六月の杭州
 
 ☆「雨期」

 杭州の六月は最高二九度くらいの気温がづっと続いています。五月末は三四度だったのに、空は連日雨模様で気温はそれほど上がりません。
授業に出席する生徒も次第に減ってきました。ある時は五人だったので老師を囲んで雑談になりました。

 初めは外国人にとって物価がとても安いという話でした。卵が一個〇.五元以下。野菜や果物は一籠一元か二元です。でも牛乳の大箱は高くて六元です。(六月から私も朝食だけ自分で作っています。そのため市場で買い物をします。野菜も肉も卵、果物など何でも買えます)

 街の食堂では、まだメニューが良くわかりませんが、でも麺類か焼飯ならどこでも五元前後です。
 
 何種類か採った場合食べきれず余りますが、それを発泡スチロールの箱に詰めてくれます。部屋にコンロなど加熱用具が有ればこの持ち帰り方式はとても助かります。

 そして話題は先日新聞発表された韓国の統一に移りました。韓国の学生は一人でした。他にインドネシアの学生が居ました。
 誰もこの統一については歓迎の発言です。勿論韓国の生徒は熱烈歓迎です。何しろ統一が軌道に乗れば、南が北の経済を引き上げる約束が発表されていますから、その経済活動は則ちここにいる年代の人達の就職に結びついてきます。韓国の生徒の場合、お婆さん達が直ぐに北の懐かしい家族に会いに行きたいそうです。

 三十才代半ばの老師は韓国の戦後の事件についてはほとんど知りません。戦後の事件については私が一番良く知っていました。何しろ学生達は二五才ですから、生まれて間もない感じです。でも金大中のことについては大体は聞き知っているようです。が韓国政府の数多い謀略については余り知らされていないようです。光州事件は勿論知っています。

 話は飛びますが、この韓国の学生と私は学校が始まって以来同じ机に座り昼食は一緒に食べています。彼の両親は躾は厳格な人のようで、年長の私が箸に手を着けるまで食べないとか、食事後は食器をそろえます。教室を出るときは老師に挨拶をしていきます。勿論(?)日本の生徒にそんな礼儀正しい人は居ないでしょう。
 外国に来ている学生に限って言えば、どこの国も余り変わりはありません。ただ日本人はとても美しいくらい礼儀のある人と、極端に無礼な人とが混ざっています。日本以外で極端に無礼な人はほとんど居ません。その極端に悪い日本人というのは、二十歳以下の若い層です。

 話を戻して韓国の学生ですが、彼が日本に対して、高度の科学技術が発展した国として憧れている面もありますが、同時にやはり日本人についてその侵略の歴史について随分敏感であることも時々の発言から判ります。
 その敏感な韓国人の出席している教室で、日本の学生が南北統一がそんなに簡単に進むとは思えないと語る場面があって、韓国の学生は真剣な顔つきになって聞いていました。

 その日本人の学生は国際問題に関心の強い生徒で、私としては好感の持てる人でしたが、しかしかっての日本のことをほとんど教わっていない感じがします。だから韓国の生徒と一緒の時は、自分の意見を積極的に言う面ではいいことですが、時々ヒヤッとすることもあります。日本の学生は、五十年前の戦争は大昔に思えるそうです。一方で犠牲を受けた方は毎年お爺さんの命日に日本軍の話を聞かされているわけですから、とても昔のことではありません。
 韓国の学生は私に対して過去にこだわってはいけないと言ってくれました。私はこの場合何を言うべきか言葉がなかったです。

 この日本の生徒は、英語と中国語は北京語と広東語とを勉強して、中国で働くつもりだそうです。

 ある老師との話は天安門事件にも及びました。私は一年前の日経新聞で読んだのですが、あの事件の背景は改革解放以降経済が発展して物価が急上昇して大衆の生活を圧迫したので学生が立ち上がったと書いてあったので、その話を老師にしました。でも老師によるとあの頃物価はそんなに急上昇はしていなかったそうです。それよりも学生は幹部の腐敗に怒りを感じたのでしょうとのことでした。
(これも現政権の言葉そのままですね。あの時学生が求めたのは民主化です。当時政権中枢にいて学生の要求に耳を貸そうとした幹部は登小平によって、「腐敗幹部でありゴルフばかりしている」と避難されて追放されています。)

 この老師は、あの時戦車が学生に向かって実弾を撃ったことは知らなかったようです。韓国も日本も現場のビデオを報道しましたから、その話を聞いて老師は目を丸くしていました。十年前のことですから、その老師が就職直後のことです。だから事実を知らないと言うのはちょっとした驚きです。

 又話は飛びますが、その前日にある中国の学生と話すことがあって、天安門事件のことを聞かれました。それで私の知っていることを話したら、学生は「でもあの時もし政府が強制的に制止しなかったらソ連と同じように国が崩壊して内乱が発生して、中国は大変なことになっていたから仕方がなかったのです」と言います。「何しろ中国には十三億の人間が居ますから、その統一がもっとも大事です。その統一は共産党でなければ指導出来ません」と、政府発表そのままの感じで説明してくれました。こう言う学生も居ます。
 「党の言うことは余り聞かない方がいいですよ」、と言う生徒もいます。
 でも全体のために一部を殺すという政治が二十一世紀も続くのでしょうか。

 で話は戻って、老師に言いたいことは何でも言ってくださいという言葉がでると、話は寮のことに移りました。私は以前よりずっと民主的というか開放的に感じていますが、ここしか知らない学生達は学校の事務の老師に随分不満を持っています。中には事務の人から直接賄賂を請求されたそうです。まあ、一般的に言って事務の方から学生の世話をすると言う態度は無いですね。それはここも当然公務員ですから仕方ないように思いますが。他の公務員と比べるとずっと良いです。

 有る旅行社に相談に行ったときなど、受付の返事そのものが怖かったです。
 
 老師との自由な話が終わったとき、偶然でしょうか、どの学生も今日の授業は有意義だったと口に出していました。

 ☆「新聞報道」

 一番生徒の出席の悪いのは「新聞報道」です。教科書全部が政府発表です。それで欧米系の人は最初の一回だけで以降誰も出席しません。
 そこで老師は古新聞から興味の有りそうなものを選んできました。それは建国後の中国の特色を知るのにとても有意義でした。おかげで私は中国に五年くらい住んでいるのと同じくらい中国を理解できました。以降、出席したのは韓国と日本とインドネシアの学生になりました。
 また私が読んでいる地元発行の新聞をある老師が見て、それは余り面白く無いでしょう、と言って他の新聞「南方週末」を紹介してくれました。これは他の老師には出来ないことです。

 ☆「性の話題」

 授業と言えば有る講座で若い人の性が話題になりました。教科書に、中国では九十二年頃から画家がヌードを描くことが許可されるようになり、そこで二人の画家が若い女性を捜してきてモデルを頼む場面が有ります。でもその女性は二人の画家が同時に自分の姿を描くのは気が進まないので一人づつお願いしますと言うところがありました。

 それともう一つの教科書の内容は、有る若い女性が街頭で暴漢に遭い衣服を破られると言う事件が発生しました。それ以降街中の好奇の目が女性を追いかけます。その結果彼女の婚約者が婚約を破棄します。就職先も追い出されます。しかも街に買い物に行くと男達が寄ってきてからかいます。その女性を被害者として当時の中国人は考えなかったのです。
身持ちの悪い女として蔑視しました。年代は書いてありません。八十年代後半でしょうか。
 それらの内容を生徒に読ませて老師が各国の実体を質問してきました。そのときはヨーロッパの女性が五人ほどいました。ドイツの女性は、もし画家でも男の友達でも信頼できればヌードになっても好いと答えていました。
 私の感じでは老師の質問は次第にエスカレートしたように思います。そして結婚前に各国の若い人はどんな関係になるのかと尋ねていました。そして日本の男性が好きなら性的な関係に入っても好いと思うと答えました。
 インドネシアの女性が驚いて「もし子供が出来たらどうするの」と聞いていました。
 この辺になると私自身現在の日本の若者の考えがまるで他国のように感じます。

 ひょっとして今回の授業内容は、中国建国以来最も開放的な場面だったのではないでしょうか。

 ☆「重点校」

 最近の新聞の話題も老師が紹介してくれることもあります。今中国の各都市には「重点校」と言うのがあります。日本で言えば「進学校」に相当します。そこへ入るには正規の授業料以外に「お金」が必要です。今年の相場は四万元だそうです。(夫婦二人の月収の二十倍)この金額の大きさに驚くのか、教育熱に驚くのか、両方に驚くのか。どちらにしてもその基本は「一人っ子」というところにあるのでしょうか。学校は全て国営です。
 だからこの進学競争に勝つために、自分の子供には家庭の料理や雑事の手伝いを一切させないと言う家庭も増えてきました。
 また、このお金の準備ですが、一人の子供に夫婦二人と、それぞれのお爺さんお婆さん、合計六人が協力して一人の子供に投資します。 
 ☆「インドネシアの学生」

 ある時インドネシアの女学生が体育館でピアノを弾いて聞かせてくれました。指の動きがなめらかで、本当に心が洗われる気持ちで聞きました。そのあと四人の学生と共に彼女からインドネシアのことをいろいろ話して貰いました。
 何故彼女がピアノを習ったかというと、彼女の両親は華僑なので、子供には何か技術を身につけさせて将来自立できるようにと言う考えからだそうです。
 三年前の大統領交代の政変の時、彼女たち華僑は暴徒の襲撃を受けて連日恐怖の日だったそうです。たまたま彼女の家は大通りから少し奥に入ったところに在ったので、暴徒は押し寄せてこなかったそうです。しかし窓から見ていると洗濯機やクーラを抱えて逃げていく人達が家の前を行き来していたそうです。また道路の両側では火事になっているのが見えたそうです。
 何故華僑がねらわれるかというと、大陸から渡ってきて以降休み無く働き、かつ確実に預金をしてお金を貯めて行くからだそうで、二・三十年の間に原住民との間に目立った開きが出るそうです。そこで政変等の社会不安が起こると襲撃が始まるのです。

 なお現在インドネシアの平均物価や工賃は中国よりほんの少し高い程度だそうです。中国が月六百元くらい、インドネシアが月千元少し。
 スハルト時代、彼女たちの教科書は、街で聞くことと相反することが数多くあって、教科書が信用できなくて困ったそうです。
 
 私のクラスにはドイツの女学生が居ます。彼女は以前留学したとき中国人と結婚しました。そして二年ほどして分かれました。今回又中国に来た目的はHSKという中国語の国家試験の上級を受けるためです。それで私達の教科書を読むときは辞書が要りません。
 
 ☆「西部開発」

 今テレビは、五月頃から一日に何度も「西部開発」を宣伝しています。
 その基本的な投資は高速道路と鉄道と石油パイプラインです。 
 ”かってアメリカで西部開発が行われました。そして現在のアメリカが有るのです。もしアメリカが西部開発を行わなければ、現在のアメリカは荒野にすぎないでしょう。中国も今十年計画で西部開発を行えば、必ず将来は広大な領土に高度の経済が発達した国家に生まれ変わるのです。”
 これが連日の報道の骨子です。

 又別の報道では、中国は現在の年間成長率七パーセントが二十年は続くと発表しています。それだけの市場があるからと言う理由です。そして二十年後には日本を抜いて、アメリカとECに次ぐ第三の経済大国になる、と予想しています。
 
 ただ六月になって、西部の「荒廃」も連日報道されるようになってきました。それは砂漠化と都市の荒廃と言う言葉で表現されています。水が出なくなり、家の周りが全て砂漠になってしまい、住む人が居なくなった、等です。
 今年は中国東北も九十年ぶりの水不足だそうです。北京では九月から水の使用制限が始まります。
 この砂漠化は毎年一つの省が砂漠化するという早さです。そうすると二十年後には中国は存在するのでしょうか。
 また太平洋側の沿岸で大量の赤潮の発生も時々報道されています。
 この公害は日本の七十年代に相当するのでしょうか。

 ☆「科挙」

 教科書に科挙のことが載っています。中国四千年の歴史の中で、この科挙の試験制度は日本でもいろいろ論じられてきました。 
広大な大陸の中から、封建制という身分制度に関係なく、この科挙によって中国は優秀な人材を身分に関わりなく採用してきたというのがプラスの面からの評価でしょうか。

 ところが実際は隋唐の時代に始まって、以降数百年しても同じ試験の内用であったため、千年以上後の清の時代には実用としては全く役立たない試験問題になっていました。当時実用になった文字さえも変化し、試験に出る文字は役立たなくなっていました。それでもその試験に受かれば高官になれると言うことで少年時代からその合格に人生を捧げ一攫千金を狙った人達が多数存在しました。

 その中の幾つかの例です。

 ある人は家族や親に極貧の生活をもたらしても勉強を続け、人生の終わり頃に合格通知を受け取ります。そしてその知らせを聞いた途端、周囲の祝いの雰囲気の中、気が狂ってしまいます。

 又ある人はやはり老齢まで試験合格を目指し、財産を使い果たし、息抜きに街角の酒場で「付け」で一杯の酒を飲むのを楽しみに生きていきます。たまに持っている知識で簡単な仕事の口がありますが、それも長続きせず、やがて「つけ」も利かなくなり、泥棒を重ねて罰としてむち打ちの刑を受け、足が立たなくなり、その酒場にも姿を見せなくなったという物語。これは映画になっています。

 ついでに文字の話です。日本に伝わった文字は「前漢」時代に造られたものだそうで、従って日本では「漢」字と呼んでいます。この文字と使い方は中国では時代によって変化していきます。しかし日本では変化せずに固定している言葉があるそうです。例えば「馬鹿」と言う熟語です。現在中国ではこの表現は全く姿を消しています。

 ☆「送別会」

 六月も終わりの頃、期末試験も終わり、インドネシアの女学性が送別会を企画してくれました。十人の学生がそれぞれの国の料理を作って参加しました。でも日本の方は私も含めて男三人とも料理が出来なくて、「アサヒビール」を持参しました。韓国の三人の男子学生がそれぞれ料理を作ってきました。中には日本の「巻き寿司」と同じものがありました。勿論名前は違います。この料理は手が掛かるので普通の家庭は一年に四回くらいしか食べないそうです。これらの料理を寮の各階にある簡単な調理場で作ります。
 でも中国料理以外は油が少ないので、私はとっても美味しく食べました。老師は七才の子供を連れて参加です。名前で呼ばず、「宝宝」と呼びます。日本語で言えば「坊や」に相当するのでしょうか。テレビに出演する子供達は全部「宝宝」と呼ばれています。中国は全体が一人っ子なので、どの子の呼び方も同じのようです。

 オーストラリアの高級班の学生も参加しました。欧米の人が高級まで進学するのは、漢字を読まなくてはいけないので数少ないそうです。
 各国の歌も歌いましたが、たまたまでしょうが、日本人数人で歌う歌が無いようで困った結果、「鳩ぽっぽ」を歌いました。「宝宝」が目を丸くして眺めていました。今はグループで歌える歌が少ないような気がしますが如何でしょうか。
 
 ☆「張恵明」

 歌と言えば、台湾人の産地先住民出身の女性歌手「張恵明」がここ中国で大変な人気です。しかし台湾の選挙の時、明進党を応援して、台湾の国歌を歌いました。それが中国政府に知れて、ここ大陸ではコマーシャルからカットされました。でもこれは日本の新聞には発表されていますからご存じでしょう。でもここ中国人は、誰も知りません。
 
 授業も終わり、私は中国人と旅に出ます。南昌と深センです。
七月半ばには帰国します。