五月の大連
 
 ☆「どんどん上がる気温」
 
 三月初めの気温がマイナス十度くらいでしょうか、それから毎月気温はどんどんという勢いで上がっています。いまは平均二十度くらいで八月には四十度近くなるそうですから今が一番好い気節でしょうか。
 このように気温が上昇を続けるというのが大陸性気候と言うそうです。多分小学校か中学校で習ったのでしょうが、今その意味を実感しています。日本のように海に接する部分が多いと気温の変化が比較的に少ないと言うことでしょう。もっと遙かに北のハルピンでは冬はマイナス四十度になるとか。そして夏はプラス四十度になります。

 学校では正規の授業以外に太極拳を習っています。初めの頃は生徒が三十人ほど居ましたが、集団風邪が流行るとそれに連れて大量の脱落者が生じ、現在は十人以下になってきました。気温の変化が激しく若い人も含めて集団風邪が流行ります。
 私達が習っている太極拳は一番簡単なもので一式で四分間です。それを汗をかきかき一時間練習します。不思議なことに三分に早めてやると全く汗を掻きません。遅いほど汗を掻くそうです。

 中国語の勉強について言うと、普通私達外国人の学生の授業は午前中だけです。午後は三人から七人くらいの「互相」の学生と約束して、毎日その内の一人と一対一で勉強をします。一回に二時間くらい。四人以上互相がいれば一日に二人、時間をずらして勉強することも必要になってきます。私達外国人側がそのように大勢の互相学生を持っていても、中国人側では互相の相手を持てない学生の方が多いそうです。私達外国人は二百五十人、中国人の外国語学生は約六千人いますから。

 日本語課の学生は四年生から日本語の古文も習うそうです。大連には日本人学生の中に高齢者が多いので、そう言う場合互相の相手として好まれるのではないでしょうか。
 高齢者の中には七十才を越えた人も居ます。二十才くらいの学生と教室への階段を上るのに一階づつ休憩して、煙草を一本吸って登る人も居ます。
 四十才台で未だ元気いっぱいの人がいて、彼は十人もの「互相」の相手を持っています。その理由は、将来中国内での商取引にこの人間関係が役立つかも知れないと言う意見です。勿論こんなに多くの互相を持つと自分の予習時間はありません。

 毎日午後の一時頃には外国人寮の門前は若い中国の学生達で一杯になります。
 そして寮から出てきた外国人と二人か三人が一緒になって教室へ勉強に行きます。現在中国の女学生は大勢の人が高い靴底のサンダルを履いています。でも服装や外見からだけでは東洋人の場合見分けはつけられません。

 外国語の勉強の場合、この互相というのは大変有効だと思います。学校での老師の話を聞くだけでは語学というのは余り身に付かないのではないでしょうか。それが互相の学生相手に一対一で向かっていれば、中国語でものを考え話す努力を懸命になってやります。
 
 ☆「私自身の治療の経験」

 五月の連休の後風邪を引いてこれが長引きました。微熱が下がらず心配になって学校の近くの町医者に行きましたが、栄養剤の点滴だけで熱が下がりません。それで日本語の通じる医者という案内書を見て近くの病院に行きました。そこでは日本語を理解できる医者が診察からレントゲンの場所への移動、血液検査、そして費用の計算まですべてその医者が付き添ってきてくれました。本当に助かったという気がしました。費用は百七十元でした。
 そして三日後には全快しました。
このことを学校の学生達に紹介しておきました。
 ただ一つ気になるのは胸のレントゲンの時、前から撮ったり横から撮ったりしますが一度も呼吸を止める必要が無いのです。身体を乗せた機械が連続して動き続けるのですが、これが新しい方式なのでしょうか。この間放射線はどうなっているのでしょうか。
 血液検査の時の注射針ですが、これは新しいのを使っていました。

 ☆「コソボ問題」

 この言葉が新聞に載るようになったのは三月からだと思いますが、しかし私はこの名前の土地がユーゴのどこにあるのか解らず、新聞を理解するのに大変苦労しました。(中国の新聞には地図が載りません)
 中国語では外国の人名と地名も漢字で表します。この名前が長いときは途中で省略と言うこともあり、どこまでが固有名詞でどこから本文なのか、それさえ解らないことがあります。日本では外国語を表す場合長い名詞でも最後までカタカナで表現しますね。だからカタカナが有ればそれが固有名詞だと言うことが直ぐ分かりとても便利ですね。
 
 とにかく米国が中国大使館を誤爆して犠牲者が出てから、ここ中国でも騒ぎが大きくなりました。中国の多くの都市で米国に対する抗議行動が起こっているようです。どの新聞も毎日見出しの大文字が全て同じになりました。そして私達外国人の寮の前の石塀にも大きな横幕が貼られ、そこに書かれた文字も新聞と同じになりました。「米国主導によるNATO軍により、我が中国人が殺された。この中国人の奮闘は我々の誇りである」

 毎日の新聞は事実の報道よりも、政府や党の談話発表という形を取っているので、何が起こっているのか良くわかりません。
 ここの中国の学生達の一部は市内へデモに出かけたようです。普段学校には学生の自主的な活動は全くないのに、デモが直ぐに組織されると言うのは不思議です。
 この頃私はEメールを使っていますが、日本の新聞をほとんど覗かなかったのです。それは学内ではインターネットにつなげないため、接続業者の事務所まで出かけていたのでゆっくりとホームページを見る時間がなかったのです。(来月から個室に電話が付くそうです)
 この垂れ幕が貼られる頃に日本大使館から一年以上滞在する日本人に対し注意書が来ました。
 後で聞くと、南の方の都市でこの垂れ幕に日本人学生がサッカーのボールを蹴り当てて、中国人の学生の反感を買って、寮に大勢の中国人学生が押し掛けたそうです。それで中国人学生の反感を買うようなことはしないようにとの注意です。
 そのほかアメリカ人に似た顔の人は街を出歩くのを差し控えるように、と言う通達が欧米の人達にそれぞれの大使館から出たようです。
 北京ではアメリカの学生が全て帰国するという噂も聞かれました。同時に私達のクラスでもアメリカ人の出席が無くなりました。
 一方でユーゴやコソボについて全く関心のない学生も大勢います。
 私が習っている授業の中で一人だけ社会問題を話題にする先生がいて、コソボについて話してくれました。その老師の意見は今回の攻撃は誤爆ではなくて、アメリカの故意の攻撃だと言っています。

 ☆「学校以外との接触」

 学校の門を出たところには、学生相手をねらった食堂が並んでいます。特に夕食は学校の食堂はほとんどの学生が利用せず外へ行くか自炊です。それは学内の食堂が昼の残りだけを夕食に並べるからです。

 以下は学校の外で食事をしたときの話。
食堂の亭主は弟を日本のパソコンの学校に半年留学させようとしています。
 今までも日本の食事を作ったりして少し日本語が話せます。
 たまたま店には他に客が居なくて私と一時間以上話をしました。
 先ず留学ビザを取るために一万元の賄賂がいります。これを「好処銭」と言います。「紅包」とも言います。これを公務員に払います。
一万元と言えば約二年分の年収です。ちょっと賄賂にしては大きすぎる金額です。
 でもこれは大陸全部共通だそうです。それでとてもビザを取れない人が出てきます。そこで密入国となります。昨年の夏に密入国して、船上でドラム缶に隠れて、暑さのために確か二十人以上が亡くなった事件がありました。
 話し相手の店主は当然怒りをあらわにして私に話します。でも、ここ中国は四千年の歴史がこうなんだよと、自分自身怒ったり諦めたりの連続でした。
 そして公務員はこれで麻雀をします。勝った人が貰います。
 現在私達が互相互学といって、毎日勉強をしあっている大学生達の何人かがが毎年公務員になっていきます。現在は人の弱みにつけ込むような態度はないように見えますが、彼らが公務員になると直ぐにこの四千年の習慣に馴染むそうです。
 でもこんなに大きな金額では国全体の経済の発展にまで影響してくるのではないでしょうか。「当然だ」と店主は言います。
 
 今国営企業の多くが倒産事件を続出していますが、その原因は売り上げを見せかけ上で増やすため、企業同士で商品をたらい回しにしているそうです。国営なので企業成績を北京に良く見せることが第一なのです。そうして倒産です。街には失業して新聞や煙草売りをやっている大人が沢山居ます。でもその売り上げたるや微々たる物だと、店主は言っています。東南アジアでは新聞立売りの子供が大勢居ますが、ここ中国では大人が売っています。
 で、国家のあらゆる組織の上に立つとされる共産党はこのことをどう考えているのでしょうか。
 「何言って居るんだ」とばかり、店主は説明を続けます。公務員の八十パーセントは党員なのだと。
 では人民大会に出席するする人達は?
「彼らが賄賂を貰っていないなんて誰も信じていないよ!」とますます怒りは強まります。
 そこで店主は現在八歳の子供に今から金を貯めて大きくなったら日本の学校にやると言います。

 このことは私の学習相手の学生達に確かめました。全部本当だそうです。そして彼ら学生は日本と英国の学校に行きます。
 
 先日私は彼らの海外行きに対して、日本の景気は良くなっても横滑りで、それに比べ中国は七パーセントで成長しており、十年たてばかなり経済規模が大きくなって皆さんの活躍の場も広がるから国内で就業したらどうかと言いました。この話を繰り返すと彼らは、二十歳の若さですが、とにかく外国を見てみたいらしいのです。
 学生達は就職に当たって中国の経済成長にほとんど期待していないようです。でも実際一九九三年からの四年間は成長率が二十パーセント前後の高率を示していたのですが。
こんな話をすると、どこかで聞いたのでしょうか、中国に関する他の話を聞いてきます。自分の国で起こったことを外国人の私に聞いてくるのです。「天安門事件を知っていますか」とか。いちおう、あの頃テレビで見た通りのことを話しておきました。
 
 ☆「物価」 

 今月はここの物価を紹介しましょう。日本円に直すときは十五倍してください。
ビールが一.六元(学校の食堂では三元)、水が三元(同じ大きさの瓶で)。
 住宅街の公衆便所が0.二元、公園の便所が0.五元。新聞が約一元。
 バスが一元。市電も一元。タクシーは初乗り八元。
 朝、外食すると三元ほど。これはお粥や肉まんと野菜と牛乳を含みます。
 学校の寮を出て、自炊している人の場合、食事代は一日で十元ほどだそうです。
 夕食も外ですると一食十元ほど。ただし、学校の近くには私達外人目当ての食堂が並んでいます。特に日本人向けの店だと少し高く二十元前後。
 繁華街では日本人向けの店はやはり高く、一食五十元ほどします。ビールが二十元です。

 先日、七五歳の人がしばらく滞在しました。かってここで学んだ人です。送別会を当人の希望で繁華街のカラオケ店でしました。高齢者ばかり六人で行きました。
 ウイスキーのキープが五百元、それ以外に一人百元でした。店主の言葉では大負けしているとのことでした。年寄り達は軍歌なんかも歌っていましたから、まあ、罰金も含めているのでしょうか。べらぼうな金額に思えますが。

 ☆「クリントン夫人もびっくり」

 九八年の八月アメリカのクリントン大統領が北京に来たとき、中国の首脳とWTO加盟が中心議題となりました。これからいよいよ欧米諸国との貿易や経済的な取引を始めるための交渉です。昼間両国トップが話し合っている間、クリントン及び米国首脳の婦人達は街に出て買い物をしました。勿論高級な、すなわち国営の外国人専用のショップに案内されたのでしょう。そこへは各国カメラマンも大挙同行しました。そして買い物をして代金を払いそのお釣りをもらうとき、カメラが待ちかまえている目の前で、店員が(収銀台といいます)お釣りを遠くから不作法に放り投げて向こうへ立ち去ったのです。これは現在でもよく見られる風景です。
 しかしこの映像が直ちに全世界に流されたわけです。そしてもし中国がWTOに加盟した後、中国との取引において相互の信頼に基づいた取引ができるのか、欧米の人たちに驚きに近い注意を喚起したそうです。

中国の食堂に入ってビールを注文したとします。するとビールの瓶だけが運ばれてきます。次に栓抜きを頼みます。すると女店員(勿論かっては全部国家公務員で国家から分配された人)は栓抜きだけを持ってきます。そして次にコップを頼みます。するとコップが運ばれてやっとビールが飲めるようになります。 
 これらは別に店員が悪戯をしているわけではありません。実に可愛いい若い親切な店員でも同じです。このようなことは現在街の小さな飲食店でもみられます。
 百貨店で買い物をしたとき、携帯ラジオを買うとします。お金の支払いはクリントンの奥さんと同じく無愛想で不親切ですが、ラジオを包む袋を要求すると、店員が腰に手を当ててお客を怒鳴りつけます。そんなことは必要ないと言って。
 たぶん店員は威張っているのではないのかもしれません。しかし店員は国家から分配された人、こちらはただの買い物客です。身分が違うのでしょうか。
 ただ最近は外国人の客も考慮した商店などが増えてきているので、そこでは日本と同じような店員教育がなされていて、買い物客と対等な話ができる所が増えています。それらは勿論私営企業だそうです。
 私たちからみればきわめて不親切な態度について、日本に四年滞在したことのある中年の人に聞く機会がありました。中国ではこれは礼儀に反しないのかと。彼の答えは次のようでした。
 大昔(もう百五十年も昔のことだそうです)マルクスという人が社会主義というものを空想したとき、そこではサービスは必要では無くなると考えました。サービスとは支配する者とされる者との関係であり、上下の関係であると。そのことを中国の学校では「重要なことと、些細なこととを区別しよう」という言葉で教えているそうです。

 でもその人も、これまでの職場や商店での客に対する態度が無礼だという感じは外国へ出て初めてわかったとのことでした。
 もう一人日本へ行ったことのある中年の男性はこう言います。
 一九九〇年頃までは買い物をしてもその商品はすぐに壊れ、その修繕をしてもらいにいくと店員に強烈に怒鳴られたものだと。
 しかし市場経済が進んで、九五年頃から洗濯機やテレビなども壊れなくなってきたそうです。そして今では中国製品を安いから買う時代になってきたとのことです。

 ☆「上海に行って来ました」

 ある中国人の紹介で、上海で日本語を教えている人に会いに行きまし(中国では大学を出た人間が、しかも日本へ行った経験者が学校に勤めるというと、ほかにもっとましな職業があるはずだと言います。それほど学校職員の収入は良くないそうです)
 でもここは街の予算が豊富なので千二百元の月収です。彼は日本語を教えているので、日本人が来ると学生を選んで一緒に街を案内してくれます。その日は一年生の日本語課の女性二人と一緒でした。上海では日本人で中国語を勉強している学生が少なくて互相の相手がいないそうです。

 この女学性はもう既に日本語がかなり出来ます。私のいる学校の中国人と比べると少し上達が早い気がします。
 
 彼も奥さんがいる別の街の学校に就職したのですが直ぐに突然解雇されたそうです。
「この人」も賄賂を使わないから!?
 学校の説明では生徒の意見に従って解雇したそうです。で、彼が生徒に聞いたところ誰も知らないと言うそうです。

 私が台湾に行ったことがあるというと、そのことに大変興味を示しました。十年くらい前までは台湾は経済的に貧しくて独立など出来ない小さな島だと学校の教科書にも書かれていたそうです。しかし現在では台湾の方が経済的にも民主化の方面でもずっと進んでいることはほとんどの中国人が知っています。台湾では高校進学は全員のことや、選挙制度や政党活動の自由など。台湾企業が彼のいる街にも進出しています。
 私が読んだ将経国のことも思い切り話したくて話題にしたら、経国がソビエトで共産党員でいたことなども知っていました。
当時モスクワで中国人の地区指導員ににらまれて、危うくシベリア送りになって命を落としそうになったことなどまで、知っていました。
 ついでに書いておきますが、経国はモスクワ郊外の農村に回されます。そこで織工の娘と結婚します。その人は今も台北にいます。
 
 もう一つついでに、彼の話。
 当時国際共産党の大会がモスクワであって、各国から参加者が集まったそうです。そして日本から参加した数人は会議の後などで誰も歌や踊りやその他の一芸を持っていて、当時の日本の教育のすばらしさに関心したと、中国の責任者が書いているそうです。
 そんなに日本人て、皆さん仕事以外に一芸を持っていたのでしょうか。

 なお台湾で行われた総統選挙は中国の四千年と言われる歴史の中で初めてだそうです。
そしてその刺激がここ大陸に少なからず影響を与えていると彼は話しています。

 現在は大連でも上海でも外人が(自由に)部屋を借りられます。ただその時安全のため周囲の人と話をしないでくれと言われます。 昨年の八月に北京で聞いたら一ヶ月五十万円以上の部屋でないと外人は部屋を借りられないと聞いていたので、いつ法律が変わったのか聞きました。答えは簡単でした。「法律なんか無いよ」でした。この法律が無いという話はこれからも頻繁に出てきます。法律がないので後は公安(警察のこと)にお金を包みます。部屋の場合、持ち主がお金を包んでいるようです。

 彼が以前働いていた職場のことも教えてくれました。
 未だ市場経済が始まる前なので(社会主義的計画経済)製造関係で働く工場では全て北京に有る計画委員会の指示の通り、売れるかどうかに関係なく、材料の配給も指示されて生産します。そしてそれを売る方の公司では計画委員会から回されてくる商品を命令どうり売らなければなりません。しかし質も悪く大衆の好みと関係無く作られてくるのでなかなか売れなかったそうです。かといって買った客に対しては強気一方で、客が商品に不満が有れば国家に言ってくれとばかり強気でいたそうです。

 ☆「互相の相手が増えました」

 ある人の紹介で小学生と互相互学を始めることになりました。その女の子は一年生です。私は彼女にピアノを教えます。彼女は私に小学校の教科書を読ませて発音をなおします。 私は三十五才から十年間、私の娘が小学校に進学してから一緒にピアノを習いました。
 だからピアノが専門ではありません。でも相手がピアノの入門なのでまあ大丈夫でしょう。勿論その子は私以外にピアノの専門家に習っています。だから私は補助教員です。中国には未だピアノ教室がないので、全て個人教授だそうです。その練習量は私が習った頃と比べると遙かに多く、中国ではやる以上かなり厳しい道であると感じました。

 その子が私に中国語を教えるとき、私の中国語の発音は未だ中途半端なのでしょう、その子は間違った発音をすると、私の唇に両手を当ててへし曲げるようにして矯正します。
 側でみているお母さんがあわてて叱っています。
 初めの頃はその子と二人きりでピアノの練習になると、いたずらばかりしてなかなかピアノを弾こうとしません。勿論一人っ子なので少しわがままなのでしょうか。
 
 ピアノについて、少し余談になりますが。

 学校の近くに喫茶店があります。そこはコーヒーが十元以上なので余り客はいません。
 しかしピアノがあって、その店主が音楽家で、半年前は毎週金曜日の夕方演奏会があったそうです。
 ここを紹介してくれたのは私と同じ学校の学生です。でも六十を幾つか越えた方です。
 その方は戦前ここ大連で少年時代を過ごしました。そこでこの土地が故郷のような感じで、定年を待って勉強に来ました。日本には奥さんがいます。でもここに腰を落ち着けて住むつもりらしく、五月末のある朝食のとき「ええい、今年は勉強はこれまで。また一から出直しだ」ともらしました。どういう意味かというと、七月の期末まで授業には出席しないと言う意味です。

 その方の本当のやりがいはこの中国に野球を広めることです。そのため学校の近くの小学校に野球部を作って教えに行っています。

 その人は又ハーモニカがとても達者で、その喫茶店で夕食後時々演奏します。驚いたのはその人は楽譜が読めないのに一度聴いた曲は直ぐに覚えて吹けるそうです。しかも中国にとけ込むことが大事だと言って、中国の歌を何時も吹くようにしていました。「懐かしの大連」と言う歌も自作しました。時々夕食の客で賑わうことがあって、しかもその客が二人の演奏に歌声で参加したりして、なかなか盛り上がったこともあります。それは昔流行ったロシア民謡だったと思います。ハーモニカの場合曲によっては吸ってばかりの部分があって大変苦しいそうです。普段でも赤い顔を真っ赤にして吹いていました。
 店主の専門はバイオリンで、ピアノも弾けて二人の合奏も好く聴きました。
 
 店には暖冷房が働いているので、よく読書の時間に利用しました。
 そして店主の紹介で中国の有名な歌集を買いました。買うときは書店まで付いてきてくれました。でもこの頃私の中国語は余りその方には通じなかったようで、ああ、まだまだだなあと言う気持ちでした。
 買った歌集の中で私の好きな曲が十曲ほど有り、特に「花よ、おまえは何故紅い」が特別気に入りました。