているのがわかります。

ついでにもう一つ面白い話をその報告書から書いておきましょう。

カストロが首都ハバナの子供達を見て,貧しくて学校には行けず,家もなく鼻からは回虫をたらし,大人になる前にほとんどが死んで行く姿を見て独裁者バチスタを倒す決心をするわけですが、そのカストロにメキシコ山岳の軍事訓練の場を提供し 武器を与えたのは後のメキシコの大統領です。その人は1905年頃のアメリカのメキシコへの領土侵略を見て反米意識を育てたとのことです。メキシコ人一般の気持ちでもあるようです。
 もっともその報告書によると革命後しばらくはアメリカ自身もカストロの行為を是認していたフシがあると記しています。
 1993年春にも経済危機のキューバを支援するためにメキシコの芸術家や活動家達が協力して石油をキューバに汽船をチャーターして送ったそうです。

さてキューバは南国です。メキシコ辺りから半袖になります。首都ハバナの空港から周囲を見渡すと背の高い椰子の木々がそよ風に揺れています。空からみた海は真っ青でいかにも南国の雰囲気を感じました。そして最初に訪れたのは、キューバの東端にある第二の都市サンチャゴです。すぐ近くに米軍基地グアンタナモがあって、そこを飛行機から見下ろせるかなと期待したのですが、何も見えませんでした。キューバは案外大きな島国なのです。(日本の本州の7割の面積と1200万の人口を抱えています)
 サンチャゴの町に着いたときは夕刻でした。あらかじめ聞いていましたが町は停電で真っ暗です。そのなかを私達を乗せたバスはホテル目指してフルスピードで走ります。町の人達は明かりの無い家を出て道路で夕涼みをしています。車の中にハバナから乗った黒人の女性がいて、途中で大声を出して車を止めさせ、きっと親戚の子供なのでしょう、ある家の前で遊んでいた子供を頬ずりしながら抱きかかえて再び乗り込んできました。大きな人形をおみやげに渡しています。同乗の他のお客などまるで気にせず,身ぶりも大きくその子供と話しています。一般に黒人達は身ぶりが大げさなのでしょうか。ロスでも市内のバスの中で黒人の運転手と女性の車掌が大声で周囲のお客をほとんど気にしないかのように話し合っていたのを見ました。それともこれが南国的な習慣でしょうか。
 そして翌日にはもっと南国的な姿を数多くみることができました。見たと言うより楽しんだと言うべきでしょうか。
 最も南国的な印象を与えるものは女性の胸の開放でしょうか。たっぷりと胸を露出していて、しかもそれでもまだ服の中に隠されている部分があります。それだけ大きい胸だと説明している積もりですが解ってもらえるでしょうか。
 次に南国的なものは挨拶のキッスです。
挨拶の片方に女性がいれば、両腕を相手の顔に巻き付けて頬に口付けします。男性同志だと握手だけのようです。
 サンチャゴの町を案内してくれた人は35才の男性でした。彼は日本で言えばプレイボーイとでも自認するような人で、通りの真ん中で美人を見つけては長い腕を巻き付けて頬にキッスをします。
 そして「この女性はこの町の美人ナンバー1だ」とか私達外人に紹介します。挨拶される方も慣れた感じで、良く観察していると女性の方は別に頬にキッスを返していません。でも中年以降の女性になると大胆に返します。しかも思いきり大きな音を舌でチュット立てています。お昼頃にガイド氏の奥さんに出会いました。彼女は障害者の福祉施設で働いているとのことで、これから勤めに行くところでした。そしてもちろん二人は路の真ん中で大げさにキッスを交わします。
 同行のカナダ人が本当の妻かどうかなとチャチをいれます。するとそのガイド氏はポケットから自分の身分証明書を出しました。そこには夫婦の写真も挟んでありました。
 サンチャゴからハバナへ戻った時の空港では、夕方で周囲は薄暗かったのですが、ある売店で(多分その店も国営でしょう)若い男女が店の机の上に寝ころんで抱擁の最中でした。私の妻が「はい、今日はそこまでにしておいて」などと店のガラスの外から呟いていました。
私の知る限り中国などの社会主義国家では党の高級幹部以外は極めて儒教的道徳に縛られた生活をしていたように聞いていますが、ここキューバではどうなっているのでしょうか。
キューバの生活を紹介した本は「NHKのキューバ訪問」があります。1989年の出版です。
そこではキューバの党員の特権について書いてあって、カストロもほとんど普通の人達と同じ家に住んでいて、他の党員の特権もできるだけ押さえられていると書かれています。先輩格のソ連や中国の真似をしなかったのでしょうか。

キューバの第一印象を男性の眼から紹介してしまった様な気がしますので、妻の感想も紹介しておきましょう。
 彼女はメキシコに近くなるに従って飛行機の中や街の人々の顔をしげしげと眺めています。その理由を聞くとこうです。
 つまり日本人と違って鼻が高く大きな眼がランランと輝いているようで、その顔に髭を添えて威厳を一層誇張しているように思えます。日本人の象徴と言われる愛想笑いの優しさは微塵も有りません。
 そんな人達を見て「あら、胸がドキドキするわ。人生には他にも道があるかもね」などと私の存在を忘れたかのようなことを言っています。
 まあいいでしょう。今更どうなるものでもありません。日本の既婚男性は自分のパンツの有り場所さえ知らない亭主関白の国だと外国に紹介されているそうですが、私の場合は大丈夫ですから。
キューバの観光で印象に残るものは、日本で言えば「流しの演奏家達」がギターやマラカスを持ってホテルや食堂などでラテン音楽をテーブルの横で聞かせてくれることです。
 サンチャゴでは真っ黒の黒人達が2人1組になってキューバ到着翌日の夕方私達のテーブルで美しい音楽を聞かせてくれました。ラテン音楽ですから大体は聞き慣れた曲です。真っ黒の顔の中に愛敬のある丸い眼が私達を見下しながら、思いきり曲に身を任せるかのように心を込めて歌い続けます。メロディーが音程を上がっていくときギターの指先は低音をさすらいます。もう一人の和声が一層曲を美しく色付けして行きます。マラカスが激しい情熱を湧き出させます。
 窓ガラスの外には椰子の木々が温かい風に揺れています。私達はモヒートという軽いカクテルを飲みながら聞いています。多分高音の歌い手は六十才を越えているでしょう。額には深い皺が刻まれています。私を見つめる眼を見ていると、黒人の辛く苦しかった歴史を考えているかのようにも思えます。でも逆かも知れません。「おまえさん、何を考えていなさるかね。そりゃ、私達の過去には大変なことがあったさ。しかしそんなことは私とは直接関係の無い昔のことではないですか。今はこうして自由に生きているんだから、そんな遠い昔を思う様な眼で私を見ないで、私の歌うこの曲をよく聞いてくださいよ」と言っているのかも知れません。
彼ら歌い手達は客の注文にもすぐ応じてくれます。どの歌い手も「グアンタナメラ」は大好きなようです。この曲は独立の英雄ホセ・マルチが作詞したものだそうで、キューバ人達は誰もこの曲が好きです。タクシーに乗ったときも私達夫婦と三人で大声で歌いました。歌詞を書いてもらったのですが、スペイン語なのでよく解りません。豹に似たレオパードの文字がありますが。

 さてキューバについて簡単に紹介しておきましょう。キューバは平均温度が25度で乾期も雨期もそれから2度しか上下しません。非常に暮らし易い気候です。服装を季節毎に替える必要がありません。コロンブスが来たとき「この世の楽園」だと言ったのはこのことを指しているのでしょうか。
 ハバナの記念館の中にスペイン人が来た頃の現地人の風俗が描かれていましたが、大人も子供も上半身は裸です。
そして大きな海亀を捕まえているところが写生されていました。

 しかしスペイン人に発見されたことは大変な激動の波にキューバを巻き込んでしまいます。スペインの発見以来百年も経たない内にその島に住んでいた約20万の現地人は絶滅したとのことです。やがてスペイン人がアフリカから黒人を連れてきます。この島がその売買の中心地の一つとなって、黒人達は大半が北アメリカへ、また残りは南米へ売られて行きました。
1900年にはスペイン本国から独立します。この小さな島国のキューバが独立できたのはアメリカがスペインに対し参戦したからです。キューバの独立はアメリカの利益が多分に含まれていて、その独立以来アメリカ資本が押し寄せ砂糖産業はアメリカが90パーセント以上を独占します。
 しかし独立そのものがキューバにとって重要な歴史的事件であることに変わりがなく、奴隷制度も廃止されます。キューバの至るところに独立の英雄「ホセ・マルチ」の銅像が建っています。今でも人々の英雄だそうです。

 キューバの歴史の中にはカリブ海を荒し回った海賊達との闘いも大きな位置を占めていて、各地の海岸は海賊の侵略と闘う要塞が数多く今でも残っています。

 カストロについていえば、彼の銅像は勿論写真さえどこにも貼ってありません。(革命の同志ゲバラの写真はときどきお目にかかりました)
 彼は現在67才です。日本なら政治家としてはまだまだこれからというところでしょうが、TVで見る彼はだいぶ老けて見えます。
 アメリカの計算では1993年の夏までには経済危機が大衆の不満を爆発させてカストロは国外追放になるはずでした。そしてスペインとメキシコの財界達が協力して、カストロの亡命先をメキシコに確保したということも先述の日本の報告書に書かれています。

 社会主義になって以来住宅と教育と医療とスポーツが無料です。食料は配給制のようです。教育水準は中南米一です。子供の95パーセントが高校を出ます。私達が観光している間に、多くの子供達が学校へ行かず遊んでいるのに出会いました。それで疑問に思って旅の途中で出会う人に確かめてみましたが、ほぼそのとおりだとの返事でした。
 キューバの経済危機はソ連の崩壊と共に始まりました。ソ連はそれまで国際市場価格の四倍の値段で砂糖を買い付けていました。2年前からは国際価格での取引になったそうで、しかも買い付け量は激減しています。東欧の社会主義諸国からは取引が完全に無くなっています。ついでに言えば日本は91年に約41万トンの 砂糖を買い付けています。キューバの全輸出量は6800万トン。
 このような理由で手持ちの現金がなくなったため、石油を買い付けることができず、あらゆる工場が生産時間の制限をせざるを得ないということです。
そして交通の制限、停電もよくあります。国内便飛行機の中では安全ベルトを占めている間は照明をきってしまう徹底ぶりです。サンチャゴではこの停電が始まってから暗闇を利用して「こそ泥」が増えているそうです。
 革命以来キューバが教育に力をいれてきたことが産業増産、拡大に大きく役立ったことは事実のようです。石油の精製、化学薬品の生産などが輸出増大に比重を増してきました。遺伝子工学では世界の最高水準を維持しているとのことです。キューバのかゆみ止めの薬は欧州では有名だそうで、私達外国人を見ると子供達が寄ってきてかゆみ止めの薬を買えと言います。勿論子供達のはインチキ商品らしいです。

 この約30年間のキューバの経済はほぼソ連・東欧の協力を得て順調にやって来れたようです。
 その間のキューバの政策の特徴についても少し述べておきましょう。
 キューバは社会主義諸国の圏内の一員としてではなく、第三世界の一員として国連を中心に活躍してきたそうです。第三世界の議長国として国連で強く主張したことの中に、先進諸国から第三世界への経済支援の金額を毎年決議させてきたことがあります。そのことが日本の海外経済援助額の増大となってこれまで続いてきています。それがODAです。しかしその援助が受け入れ国の状態によっては一層その国の腐敗を増大することもあった訳ですが、しかし第三世界の改善に生かされることも多々有ったというのも事実でしょう。
 第三世界と言っても様々で、勿論自由主義経済の国が多いわけですから、その議長国となるについては中立性を証明するためにこれもまた大変な努力が必要だったということです。
 アフリカのアンゴラへのキューバ軍の派兵は戦闘目的ではなく街の治安維持であることが他の諸国にも納得されたそうで、このことは日本の調査報告書にも掲載されています。(多くの犠牲者が出て、ハバナに共同墓地がありました)
 そのような信用を得るためでしょうか、キューバの街には外国の報道車が走っているのをよく見かけました。
 現在アメリカの経済封鎖に最も従順に従っているように見えるのが中米でしょう。どの国もアメリカの軍事経済面の支配を強く受けています。
 それでいてハバナでの説明では、中米からコンピュータ等がアメリカの眼を盗んで入って来ているとのことですが、アメリカが知らないはずはないと思いますが。

 国連の場でカストロはグアンタナモ米軍基地の返還も要求してきましたが、アメリカは無視しています。アメリカに取ってみれば、もしキューバが実力行動に出れば、反対に一日で全土を制圧する軍事力を持っているとのことです。
実際1961年にはキューバ列島の中央の沖合いに米軍艦隊を浮かべ、亡命キューバ人を武装させて送り込みました。彼らが放送局か電話局かを占領しSOSを発すれば即座にキューバ全島をアメリカが占領してしまう計画でした。がその信号は来づ、2日で失敗しました。

 経済危機は旅行者の眼にも写ります。
小学校の3年生くらい迄の子供がしばしば外国人を見ると寄ってきて「1ドル!」とせがみに来ます。このような姿も2年前からだそうです。
 私がハバナのホテルに泊まったとき1人の老人が寄ってきて、丁寧な挨拶の後自分はユダヤ教会の牧師だが今日の礼拝のために5ドルを寄付してくれとせがんできました。
街の中では主食の「いも」を買うために行列ができていました。しかもその店では他の野菜類が置いて有りません。
 東京を発つ前には、亡命を求めた三人の青年が米軍基地グアンタナモの近くで地雷に引っかかって爆死したというニュースが出ていました。
 10万人の亡命希望者がフロリダ半島に舟で渡ったという記事もありました。

 住宅について言えば、数百年に亘ってスペイン人達が建てた石造りの洋館が並んでいます。郊外には最近のコンクリ製の共同住宅もあります。洋館の中にはテレビが写っていましたが、部屋の中は極めて粗末な感じのものでした。

 この経済危機を乗りきるためにキューバ政府は観光客誘致に大きな役割を期待しています。初めに少し書いたバラデロ海岸、それは島の北側で、真ん中よりやや西よりに位置してアメリカに向かって突き出た半島ですが、ホテルはほとんどが外国資本です。

 私はそこに1泊しました。ホテルの窓から北を眺めたらアメリカのフロリダ海岸が見えるかなと思ったのですがさすがにそれは無理でした。 キューバの観光誘致の歌い文句は「バラデロ海岸」とハバナの「トロピカーナ」です。
 ハバナでの三日間は旅行社のルイスさんが案内してくれました。彼は日本語が話せます。日本の旅行社からキューバ人は非常に素朴な人達だという紹介でしたが、ラグビーで活躍したという身体に似わわず、その素朴さの代表のような人です。彼の日本語に間違いが有れば訂正してくださいと、メモ用紙を渡されました。
 彼は生まれて5カ月の赤ん坊がいます。その写真をわざわざ家から持ってきて見せてくれました。奥さんも写っていました。石造りの家よりきれいな住まいです。すると同じ旅行社の女性が自分の子供の誕生日の写真を見せてくれました。彼女の家はもっと大きく素晴らしい、家具も整った家でした。
 キューバでは産前3カ月、産後6カ月の休暇が取れるということです。
 ルイスさんはハバナツールという民営の旅行会社ですが、そこにもう一人日本語を話せる女性がいます。2日目に2人がホテルに私達を迎えにきてくれたとき、ルイスさんは彼女と握手した後もそのまま別れるまでしばらくは手をつなぎあっていました。東京ではこんな風景が見られるでしょうか。
 
 彼は3日間、夜遅くまで付き合ってくれました。というのはキューバ観光注目の「トロピカーナ」は夜の9時から始まるので遅くなったのです。そのショーは肌を露出した美女美男達が激しいリズムで踊りまくります。舞台は屋外で、周囲には高木の椰子が闇夜にそびえています。葉の間から星がきらきらと輝いています。舞台で踊るだけではなくて、客席の通路も走り回る踊り子たちでびっしりです。勿論そのショーは国営ですから、踊り手たちも国家公務員と言うわけです。入団には外国語の試験があります。団員は総勢700名いて世界に出かけて巡業しています。日本にも来たそうです。ちょっと中世の時代に戻ったような気分にもなります。観客達は誰も興奮しているようでした。私達はテーブルに同席したアルゼンチンの夫婦と住所の交換までしてしまいました。
 ルイスさんに聞くとこのショーは革命前からあるそうで、中国のようにブルジョワ文化として破壊することはしなかったようです。
 ついでにブルジョワ文化についてもう少し書いておきます。
 メキシコもキューバもほとんどの街には日本の国会議事堂の頭の部分を丸くしたような大聖堂があります。スペインは南米の全ての国や街にこの聖堂を建てたということです。キューバではそのまま残っています。その写真を日本に帰ってから中国の学生に見せると彼はすぐさま「あれ、こんな帝国主義文化を何故破壊しないのか」と叫んでいました。

 私の妻が思わずルイスさんに日本語について注意したときの話をしましょう。ハバナの市内観光をしているとき、私たちのミニバスに2組のカップルが乗り込んで来ました。ルイスさんは「スペイン人達はすけべで困ります」と私達に顔をしかめて苦情を言います。 彼らはバスを降りてからもしばらくは身体を触れ合っていました。でも女性の方はほとんど積極的では有りません。やがて解ったのですが、カップルの男達はスペインから来た観光客で、ハバナで女性を拾って一泊してきたところだそうです。
 そうしてドルを得ることがハバナの若い女性の人気になっているとのことでした。
でも私の妻は「すけべ」はあまり公には使うべきではありませんと紙片に書いていました。

南国で裸の女性を見ることはそれほどセクシーではありません。環境に適合しているという感じがします。
 ハバナで葉巻工場を見学させてもらいましたが、そこでは上半身裸に近い姿で働いている女性もいました。
 長机で座っている女性達は年齢はバラバラでしたが誰も大声で話していました。ガイドのルイスさんは「キューバの女性はおしゃべりで困ります」と言います。

 次は飛行機の中で南米の各地を転勤している日本商社の人に聞いたのですが、胸元を大きく開けるのは世界共通の風俗だとのことでした。逆にそうしないのは東南アジアの儒教の道徳が浸透した一部の地域だけだという意見でした。
 ほとんどの国では、如何に自分を美しくみせるかは昔からの習慣だということです。ただその気持ちの根底には個人主義の自覚が徹底していて、自分の幸せ・世界は自分が開くのだという考えが有るのだという推察でした。
 サンチャゴの市内見学の時に、同行のカナダ人家族達の中に二十才前の女性がいました。半日の観光旅行を一緒にしただけですが、全く見ず知らづの私達日本人に対しても、話しかけると丁寧に自分の考えを述べます。先述のプレイボーイのガイド氏が昼食の時、流しの歌い手がくるとその女性を誘って踊を申し込みました。するとすぐに立ち上がって踊りだします。横にいる両親の同意を得る様子も有りません。夕方に別れるときも外人一人一人に丁寧に相手の目を見つめながら握手をしていました。自分の存在を強く主張している感じを受けたものです。
 ついでにそのカナダの親の方について言いたいことがあります。五十才くらいの学校の先生をしている方ですが、別れるとき「中国までの遠い旅に充分気をつけて」といわれて思わず相手の顔を見返しました。私が日本人であることは何度も説明しておきました。しかしその方には日本と中国との違いは解らないのかも知れません。世界地図の隅の方の、中国の一地方辺りに思われているのではないでしょうか。

帰りの飛行機で同席した前記の商社の方の話をもう一つ紹介しておきましょう。
 それはスペイン語のことです。メキシコから南の国は全てスペイン語だそうです。(ブラジルだけはポルトガル語)ポルトガルとスペイン語は似ているので大体は通じるそうです。キューバもスペイン語です。
 そしてスペインは南米の全ての都市にあの大聖堂を建てたのです。
しかもアルゼンチンとペルーは白人(スペイン系)のみだそうです。現地人と黒人は全て殺してしまったと言うことです。何という恐ろしい歴史なのでしょう。
 地球上で使用される言語について言えば、中国語が最大でその次が英語で次がスペイン語だそうです。
善悪から判断はできませんが、これほどの地球的大きな影響力をスペインが持っていたことを私は今回の旅で初めて知りました。
 昨年からJリーグの登場でスペイン語も日本のTVに現れてきましたが。

 さてガイドのルイスさんに話を戻しましょう。
最後の日は文豪ヘミングウエイの住居跡を見学しただけだったので時間が余りました。そこでルイスさんといろいろ話をしました。
 私がもっとも尋ねたかったのはキューバの社会主義政策のやり方です。彼もハバナの官庁に勤めている人も、私がこれまで地球上に国民に支持された社会主義国は無かったのにこちらは如何ですかと尋ねると「中国とは少し違います、北朝鮮とも少し違います」と言う返事でした。そして二人共にキューバでは95パーセントの国民が政府を支持しているとの答でした。その辺のことを具体的に説明してほしかったのですが、結論を先に言うとそれは不可能でした。彼はソ連に経済の勉強で6年も住んでいたそうです。それで経済のことならどんなことでも答えることが出来ますということでしたが、込み入った話になると日本語では通じなかったのです。
 そこで彼の両親について尋ねました。 
彼は33才ですから丁度キューバ革命の直後生まれています。お父さんは医者の3男だったので大学には行けなかった。お母さんも同じ様な環境で育った。そして現在2人とも今の政府の方が良いと考えているとのことです。
 彼はソ連で学んだので、ロシア語と東欧の言葉を少し話せます。そして日本語と英語、自国語のスペイン語は勿論です。
 そして私達にはとても親切にしてくれました。バラデロまではタクシーが高いからと言って会社のミニバスを手配してくれました。私達の後はまた何人もの日本人が控えているのにきっと精力的に案内して廻ることと思います。
 キューバでの想い出は私も妻もとてもよい印象が残りました。メキシコへ渡る飛行機の中では、メキシコの元気なご婦人が(ホテルで出会った)キューバの料理はお粗末だとぼやいていましたが。
 

 最後に帰りに寄ったお隣の国メキシコと比べた話を少ししておきたいと思います。

 メキシコは緯度はキューバとほぼ同じです。そして2200メートルの高地にあります。
そのため日中は暑いのですが夕方からぐんぐん温度が下がって行きます。その下がり方が極端で1時間おきに上着を一枚増やすくらいの下がり方です。
 インカ帝国がスペインに滅ぼされたとき、抵抗が猛烈であったのでスペインは街全体を埋め尽くしてしまいました。そのことが最近地下鉄工事の時に地下から都市が発見されて解りました。
 さてメキシコの第1印象は何といっても世界最悪の車公害です。ホテルを出て30分もするとその道路を埋め尽くした車の中で、私は酸っぱい臭いと目から出る涙、喉ががらがらし、頭が熱っぽくなって気持ちが悪くなりました。後から聞くと冬はあまり雨も降らず最悪の季節だと言うことでした。夏にはスコールが来て少しは空気がきれいになるそうです。
 この公害を無くすために一つの方式が考案されて検討されたそうです。それは野球場ほどの換気扇を数百台回して汚れた空気を上空に追いやってしまおうと言う考えです。しかしそれを実行するにはとても予算も電力も足りないと言うことでした。

 しかしどの街の商店にもキューバと違って商品が山のようにあります。野菜も肉も衣類も何でもあります。しかし、その車のひしめく道路際に乳飲み子をかかえた夫人が座り込んで通行人に施しを求める姿があります。人の集る所にはスリがいて住み慣れた人でさえ盗られるそうです。先述の商社の方の友達が大事な鞄を書類ごと盗られたと言っていました。
 メキシコはスペインに侵略されて以来この国の上流階級をスペイン人に独占されてきたわけですが、しかし約500年ほどたった今はその矛盾を旅行者の私が目に出来るものはありません。
 表面的、法律的には差別はないと言うことですが、しかしアメリカとの貿易自由化の拡大によって地方の農業は死滅するとも言われていました。 

 しかし旅をすればするほど世界は複雑で一様ではなく矛盾に満ちていると改めて痛感しました。
 振り返って日本を考えてみると、戦後の暗くて封建的な姿を色濃く残していた日本が、こうして他国と比べてみるとずいぶん開放的で民主化されてきたと言う感じが強くします。もう一度キューバに行きたいという気持ちを述べて終わりにします。