一月の大連

☆「南へ旅行」

 十二月末から妻が中国に遊びに来て、二人で南方を見てきました。桂林とアモイと杭州です。
 桂林は冬でも暖かく世界に誇る美形の一つ、アモイは太平洋岸で岸辺に立つと目の前に台湾が位置するところ。(見えないけれど)
 
 アモイの歴史記念館で「除福」の紹介がありました。
 教科書では「除福」は秦の始皇帝に頼まれて不老長寿の薬を探しに日本まで行った事になっています。二千年前のことです。
 ところがここの紹介では彼は始皇帝の刺殺追求を逃れて日本まで逃げ延びたとなっています。
 日本の和歌山県に彼の墓が奉られているそうです。
 
 杭州は三カ所の内一番北ですがそれでも気温は十度以上有りました。そのころの大連はマイナス十度でした。
 十二月三一日に杭州に着いた時は前日までの二十度近い暖かい気温が急に下がって十度に下がり、そのため市の中心にある西湖の周囲は霧が一面に立ちこめていました。
 
 学校は日本の正月のように長い休みがないので、少し休暇を取りました。
 この旅で一番収穫になったことは、どこの土地でも標準語が通じることを知った事でした。
 特に杭州を見て回ったときは、一般の人も標準語を話しているのを確認できて、私には次のような考えが浮かびました。

 それはここまで中国語を学んだ以上もう少し勉強を続けて行こうという考えと、その場所として、大連だけで「中国」を知るには少し見識が狭すぎると考えました。大連の冬の空の下では気管支の弱い私には余り適していないと言うこととが重なって、後半年の学習を杭州にすることにしました。もう半年勉強すればテレビもかなり理解できるのではないかと期待しました。進歩はとても遅いのですが、でも確実に進歩していく自分を知るのはとても嬉しいことです。こんなことが人生の半ばで現れるなんて、本当に一年前までは考えられなかったことです。

 そこで大連に戻ってから互相の学生に手伝って貰って杭州の学校に電話をしました。すると相手の受付の人は「歓迎」の一言です。半年単位の入学の場合は健康診断書も何の書類も要りません。
 学校間の書類のやりとりも無しで、あっけないくらい簡単でした。ビザの申請書は日本へ送ってくれるそうです。 
 一月の半ばには期末試験も終わり、二月半ばまで日本に帰ります。

 大連では昔の日本人街を、子供の頃住んでいた日本人に、つまり今は七十歳を越えた方に、私の妻と一緒に案内して貰いました。その方は現在中国人に日本語を教えています。
 妻の母も子供の頃ここに住んでいました。現在その学校の一部が壊され、建て替えが始まっています。案内してくれた方は中学までここに住んでいたそうです。その方に教わった「アカシアの大連」を帰国したら読むつもりです。

☆「中山広場」

中山広場は市の中心部にあり、土・日曜日には市民の憩いの場となっています。
 日本の正月に突く羽根のようなものを、輪になって足で蹴って遊ぶ方法が大流行です。

その市民の憩いの輪の中に、午後には外国語の輪ができます。英語や日本語の会話を求めて人が集まってきます。英語の輪が一番大きく、次が日本語です。
 九月の末、私がたまたまそこを見学しているとき、一人の大学の老師と知り合いました。四十代後半の人です。その方は日本語は出来ません。名刺を交換してから食事に誘いました。日本式の料理が出るところで、その日は私が支払いました。百五十元。レシートを見てそのA老師は金額が高いのでびっくりしていました。たぶん日本の酒が出されたからでしょう。三時間近く話し合ったのですが、その中身はあまり記憶がありません。ただ随分知識が広く中国の現代史に特に詳しい人でした。文革のことも何でも話題にできる人で気兼ねなく話ができました。そして最後に次のような質問をしてきました。
 今後日本は再び戦争を仕掛けてこないだろうかと。勿論私の返事はその危険性はないと答えました。その理由として、現在の日本は食料からその他全ての材料を世界から輸入しており、平和が欠けたとたん私達は食べていけないと説明しておきました。

 このような質問は一般的に現在の中国人知識人の気持ちを表しているようです。
最近の日本のニュースを中国の新聞で見ている人は多分そのような質問をしたくなるのでしょう。
 それから二ヶ月が過ぎて、そのA 老師から電話があって自宅に遊びに来いと言われました。
 呼ばれたところは広い大学構内で、見渡す限りアパートが続いています。全て老師達の宿舎だそうです。
 そこで四時間ほど食事の世話を受けて話し合いました。
 たまたま奥さんと子供が外出中でした。
出された料理は、十センチほどの平貝と巻き貝とエビと牛肉とキュウリの和え物です。
 A老師は結婚後奥さんの仕事が忙しいので料理を覚えたそうです。どれもとても美味しかったです。自分で買ってきたので一式で五十元以内だそうです。とても全ては食べ切れません。でも中国では食べきれないように準備するのが礼儀だそうです。もし、少ない感じの料理だと客が怒るそうです。
 それ以外に五十四度のお酒も出ました。そして話も弾みました。
 家族の紹介などは置いておいて、その他の部分を箇条書きで紹介しましょう。

 1.日本の若者について。
 現代史を学んでいない青年が多いのに驚いている。先日も有る老師が南京問題を出したら、そんなことは無かったはずだと激しく抗議してきた。それでいろいろな写真を彼に見せてやっと考え直したようだ。
 (ちょうど東史郎日記を読んだ後だったので、日本のことも説明しました。本の中で、郵袋に中国人と手榴弾を詰めて池に放り込んで殺すところが有ります。その部分だけが裁判で争われています。そして昨年日本の裁判所で東史郎が敗訴となりました。その結果本の全体、中国での残虐行為が無かったかのような印象を与えます。でも全体は行軍日記で行軍途中の住民への残虐行為が頻繁にでてきます。侵略された中国人が怒り無しに読めるものではありません。)

 また授業の態度がとても悪い生徒が居る。授業中、挨拶無しに教室を出入りし、ドアをばたんと閉める。
 (これは私も認めます。私の知る限り韓国の学生も黙って出入りします。アメリカ人もほぼ同じですが、リンゴをかじりながらにこにこして入ってくる人もいます。
 それで後で日本の若い学生に確かめました。現在日本でもこのようなのかと。
 学生の答えは、いやそんなことはない。失礼と思う。しかしひょっとして、現在の中学や高校で始まったかも知れない、と言うことでした。)

 1.中国がW T Oに加入後二年ほどは経済が後退するかも知れないが、その後急速に成長する。ただ高度成長は公害を極端に残すので、出来れば現在の七パーセント程度が望ましい。
 一九九五年頃連続して三年間十六パーセントの高度成長があり、街にはビルがどんどん建ち、そして公害が中国全土に広がった。 

 1.中国の民主化について。
 現在選挙制度を作ってもあまり意義はない。人口の八割の農民が居てほとんどが文字を書けないので選挙の意味がない。
 西洋や日本には中産階級が大きな部分を占めていて、学もある程度あり、独自で考える習慣が出来ている。しかし中国ではまだまだ無理がある。中産階級が育っていない。
 改革解放以降は農民の極貧は無くなっている。

 1.中国の経済について
四十九年の建国から五十九年の大躍進の前までは、党の中身が善良であった。それで比較的に経済は上手く行っていた。しかし大躍進の結果四千万人が死亡してからは、生活は極端に貧しくなった。その影響が都市に出たのは六十三年で、毎日食べるものが無く、子供達は顔や身体に水膨れが現れ、指で押さえるとへこんだままであった。
 このような大衆の生活は毛も周恩来さえ知らなかったと思う。

 1.毛沢東の役割について
 彼は農民出身で、中学しか出ておらず、後は独学の人である。経済は全く無知であった。国家政策とか社会全体の建設については何の知識・能力もなかった。
 当時はイラクのフセインと同じで党の民主的運営は無かった。党の幹部会で決定した後継者の林彪や劉小奇を文革が始まると直ぐたたき潰した。
 現在六十歳以上の人はまだ毛を尊敬している。しかし五十代・四十代は尊敬していない。
 しかし最近は富める者と貧しい者との差が広がり、二十代の若者の中に昔が好かったのではないかという者が出てきている。

 1.計画経済と社会主義について
 日本でも社会主義を信じた人が大勢いたことは知っている。計画経済が悪かったという意見が有るのも知っている。しかし二つは共に関係していて、国家権力を使って上から人々に民主主義と物質を供給しようとした。しかし誰が権力者になっても、例えば誰かに住宅を供給するとき、賄賂を出す人を優先するのではないだろうか。
 (そのことはソ連でもポーランドでも八十年代から映画などで報道されてきました)
 
 此処まで聞いて私は尋ねました。
 現在学問として社会主義を研究する人は激減しましたが、しかし、原点の「社会主義的な」多数が共働して幸福を追求する考え、これは今後どんな言葉で表現されるか解りませんが、その研究自体は必要なことです。その研究資料として、これまでの中国の実体を書き残すことは考えていませんか?と。

 「それは出来ない。もし中国人がそれを書いたら、明日から職場が無くなる。
 外国人が中国人から聞いて外国で発表すれば問題はない」

 1.子供の世話について
 老師の子供も外国で勉強させたいと言う話になりました。でもそのためには大変なお金が必要です。でも中国では子供の将来について、結婚してからも当分金銭的な援助が必要と誰もが考えている。
 その点西洋や米国では二十歳で子供が完全に独立するところが、中国とは違うと言いました。
 日本は西洋と中国との中間でしょうか、、、、、。

 以上のようなことを話し合ったわけですが、でもこれだけ打ち解けて話してもらえるとは実は考えても居ませんでした。
 
 最後にA老師は私に中国で生活するように熱心に進めました。ビザは学生になればよい。生活費は月二千元(三万円以下)で十分である。部屋は月八百元(一万円ほど)。浴室は外部ですが、五元。垢こすりと按摩をしてもらっても十五元ほど。物価は安い。
 是非夫婦揃って来てくれとのことでした。
 
☆「最近の新聞から」

 新年に入って二つの似たような事件が発生しました。両方ともスーパーでの出来事です。

 一つは新期開点の店でお腹の大きな女性が商品を誤魔化したと疑われました。そして奥へ連れて行かれて、証拠もないまま右手の指四本を包丁で切り落とされました。救急車で病院に運ばれて命は助かったのですが、警察の関与するところとなって、弁護士の立ち会いの元に二十万元の弁償金が払われました。

 新聞ではスーパーの経営者が「本当の被害者は私の方だ」と主張しています。というのはこのことが新聞に載ってから、お客がこなくなったのです。

 もう一つも似たような事件です。

 一人の男性がスーパーで買い物をし、レジの所まで来て、財布を買い足そうとして袋をそのままにして、又戻って二階に行きました。それを見た警備の人が商品を盗んだと言って、四人で囲んで床に押し倒し消化器で頭を殴って血だるまになりました。この人も命は助かりましたが、脳の骨が骨折していました。

昨年の四月に大きな本屋ができましたが、そこの一ヵ月の本の盗難が千冊前後とかで、どの商店にも盗難防止の店員が大勢います。このような世情が背景にあるのでしょうか。

☆「老師のアルバイト」

 十二月から街の学校で日本語のアルバイトをしていました。一月の軒末試験が終わるとすぐに日本人を初め外国人は旅行や自国に遠出を始めます。これから二月の半ばまで中国は正月を迎えます。その間学校は生徒数が激減して、食堂は営業を続けますが部屋が小さくなります。学校周辺の学生相手の食堂もひっそりするでしょう。私のアルバイトを紹介してくれた人も南方へ出かけることになって、変わりに数回分授業を受け持つことになりました。中国人のクラスは一週間ほど終了が遅かったのです。
 そのことを一人の互相の学生に話したら、彼女がそのクラスで学んでいることが解りました。そのクラスは初級で、昨年の九月に始まったものです。それなのに彼女は簡単な日本語を理解できます。彼女は最後の日、私を百貨店に在る食堂に招待してくれました。妻が来たとき一緒に彼女にプレゼントしたお返しでしょう。
 彼女の両親は先日まで働いていたそうですが、今の大量解雇の時勢の中で進んで退職したそうです。五十才少し。だから今年の春彼女が日本へ六年間行くとすると父親に大変な負担が掛かります。
 彼女の計画では日本への持参金は約百万円でこれで六年間の生活と授業料を全部まかなう予定です。勿論日本で働くことを前提にしています。
 
 私が担当した日本語の授業は教科書があるので日本人ならそんなに難しいことではありません。ただし相手が初級となると説明にちょっと緊張します。
 互相の時は一対一なので教科書の一部分を変化させながら繰り返し繰り返し日本語を話せば相手は着いてきてくれます。でも授業では生徒が二十人近くいるので繰り返しが出来ません。学校の授業というのは自習が要るというのが納得できます。
 
 正規というか中国人学校で日本語を教えている先生達はその道の専門家で、半数は日本の文部省経由のようです。一回の契約が二年で、延長は出来るそうです。今中国全土で日本から教えに来ている先生達がかなりの数に上るのではないでしょうか。その方達は日本語しか話せないわけで、学校によっては日本人一人しか居ないところもあり、買い物や食事さえ土曜日曜は一人ですることになり、好きでないと出来ない仕事です。普通は定年後の方が多いようですが、しかしたまたま私が知り合った先生は三十代半ばでした。その方は放課後生徒に中国語を教えて貰っていましたが、しかし孤独で困難な道です。
  
 一月に入ると大連は気温が十度以下になります。道ばたの水たまりが氷ると水全体が凍って、うっかりその上に乗るとつるりと滑りとても危険です。学校の側にある「児童公園」池(昔の名は鏡池)も凍ってスケートをしています。
 外を歩くときは手袋も二重になっていないと冷たさを防げません。従ってどうしても散歩がおっくうになります。
 一年間学んだこの学校と街ともお別れです。今度何時来られるでしょうか。
 再見!

以下は帰国後見つけた書籍二冊の紹介

☆「毛沢東秘録(上・下)」
産経新聞社 毛沢東秘録取材班

 一九六六年から七六年にかけて起こった中国文化大革命のその実体を描いたもの。
 それぞれの記事は最近発表された文献を元に構成され、その出典を各章に記している。 大半の資料は中国で一九九八年に発表されたもので、発表後すぐにこれだけの史実記にまとめている。
 その構成は前後があるが、一九五六年にフルフシチョフがスターリン批判を開始したのを知った毛沢東が、中国でもいつか自分に批判が来るかも知れないと予感して危機意識を抱いたのが始まりとなっている。

 毛沢東は一五年で共産主義社会を築こうとして大躍進政策を実行し、それがもとで中国全体で経済・生産が極度に低下し、農民が至るところで飢え死にして、党内に批判が起こるのが文革の始まりである。

最初の犠牲者は彭徳懐元帥で、次が国家主席の劉小奇。彼は文革が始まるとすぐに追放となって牢獄死。
 毛沢東自身が決めた次期党主席の林彪は中国から国外への逃亡途中の墜落死。
 文革末期の矛先は周恩来だが、彼は四人組の批判運動の中で七六年一月病死。

 この間、登小平が何度も追放されながら復帰している。
 最後は妻の紅青以下の四人組が毛沢東死後、文革の責任者という形で逮捕されて、世界を驚愕させた十年は幕を下ろす。

 この十年間に中国全土で武闘が行われ、その被害は現在でも累々と残っている。しかし
名誉回復は行われても、被害の補償は無く、中国社会の発展にとっても莫大な損害を与えた歴史であった。
 毛沢東や四人組と被害者の表面上の争点はいつも「共産主義社会」を先に目指すか現実重視かで、日本でも文革の初めの頃はその意図に共感を抱いた人が多かった理由であろうか。

☆「大地の子」と私 山崎豊子 文芸春秋
 
 「大地の子」を書く上での苦労話。
 現地の取材をするため胡耀鵬主席に面会した場面が前後二回。未解放の農家にホームステイした体験談があり、主人公「陸」のモデルとなった人の面接の場面。
 胡耀鵬の葬儀出席の場面と墓前参加の場面。
 新日本製鐵と社長の協力。現地中国側の鉄鋼公司の話。
 その他その他どこも実に感動的な記録です。私の場合全編涙でした。