七月の杭州

 ☆「南昌と深センの旅」

学校は六月二一日で終わりました。中国ではこれが後期に当たります。前期は九月半ばから始まります。従って次期も学習する人達は長い夏休みに入ることになります。 そこで十年前知り合った中国人に連れられて、中国南岸の南昌と深センに旅をしました。

 私が十年前自宅でCADを使って仕事を始めた頃、中国の学生がアルバイトに来ました。 今から思えば、それが私が中国と深い付き合い(?)になる大きな動機だったようです。
 彼は中国に若い妻と子供を残し、「自由の国日本」に出てきました。その自由の国というのは彼の当時の言葉です。
 仕事が暇なとき、彼は私に中国語を教えようとしました。でも「ち」の四種類の発音をしているだけで前へ進まないので、三十分で止めたことがあります。以後彼は私に中国語を教えようとは言わなくなりました。

 しかし彼の口から、社会主義中国について実に驚くようなことを次から次と聞きました。当時はソ連邦崩壊の直後で、中国にも問題が有るだろうとは想像していましたが、でも実際に住んでいる人から聞くのは、全く想像もできない内容だけに驚きの連続でした。
 そのうち特に驚いた話は、社会主義中国には、福祉施設がほとんど無いという説明でした。
 だからいつかはこの目で見たいと思って興味が旺盛になっていたのかも知れません。でもまだ当時まさか自分が中国に行くとは夢にも思いませんでした。 
 
 そして思わぬことが連続して、ついに中国に一年半住んで言葉を勉強することになったのも、やはり彼との出会いが始まりでしょうか。
 そして今回の旅で中国に対する理解をかなり広めることが出来たと思っています。 

 私は昨年中国東北地方に鉄道の旅をしたことがあります。そのときの鉄道員の印象が強烈に残っています。中国で威張っているのは、鉄道と郵便と銀行員だと学校で習いましたが、正にその典型的な人達でした。怖いだけでなく、到着時間などに対するこちらの質問に対する答えもいい加減なものでした。
 ところが今回は全く別の雰囲気の鉄道会社でした。違う国と言った方が良いくらいです。
 
 友が汽車の切符を二枚買って遠くからやってきます。その汽車に私が途中から乗り込みます。そこで私には乗車券が有りません。そのことで、途中駅の係員にどうすればホームに入れるか聞きました。すると私の発音で直ぐ外国人と判ったのでしょう、荷物の検査もなく入場券もなくホームまで案内してくれました。荷物の検査とはX線で中身を調べる方法で他の全ての乗客はその機械の前に並んで居ます。
 もうここで「え、これが同じ中国か」と思いました。

 汽車は寝台車で十時間ほどの旅なので時間がたっぷりありました。そこで暇な時間を見て、女性の服務員が話を聞きに来ました。寝台車は客全員の個人番号を調べます。中国人は全員が持っています。私は学生証を出しました。それで私が日本人で中国語を勉強していることを汽車の服務員が知ることになりました。(旅行するときは出来るだけパスポートを出さず学生証を使います。ホテルも可能ならこれにして貰います。というのはビザの書き換えの時、私の過去がずらっとパソコンに記録されて居るのを見るとなんだかいやな気分になります)
 さて服務員ですが三十才くらいでしょうか、日本に興味があるそうです。それと何故私が年令を取ってから勉強しているかにも興味が有るようでした。私の友は気を使ったのか寝台車の上の方に行きました。近くには五十才代の叔父さん叔母さんが居ました。
 彼女は中国の印象や中国語の勉強について質問してきました。彼女の最後の質問は中国人の女性の服装をどう思うかでした。「綺麗ですか」と聞いてきました。本来私はお世辞を言わない性質ですから、「日本の学生達が言うところによると、四・五年前から日本も中国も服装が同じになっているらしく、私の見る限りその見分けが着かない」と言いました。彼女は深く納得していました。
 私がこちらで聞いたところによると九五年頃から服装が明るく綺麗になって、流行もどんどん使われてきました。日本で流行っている高い上げ底の靴を、こちらの学生もほとんど履いています
 女性の衣装問題だけでも本当は一杯話したいことがありました。
 例えば、最近日本の新聞で見たのですが、顔に墨を塗ったりする若い女性が居るとか。こんな真似はして貰いたくないですね。
 又、礼儀正しい女性というのはやはり日本の方が多いし、板に付いていますね。
 でもこれは後の祭り。もっとも「板に付いている」なんて中国語はまだ知りません。
 
 中国の南方の海岸側は一般に経済が発展して豊かだから親切になってきたんだと多くの人に聞きました。その豊かさも北と比べると外国と思うほどの違いがあります。
 この現象は違う言い方をすれば、計画経済の国営企業が南では少ないと言うことでしょう。国営企業には「領導」という党の幹部がいて毎日高級車を乗り回し接待浸けだという話を互相の学生から聞きました。日本もかって公務員が威張っている時代が最近までありましたが。

 大連にいたときは公安が庶民を虐めるという場面を良く目にしました。商店の人も公安に対する恨みをはっきり大声で言う場面にも数度出会いました。また国営企業のままの商店も多いと思います。それは服務員の怖い態度から直ぐ判ります。ところが南に来るとそのような商店が少ないですね。
 それに発言の自由も南の方がずっと開放的です。
 ただし政府要人や党のトップの莫大な使い込みなどは、南の方から起こっているように、新聞からは想像します。
 
 話は少し飛びますが、オーストラリアで一年英語を勉強してきた日本の学生が、学校で感想文を書いたとき、中国に来て以来「謝謝」と言う言葉を聞いたことが無いという作文を書きました。オーストラリアでは何に付けても最後に「サンキュウ」を付けるそうです。
 警官も人に道を教えた後「サンキュウ」と言うそうです。
 そこで今回の旅で、私はそのことに注意をしてみました。たしかに「謝謝」は無いですね。客が言うことはあります。すると服務員は「慢走」と答えます。日本語に直すと「ごゆっくり」に相当するでしょうか。これが丁寧な挨拶の一つなのでしょう。だから挨拶の言葉だけで親切かどうか比べることは出来ません。

 友の解説によると、中国ではまだ商売上の応対に人々が慣れていないのだと言います。だから客に対してお釣りを放り投げて振り向きもしないで向こうへ行ってしまいます。かって社会主義と言う制度を取り入れたとき、「サービス」というのは資本主義ゆえの悪い慣行で、金持ちと貧しいものとの関係が露骨に強制された見苦しい制度だとして、仕事の上ではサービスは不必要だと考えられていたそうです。そして誰もが国家公務員となったので、実際サービスという習慣は中国からほぼ消えてしまったようです。
 ただ仕事から離れて個々人の関係となると、別の態度となるのでしょうか。そして現在は民営の企業も現れて、その習慣はかなり変わってきています。
 しかし割合から言えばまだまだ不親切で無遠慮な対応が多いですね。
 例えばビールを注文します。普通は冷えたものは用意していません。それで文句を言うと、別に謝ると言うことはありません。私には関係ないと言った感じです。
 有る観光地を歩いたとき、売店の叔母さんに「トイレはどこですか」と聞きました。
するとラーメンを食べながら、こちらに顔を向けることもなく「あちら」と言います。道は二本有ります。あちらではさっぱり判らないと言うとまた「あちらだよ」と言うだけです  
 
 話は戻ります。寝台車の向いの席にいる中年の叔母さんは、何故汽車に乗るのに個人番号を調べるのかと、服務員に強烈に文句を言っていました。服務員の答は「私達の会社では客の安全の為に・・」とか、丁寧に答えていました。東北地方ではこんな質問さえ許さないのではないかと想像します。
 
 最初に着いたのは南昌です。ここは中国の解放のために武装蜂起を開始したところで有名です。
 ここには彼の学友が何人か居ます。早速その夕方彼等と一緒に食事をしました。
 学友が子供の時「文革」が始まりました。そしてお父さんは知識人のため農村へ追放。そこで大変苦労されたそうです。文革の中休みの頃ここへ戻ることが出来ました。
 
 学友の話によると、文革が始まると、叔父さん(叔父さんも知識人でした)が若者の紅衛兵に囲まれ殴る蹴るの暴行を受けました。そこで十年経ち文革が終わって、「四人組」が処刑されて、文革が終わりました。でも法的には何の正当性もなく暴力を振るった人達には処分が来ません。 そこで彼等は数年して身体が大きくなっていたので、親戚の若者と叔父さんの家に行って「仕返し」に行こうと言いました。そしたら叔父さんは「あれは大きな歴史の流れが起こしたことで、今となっては怒りもない。きっと向こうもそれなりの歴史の中で報いを受けているのではないかと想う」と言って、彼等を留めたそうです。

 具体的な報いの一つは、文革中、学校が長年休校になり、三年間は入学そのものも無くなり、勉強できなくなったこと等です。
 その文革の頃若者達が突然他人の家に入ってきて抽斗をかき回して「敵性」のものを探し出そうとしたそうです。
 あれから三十数年、暴力を振るっていた人達も今は五十才代で同じ街にいます。(文革は一九六六から十年間) 
 
 ついでですが私の教科書で「文革」が出たとき、老師が私に知っているか聞いてきました。それで、当時日本の知識人学者は最初は評価して、そのような意見の新聞記事が載ったと言いました。そしたら老師はびっくりして聞き返しました。「え、!文革は最初に知識人を攻撃したのですよ」と話して、不思議そうな顔をしていました。

 南昌は大陸の可成り奥深いところですが、しかしここにも戦争中日本軍が攻めてきたそうです。
 友は高校生の時、国家の命令で日本語の勉強を開始しました。(国家の命令で進学就職が決まるという制度は八十年代でほぼ終わりました)
 そのときの気持ちは、当然ですが侵略に来た国の言葉を勉強するのはいやだと思ったそうです。
 ところが就職後計画経済の馬鹿馬鹿らしさを体験し、進歩が無くて賄賂だらけの社会を知って「自由の国日本」へ行きたいと思うようになりました。
 (彼の言う計画経済は工業方面のことを指しています。生産の現場を知らない北京の担当者が国家経済を指導する。大衆の好みと関係なく生産計画を建てる。生産者は最終末端の消費者に対する責任が無いので客に対して高圧的な態度になってしまう等です)

 そして彼は日本で多くの本を読みました。中国の本当の歴史を日本で勉強しました。また日本にも複雑怪奇な矛盾が山ほど有ることも知りました。
 蒋介石の息子「経国」の人生を語り合ったとき、私も台湾で経国の本を読んでいたので彼の知識にびっくりしました。そしたら彼は東京の図書館で勉強したといいます。
 
 さて明くる日は、彼の学生時代の友達に車で連れて貰って、廬山にいきました。高度二千メートルの山頂にある避暑地で有名です。頂上からは北の方に長江が見えます。
 ここは又「廬山会議」でも有名だそうです。地名から「神聖会議」とも言います。
 開国後毛沢東の「大躍進政策」が実行された直後、毛沢東は避暑を兼ねてここで会議を開きました。まだ文革は始まっていません。
 その頃既に大躍進政策で千万人を越す農民の餓死が報告されていました。そこで当時もっとも高齢で功績も大きな軍事大臣の彭徳懐が毛沢東に個人的な手紙を書きました。個人崇拝はいけないこと、誰にも間違いがあること、最近の中国の事態は慎重に扱う必要が有ること、等。
 その手紙を毛沢東は会議に発表して、彭徳懐は「右翼日和見主義である」と攻撃して追放しました。数年後文革が始まると彭徳懐は紅衞兵につるし上げられ街を引き回されます。

 現在の党の文書では、この「大躍進政策」は間違いであったと、書き直されているそうです。
 又この「廬山」で毛沢東は以前の妻を現地に呼んで再会しました。それを妻の紅青が聞きつけて飛んできました。
 以降、北京に怒って帰った紅青を追いかけて毛沢東も急いで北京に行くという、一騒ぎがあって、これもここの有名な物語だそうです。
 
 南昌市に戻って武装蜂起の決定された記念館を見学しました。蜂起の日を採って「八一記念館」と言います。ここから国民党と日本軍を追い出す大きな革命が始まりました。
 この記念館の外側には女の子を連れた女性の乞食が二組、四十度近い猛烈な熱気の日差しの下で小銭を入れる帽子を置いて道路に寝そべっていました。建国の難しさを物語るのでしょうか。
乞食は近くの農村から来ているのではないかと友は言います。 

 友の説明によると、中国では建国後毛沢東時代に想像を絶する社会的荒廃があったので、彼の死後、一九七八年に改革解放が実行できたのだと言います。
 それを実行したのは登小平です。ソ連も八十年代半ばから改革が必要なことをゴルバチョフが説きました。しかしゴルバチョフは党の頭から換えようとして討論会を中心にしました。そして失敗しました。しかし中国は頭はそのままで、先ず農民を豊かにすることから始めました。計画経済の指導を外して農業栽培の自由化を実行しました。(但し農民は住んでいる土地の移動は出来ません。これは現在も同じ)
 これによってその年の内から市場には政府に納める以外の農産物が山と積まれるようになりました。
 キューバではソ連崩壊後経済援助が無くなり経済危機が起きて、一九九四年に農業改革(土地の部分的私有化)をしました。しかし中国では一九七八年に始めました。それまでの数倍の農業生産が一度に出現しました。八十年代初めには、「万元戸」と言われる大金持ちの農民も南方に現れたことが日本でも報道されました。
 
 一九四九年の建国以降の農民がどんな生活を送っていたかを描いたものは、日本では一九八十年代に放映された「芙蓉鎮」です。(これは現在日本ではビデオショップに置いて有ります)
 北京から派遣された女性書記がある農村を指導します。そして収穫が終わって秋が来ると、村の人口の三パーセントを選んで資産階級として糾弾する集会を開きます。その三パーセントは村人の密告で決定します。
 両手を後ろに括って三角の帽子をかぶせ頚に「資産階級」と言う幕を垂らします。こうすることで毎年の収穫が増えると北京の指導者は考えました。まだ「文革」の前のことです。
 映画ではその若い書記に好きな男が出来て、しかし普段農民に対して威張っているので村人には紹介できなくて、夜になると窓から男を引き入れます。これは明らかに村人より書記の方が身分が上であることの葛藤です。
 映画では人の集まるところで、美味しい豆腐汁を作って少しお金を貯めた若夫婦が、楽しい生活から、「反階級」のレッテルを貼られて突然地獄に落とされる両極端の生活を見事に演じています。
 
 私はこの頃の事実を知りたくて、一人の女性の老師に映画の感想文を書いて見せました。
 この映画は中国政府の承認で創られており、中国でも報道されたことが有ったと聞いていました。映画としては実に感動的なすばらしい作品です。
 感想文の中で私は農民と書記とが平等ではないと思えると書きました。そして本当のことを知りたいと書きました。
 そしたら老師は私の原稿を読んで、私の横に座り込んで「では貴男は一九三十年代の日本のしたことをどう思うか」と聞いてきました。
 ここまで話したら私の友達は大笑いをして、映画の中身と三十年代とどういう関係があるのと言います。

 私もそのとき驚きました。結局、建国以降の農民の実体がどうであるかの話が出来ず、ただ三十年代の日本の侵略についての話に終わりました。その老師は真面目な人ですが、多分建国以降の農村については全く知らなくて、ただ輝かしい党の歴史だけを学んできたという感じでした。この老師の場合は大衆を指導する側に立って中国を見てきました。
 
 私の友はそれが出来なかった一人です。友の両親は党の幹部です。友は文革時代を子供の目で見てきて、若いときから党のやり方に批判的な目を持っていました。しかし大学を出たので党に入る資格が出来たと言うことで入党を勧められました。
 そのころ職場では一週に一度以上の党による政治指導の会議がありました。住んでいるところでは居民会議もあります。友は外国からのニュースをラジオを通して聞くことが出来たので、党の言うことが信用できなくなっていました。
 そんな彼に対して、党は「反党的である」「敵階級の思想を持っている」、と言う攻撃をします。こんな虐めが権力を持っている側から大衆にされていたのです。
 
 私が中国へ来てから戸惑うのは、年代や個人によって完全に違う考えを持つ人が混在していることです。六十才代以上はまだ毛沢東を尊敬しています。四十,五十才代はマルクスに裏切られたと言う人が多く、三十,二十才代はまた現在の党やテレビの言うままを信じる人が少し居るのではないでしょうか。 ただ最後の若い層は同時に外国のことも良く知っています。だから中国は、開放をもっと進める必要があると思っているのも事実でしょう。
 八年ほど前まではほとんど外国のニュースは入ってこなかったそうですから、現在は大きく変わっているのも確かです。

 この旅行をしているとき、ちょうど中国内で旅客機の墜落と客船の沈没という二つの大きな事件がテレビで報道されました。そのテレビのニュースを見た友は「あれ、これは昨日のニュースだよ。中国も直ぐに報道するようになったんだ!」と言って驚いていました。 こういう事情なので考えの違う人達が混在しているといえるのでしょうか。
 これらの違う考えの人が意見の交換も無しに一緒に暮らしているという、そんな国に感じます。友の話では、若い層は勿論、中高年層も最近は政治の話題がほとんどないそうです。だからいろいろな考えが混在しています。 
 で、農民の問題に戻って、私の友達に中国の農民について聞きました。友は毛沢東が農民を騙したのだと言います。革命の途中では農民に土地の解放、教育の機会、職業選択の自由等を約束して回ったそうです。
 
 計画経済を実行する建前から、住居移動と職業選択の自由は認められず、また生産の余りにも低い状態、貧困などから仕方なかったのでしょうか。
 但し身分の不平等はどういうことでしょうか説明できません。
 その後中国の学生にこの「芙蓉鎮」を見た人がいて、感想を聞きました。でもその学生は別に不平等という感じはなかったと言います。
 この映画を見た日本の学生に聞くと、明らかに不平等と言います。どうしてこんなに違いが出るのでしょうか。

 この不平等は現在でも「領導」と言う表現が頻繁に出てきて、指導者と一般の段差を感じます。(ちなみに教科書でも領導を批判してはいけないと書かれています)
 
 さて建国後三十年近く経ち、農民達はついに党に隠れて自主的な耕作を計画します。
それをNHKはルポ形式で八十年代後半に報道しました。「ある農村に残された血判書」。
 これまでの貧困をうち破るため仲間を募って血判書を書きます。遊休地を耕作して作柄を増やすこと。もし党にばれて殺された場合、残された家族の生活は血判を押した全員で面倒を見ること。

 私はこの番組を見たとき、本当に驚きました。しかし又、現在もこのような状態なのか、そのことがさっぱり理解できなかったのです。その疑問は後々まで続きました。
 しかしあのような農民の苦しみは七八年で終わっていたのです。
 逆に、このような反抗が全国的に起こりつつある状態であったので中国では改革解放が出来たのでしょう。
 私達が中国人と話すとき、つまり外国人と混じって話すとき、常に「現在ではいっそう解放されてきています」という付け加えがあります。しかしこの「付け加え」の重要な意義を私達は理解する必要があります。彼等にとって実に重要な一言なのです。外国人と話すとき、切実に彼等は感じるのです。

 友は言います。現在の生活について不満のある人がかなり居ますが、しかし改革解放は誰もが歓迎していると。農民も含めて百パーセントが歓迎していると友は強調しています。
 
 農民が豊かになって政府の税収も増加し、農民の消費が工業方面にも大きな刺激を与えるようになりました。八十二年には農村にカラーテレビが現れていると教科書で習いました。このような社会の活性化が出来たのはそれまでの失敗があったからです。登小平は「豊かになれるものから豊かになろう」といいました。
 そして現在は技術立国を目指しています。
最後には党の頭も換えたいそうですが、それは大変難しいと友は言っています。

 農業の自由化の次に、最初に都市の近代化を目指したのが、深セン市です。ここでも海外からの投資を自由化しました。そして数年で小さな漁村が大都会になったのです。
 
 私は南昌から又十五時間汽車に乗って深センに行きました。深セン市は大陸の海岸都市ですが、市の南側に小さな半島が突き出ています。その半島が香港です。香港と深センの間に小さな川が流れていて、かっては国境となってきました。
 
 千八四0年代のアヘン戦争でイギリスは香港をイギリス領地にしました。これ以降幾たびか大陸から香港への大量の人口流動が起こります。
 イギリスの統治が決定されると、当時疲弊していた清朝政府の大陸から仕事を求めて中国人が大量に香港に流れて行きます。
 又新中国の建国直後、平和の到来と新中国建設に一度は大喜びしていた人達の一部が計画経済の実態を知って、又大陸を逃れて香港に逃げてきます。こうして香港は人口の密集した大都市になってきました。現在の人口は七百万人。

 大躍進の時も、文革の時も、この小さな川を渡って香港へ逃げて行った人達が大勢居たそうです。彼等は香港経由で台湾やアメリカ、オーストラリアに渡って行きました。だから台湾の人は大陸の歴史の実体を口伝えで聞いて良く知っています。 

 香港は現在中国に返還されましたが、大陸の人が香港へ来て就職することは出来ません。それは大陸に比べると格段に賃金が高いため、(約五倍程度)人口の流入を防ぐため制限しています。
 深センに話を戻して、ここには「豊かになった農民」も相当数居るそうです。(勿論戸籍はありません。従って学校へ子供をやることや医療保険その他の権利がありません。現在人口の半分がこのような戸籍のない人だそうです)
 またこのことから、この街では若者だけで、ほとんど老人がいないと言うことになります。
 市の真中に農民が経営するマンション群があります。そんなこと、東北の農民が信用しないのではないでしょうか。
 
 深セン市の真中の交差点に登小平の顔写真入りの横幅二十メートルほどの巨大な看板が設置されています。「現在の姿勢を百年間は堅持しよう」と書かれています。

 (山崎豊子の「大地の子」の陸の妹が農家の嫁として古代奴隷制のような状態で死んでいく様子が描かれています。このような農民の姿は北京から汽車で一時間半ほど行ったところで、八十年代にはまだ見られたそうです。)

 さてもう一つ気になる話を友に聞きました。
 中国の南方の海岸地帯は、銀行が土・日も開業で休日がありません。友の話によると私営銀行が現れたからです。そして昼も休みません。東北地方は土・日は休みで、昼休みは十一時半から一時半までです。中国全体の公務員の作業時間です。また金曜の午後の仕事は利用者が当てに出来ないそうです。
 だから南方は利用者にはとても便利なのですが、しかし銀行員の待遇を考えると疑問を感じます。昼休みに銀行に行くと窓口で食事をしていて、弁当を流し込むようにして客の応対をしてくれます。彼等行員の自由時間はどう補償されているのでしょうか。

 また学校の食堂では農村から来た若い小姐達が働いています。しかし四ヶ月の間ほとんど休んでいません。朝七時から夜九時まで開業です。勿論暇な時間は休んでいるとは思います。しかし休暇日がないのです。しかも客である私達にはとても親切です。と言うかこれが普通の人間の姿でしょう。利用者の学生と冗談も言い合っています。公務員の職場と猛烈な対照を感じます。(もし彼女たちが公務員なら学生とは口も聞かないでしょう)
 もし彼女たちが病気になって休めば、もう仕事はなくなります。保険もないそうです。
 
 そこで友に聞きました。中国では労働条件はどこで決まるのか、と。
 先ず中国には労働組合の活動はありません。新聞に発表される組合活動は外資系の会社だけだそうです。公務員労組というのも活動は有りません。それは公務員のほとんどが党員で、彼等は政府の見方だからです。外資系の企業内では党も積極的に賃上げに協力するそうです。
 そこで全ての労働条件・賃金は企業の領導が上から与えます。 
 民間企業の新・増設は最近増えていますが、しかしそこでは労働条件の拒否というものはあり得ないそうです。というのは、潜在失業者でもあり、雇用を探している農民が人口の圧倒的な部分(八割)を占めているからです。会社の労働条件に不服がある労働者がいれば直ぐに交代を探せるわけです。
 しかし基本的な労働条件の法律はあります。それは現在の社会の条件を考えて国家が決めます。
 従って国家が豊かになれば法律も改善されます。
 個々の職場や、個々人の企業に対する無数の交渉の中から人間の権利が生まれていくという考えではなく、社会全体が豊かになれば個人の権利や自由が上から与えられると、こうゆう風に一般に期待されているようです。

 そして実際一九九三年頃から経済の大幅な上昇が起こり、都市に品物が溢れるようになってきました。それは中国の指導者の成果と考えられています。(実際は一九九二年の株式制度誕生による。いわゆる市場経済)その指導の結果、中国人全体の生活が実感として向上してきていると考えられているようです。
 
 中国ではこの指導という言葉がとても大事です。日本では国会議員が議員を辞めれば「普通の人」ですが、ここでは指導者は永久に「領導」です。給料も退職時のまま支給され続きます。(インターネットで日本の新聞を見ました。そしたら週刊誌が、総理大臣が学生時代に売春防止法で逮捕された記事を掲載とか書かれています。こんな発表が中国で有りうるのでしょうか。TV、新聞など全てのメディアは国営の中国で。)
 登小平の晩年のように肩書きが無くなった後も自宅に幹部を呼んで、登小平護衛の警官に幹部の身体検査をさせて会議を主催し、国家を動かすことが出来ます。
 それは彼等幹部、「領導」が立派だからとのことです。
 
 現在でも党の幹部が外国要人と会うとき、中国はマルクス・レーニンの導きで、と挨拶します。
 もう既に、マルクス主義に騙され、中国の社会が混乱したという人達が大勢存在しているのに、この関係はどうなっているのでしょうか。 

 これについて友はマルクス主義も一つの学問であると言います。経済にもいろんな学問があり、それなりの価値を持っていると。
 しかし中国では、これまではマルクス主義だけが絶対的最高の学問でした。学問それ以上で崇拝の対照でした。それに疑問を表示するものは劣等であり、敵であると見なされました。
 マルクス主義が絶対であるということを前提にして二十世紀の社会主義が存在しました。
 もし種々の経済学がそれなりの価値を持つとしたら、マルクス主義は成り立たないかな?と言って、彼は笑っています。
 
 もう一つソ連との比較の話です。中国では良くロシアとの比較がされます。改革を実行した中国はロシアの経済力をずっと引き離し成長しています。ロシアでは内乱が続出し、戦争も有ります。だから中国がすばらしい、と続きます。

 そこでその話を友に聞きました。彼の考えでは、それに疑問を持っていました。彼は言います。彼の友達がロシアに行って見てきたところでは、中国より個人の家は遙かに大きく、彼等の方が近代的な生活スタイルに思えた、とのことです。
 多分これはロシアが歴史的に西洋の影響を早くから受けていたからでしょうか。
 日本の住宅はアジア的と言うのでしょうか、外見は綺麗になってきましたが、内実はとても狭いです。

 又ロシアと中国との間には決定的な違いがあると言います。それは「華僑」です。ソ連が崩壊した後海外からの投資は非常に少なくそれがロシアの経済建て直しを遅らせている大きな原因だと。
 しかし中国には七八年の改革解放以降、世界中の「華僑」が争うように投資をしてきました。その代表がこの深セン市の街づくりです。深セン市は近代化を先走る広東省の一部です。北には福県省が有ります。ここにはタイや台湾から大量の投資がされているそうです。勿論全て大陸出身者です。
 
 私自身も少しロシアについて話を聞いています。昨年はロシアの女学生が同じクラスでした。彼女は自己紹介したとき、帰国後仕事を探すのが大変だと言いました。そこで私も日本は今不況で仕事が少ないと言いました。そしたら彼女は薄笑いを浮かべて「日本の不況とは規模が違うでしょう」と言いました。日本で不況と言ってもそんなのロシアと比べたら不況と言えないと言いました。「私達の国では昔から上の方は何も変わらず、成長がない」と言いました。
 それがどの程度のことなのか、ちょっと今の私には判りません。
 その女学生の目は青色で、まるで人形のような顔をしています。 
 
 そしてその女学生が帰国するとき、送別会を開きました。そしたらロシアの女性二人はすっかり盛装して見違えるようでした。男の方は寮に居る普段着のままでした。
 食事が終わったとき彼女たちは当然のようにこれからダンスに行こうと言いました。出席していたのは日本と韓国の学生でした。彼等は誰も踊れないのです。現在のダンスは若者なら誰でも踊れる簡単なものかと思っていたら、ロシアの女性達の希望の踊りは社交ダンスです。
 ロシアでは十五才になると家庭でダンスを習うそうです。女の子は壁の花(踊りの相手が居ないこと)にならないように女も男も気を使うそうです。そんな習慣は日本には無いですね。日本もそうゆう面はまだ貧しいと言うことでしょうか。

 さて深セン市では中国全体の名所旧跡の建造物を実際の十五分の一に縮小して配列した公園がありそれを見ました。北京の故宮も西安の兵馬俑もあります。私の一番感激したのはチベットの宮殿です。その巨大さと豪華さは是非一度は見たい気にさせます。あのようなすばらしい宮殿が酸素さえ少ない高山の上に建っているのです。
 
 こうして私の夏の旅は終わりました。
 毎日の気温は三十五度以上で、午後出歩くのは、もう死ぬ思いなので、ホテルでテレビを見て中国語の練習に当てました。
 午後のテレビ番組で気が付いたのは、今中国では次第に離婚が増えてきているからでしょう、離婚が子供に如何に深刻な影響を与えるかという家庭ドラマが多かったです。

 私の1年半に渡る中国での生活はこれで幕です。
 再見!中国の人達へ!