中国の紹介 を終えて
現代中国で何が起こっているか

要 紘一郎

 私が中国での語学勉強を終えて帰国後、向こうの新聞などの翻訳と関係記事の紹介をしてきました。翻訳中は大勢の方から意見や感想を頂き、原稿も慎重になった記憶があります。

 これを終えるに当たって、私なりの思い出を書き留めておきたいと思います。

 先日NHK(BS3)で中国の現地からのレポートを放送しました。
 2部に別れていて、革命までの第一部、地主を打倒し農地が分配された時代。それについては概ね農民達は賛成や感謝の意見を述べていました。
 そして後半の部分、新中国建設後始まった政治について誰もが、もう想い出したくもないとか再び歴史的に繰り返してはいけないと言う感想でした。

 「社会主義」という言葉については、その由来は長い歴史があるとは思いますが、20世紀初頭には非常に高く評価され期待された時代があったようです。
その頃は資本主義大国による全地球規模の植民地分割や過酷で露骨な搾取が地球を覆っていて、人類の平和や安全で理想的な社会を考えるとき、次世代の理想として「社会主義」を夢想した人が大勢いたと言うことでしょう。
 
 社会主義という言葉についてはいろいろな考えがある例を先ず書いておきましょう。
東京渋谷に「東京都立子供会館」があり、子供の遊び場として数千人の子供が遊べる玩具や遊戯施設が揃っています。それぞれの担当者が子供達の遊びを世話しています。
 1990年の頃、中国から来た学生が「これはまるで本来の社会主義だね」と言いました。その意味は社会主義を理想的なものと考えていることを表しています。しかし同時に彼は、「中国にはこの様な施設は、全く無いよ」と言いました。つまり中国は本来の看板とは全く関係ない国家を建設してきたことを示しています。ではどこにどのような問題、方法の間違いがあったのか、それが少しでも明確になればと思います。
 結果論として私は次の2点に絞れると思います。それは「計画経済」と「人治国家」です。
 
  計画経済

 新中国建設の理想的な制度として採用されたのが「計画経済」でした。それまで地球に存在し悪名を広めていた資本主義経済では、全ての商品は無政府的に生産され、必ず生産過剰とその結果恐慌が始まるというもので、それを防ぐには計画経済しかない、と言う考えでした。
 北京で全国6億人(当時の全人口)の生活必需品を”計画、生産から分配”まで計画し指導しました。
 その実行段階の各生産現場では結果として全てが”命令”です。現場での計画への批判や反論は許されません。
 その結果として「労働の喜び」などは有り得なかったのです。効率面でも社会的に評価される意義は全く欠いていました。
 具体例として私が聞いたのは「石油産業」で、中央からの命令通り製品を上納する方法として、現場では少しも働かず外国から既製品を買って納めた方が遙かに上質で安価に出来上がるという例でした。
 計画経済が始まると毎年中国全体で生産高が減少しています。農業・工業共に。若者を受け入れる職場が生まれません。これがモンゴル地方の山林乱伐へ青年をかり出すことになり砂漠化に繋がっています。
 良い面として強調されているのは、社会の平等ですが、極貧状態の平等で、人口の7割以上を占めた農民には公的な補償や保健などは不可能でした。

 そして先ほど書きましたが、農民達にとって2000年に及ぶ長い封建制度の下で圧政による無気力、生き甲斐のない人生観が身に染みついた上に、さらに新中国誕生後採用された計画経済で国家が全てを計画し指導する制度によってさらにその無気力と生き甲斐のない人生観が続き、これが現在も中央政府自身が「農民達は文化が都市住民と比べて劣る」と明確に公言する状態になっています。

 ついに毛沢東が亡くなる前後(1976年)に、農民達が党に隠れて、犠牲者が出たとき家族を助け合う「血判書」を書いて「自主生産」を始めました。それが農業生産を高め、中央政府の追認となり、農産業の自主生産が始まり、食料品の自由市場が生まれて、農産物の生産高が上がり始めました。

 1992年、登小平の「豊かになれる者から豊かになろう」という大標語が発表され、誰もが商売に手を出すことが奨励されました。それが工業・商業方面の自主生産の始まりです。その直後から中国では毎年”G D P”の飛躍的な上昇が始まりました。
 大連の日記で書いたように、1992年頃では日本人はとても中国に住めなかったけれど、1995年に中国に来てみれば何とか住める状態になった、という記事に現れています。
 計画経済は全ての段階で国民の批判があります。決定的なのは”配給”です。毎日「配給券」を持って買い物の長い列を作るのは、誰もが思い出したくない光景でしょう。 
 1995年の”北京の商店”で書いたように肉屋に行くと何も陳列されていないので店員に聞くと「商品の調達は私の担当ではない」、と答えて”私は関係ない”という振りをするのも計画経済の「悲劇的」一例ですが、この場合は「人間」もその計画経済の中で”機械”として扱われ変質している例でしょう。
 登小平の大標語は文字だけ見ると無責任な感じがしますが、しかし現中国の全ての人が歓迎していて、再び計画経済に戻ることを誰も望んでいません。
 日本では少し進歩的と自認する人が「現中国は既に社会主義ではなくなった」という批判的な言い方をする人がいます。まるで計画経済に戻るのが正しいとでも思っているのでしょうか。多分、社会主義の実態を知らないで空想的・無責任に反論しているのでしょう。

 つまりソ連や中国の社会主義国家崩壊の基本的な構造は計画経済にあったといえます。この方式を再考しないことには資本主義を超える社会と生産方式の展望などは有り得ないでしょう。

 法治国家

 中国では国家主席の李少奇が殺されたり、ソ連ではトロッキーが外国まで追いかけられて殺されたりしたのは、法治国家で無かったことの一例です。
 党の最高権力者に反論する場がないのです。「敵階級」のレッテルを貼られたら全てが終わりです。周恩来もそのためにもう少しで殺されるところでした。
 現在でも党幹部の賄賂を批判した詩をインターネットに掲載して「国家転覆罪」に問われるというのも、法治国家でない例です。レッテルを貼られると公開の反論の場がないのです。
 
 中国の農民が住所と職業を固定されていて反対できないのもその例です。この制度自体も計画経済を安定して実施するために造られたものですが、国民が平等に扱われるためには、被害にあったとき告訴する権利がなければ公平や平等とは言えません。中国の裁判権と機構そのものが党の管理下にあり、法的に平等ではありません。
 中国の農民が文化的・人権上、信じられないほど冷遇されているのを何故国連が告発しないのか不思議です。
 
この考え方は「階級的」な思想から来ています。「階級」を守ることを優先して、人治国家になり、法治国家を批判しています。法治国家というのは全人民が法的に平等になります。党員も一般国民も。しかし中国の憲法では党は全てに優先するとして対等関係を否定しています。
 2000年に世界との貿易を始めるために、法治国家になることを表面上発表しましたが、実際は人治国家です。
 法治国家は誰もが、資産的に有利な人も貧乏な人も平等に扱います。そのことを中国では資本主義の欠点と言い、人治国家を選択しています。この方式は最高権力者にとってはとても有利です。

 国家成立前、延安で毛沢東が全党員に作風改善を目的に「階級的な反省文」を書かせます。同じことを文革の時も全党員に書かせています。この作文の中には誰もが「ブルジョワ的」な面の自己反省が記載されることになり、これによって毛沢東の決定的な指導権と彼以外の服従関係が作られます。これで国家主席が裁判なしに殺害されます。法的な反論が出来ない代表例でしょう。
 「造反有理」も人治国家の代表例です。社会には法的基準が無く、最高権力者への絶対服従が要求されました。

 どんな社会にも矛盾があり利害の対立が起こり、それを出来るだけ公平に処理する制度や機構が必要です。しかし社会主義(中国やソ連のような)では「階級対立が無くなれば利害対立が無くなる」としてそのような仲裁機構は不必要と言います。それが最高権力者の独裁を生んでいます。
 
 さらにもう一つ中国の根本的欠陥を説明しておく必要があります。
 1959年の「大躍進政策」で、四千万人が飢え死にした例です。
 15年で英国の鉄鋼生産に追いつくことを謳い文句に始められた政策ですが、生活は「共産主義的」に共同の食卓で同じものを食べ、毎日「鉄くずを拾う」大国民運動が始められ、ついに歴史的にも例のない大規模の飢餓死が全国に生まれ、生き残った人達も顔がむくんだりして国全体が危険な状態になりました。各地方の党組織が中央に対して「革命的意識が向上し、生産は拡大」と嘘の報告を上げたために、1年後に上記のような被害が生まれました。
 この悲惨な事例は何を後世に教えているのでしょうか。
 上から命令する計画経済と反論を許さない階級思想がその中心だとは思いますが、それだけでは中国人は納得したくないでしょう。もっと多く学ばないと、あまりにも莫大な犠牲者を出したことに不満が続くでしょう。

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