四月の大連

 ☆「互相の紹介」

 三月に知りあった若者と週に一度か二度、食事をしたり、お茶を飲みながら言葉の勉強を続けています。彼はハオと言います。彼に頼んで、月初めに市内観光をしました。
 市内には、文革で破壊されてお寺がないので、金州の朝陽寺まで汽車に乗って連れてもらったこともあります。大連から乗車時間四五分ほどの所です。日本でいえば隣の県になるほどの距離です。山の中にお寺があって、それは一見して中国風で、竜が山の裾野を這うような構造物もありました。入り口には「一九九三年大連市建造」と書いてありました。
 日本で、もし公金を使ってお寺を建てたら他の宗教団体からクレームが出るでしょう。「中国では信教の自由がないの」と彼に尋ねたら、政府の資金の使い道について私達は考えたこともないとの答えでした。

 この国では選挙はまだ一度も行われていません。この国の歴史始まって以来四千年の間。 中国には議会がありません。従って公金の使い道について大衆は議論の方法が有りません。

 彼は二八歳です。四月六日月曜日ハオさんは首都審陽に行きました。十七年ぶりに父が下獄出来る日だったのです。四日後の金曜日の夜親戚の人達が集まって父を交えて将来について相談をしました。
 
 彼の父は、文革の最中の頃知識青年は「上山下郷」(日本語訳では知識青年は農村に行くと訳されています)運動が始まり父も遠くの農村に出かけました。
 農村で父は土地の娘と結婚し二人の男の子を育てました。その上の子がハオさんです。
 父が腕に紅衛兵と言う赤い布を巻いていたことをハオさんは覚えています。
 この「上山下郷」運動は、農村では建国直後生産高が倍増していましたが、すでに計画経済が始まって十五年以上たっており、都市における工業・産業関係の生産が全く向上しないため、若い人たちの職場を確保できないためでした。青年を都会から農村へ回すしかなかったのです。毛沢東は一九五九年の大躍進政策で四千万を越す農民が死んだ責任をとって、(当時は餓死者は一千万程度と見られていた)党の機関で最高の地位を譲ることに同意しました。しかしその決定を守らず地位を譲らないための権力闘争が文革運動だったと言われています。
 
 この大躍進政策の下で四千万を越す農民が亡くなったことは一九九三年の六月に中国政府が公表し、日本では報道されましたが、しかしこのことを彼は勿論中国国内では誰も知らないそうです。ハオさんの言葉では、もし農民がそのことを知ったらまた革命が二度ほど起こるだろうと感想を述べています。現在はスポーツ新聞も発行されて居ますが、しかしすべて党の管理下に有ります。

 さて彼の父の話に戻ります。農村の食事は貧しい物でした。キビと漬け物とネギと塩だけが食事でした。一九七八年毛沢東が亡くなり、文革は終焉しました。
 一九八二年になり、農村での生活が十年経ったとき、条件によっては都市へ帰ることが許されました。
 父は農村の娘と結婚したため都会へ戻ることは原則的にはできません。(現在も農民は転居の自由がありません)
 
 個人の意志で転居することは国民計画経済局の仕事が成り立たないことと、もし都会へ出る自由を与えれば十一億の農民が一億余の都会へ出て中国自体が破壊されるとのことです。
 この国民経済局は八九年に日本の通産省の様な組織に変わり国家が上から全てを指示することは原則的には無くなりました。(市場経済)
 でも元の街が人口が減っていたことと、お爺さんが党の高級幹部でもあり許されて大連の近くの街に戻りました。
 しかしそこで事件が起こりました。隣の人と大喧嘩をして怪我をさせそれが元で隣人は亡くなりました。その喧嘩の元と言えば酒の上でのもつれでした。
 彼の父は農村に居た頃、毎日何の楽しみもなく、しかも生活が苦しくて夜には酒を飲んでいました。それはアルコールのとてもきつい酒で五十度を越すものでした。それは酒をたしなむという程度を越えた飲み方でした。
 こうして父は審陽の刑務所に十七年入ることになったのです。

 しかもこの刑務所も地元の有力者や党の幹部と結びつきがあってお酒の届けが大量にあり囚人の父にも回ってきたのです。つまり父の酒浸りの生活はあまり変わっていなかったのです。
 金曜日の夜親戚が集まった席で父は農村の生活も苦しいものだったけれど、刑務所の生活はもっともっと苦しかったと述懐しました。食事は農村よりももっとひどく、土の上に板を敷いてその上で寝る生活でした。もし病気になれば医者にも診てもらえず、危篤になっても家族に連絡は行かず、多くの人が寂しく死んでいきました。でも彼の父は一度も病気をしたことがなかったのです。

 父が入獄して直ぐに母は離婚し田舎に帰りました。しばらくして再婚したとの連絡が有りました。
 ハオさんはお爺さんの家に引き取られました。そうして大学まで行くことが出来ました。
しかし両親の居ない生活のために、彼の性格が歪んで行ったことは自分でも知っていたし、周りの人が噂しているのも聞いていました。しかし大学での寮生活の中でみんなと同じ条件で生活できたことと、良い友達二人を得ることが出来たことが幸いしたのでしょうか、性格が随分変わったと自分で思うようになりました。
 この父の転居届について、ハオさんは九個の役所を、汽車で五時間のところを訪ねて回りました。まるでわざと遠回しされているようだったと感想を述べています。一つには未だ官庁の機構が整備されていないのもあるでしょう。もう一つは自分の受け持ちの仕事以外は隣の席のことでも知らない振りをする計画経済のしきたりが災いしています。(このことは後でまた説明します)さらにもう一つは賄賂を使わないからだそうです。たまたま彼が失業の状態にあったので役所周りが出来たと言っています。
 
 彼の父はまだ五一歳です。これからは街角で油面包(中国では至る所にあります。細長い挙げパン)を売って働きたいと希望を述べました。
そして出来ることなら再婚もしたいと述べて皆に元気なところ見せ安心させました。

 もうすぐ大連ではアカシアの花が満開になり大勢の観光客が見に来ます。
 その満開の頃、五月一二日彼ハオさんはオーストラリアに向けて、移民の生活を始めるため北京から飛行機に乗ります。二年間無事にかの地で過ごすことが出来ればオーストラリアの市民権が得られます。
 この考えは父の事件とは直接には関係有りません。
オーストラリアの都ブリスベーンに行けば、日本や台湾から大勢観光客が来ており、彼の中国語と日本語と英語を生かした観光案内の仕事が見つかると考えています。初めは三Kのきつい仕事でもやりたいと思っています。 
 学生時代知り合った女性も居たけれど、この国で生きることが自分にとってやりきれないという思いが沸いてきてから交際を絶ちました。移民してから相手を捜した方が良いと思っています。
 その気持ちは彼が大学時代英語科を専攻して海外のことを知ったこと、就職後日本の企業と取引があってそこの人達の生活を知ったことなどが影響しています。それとやはり深い個人の苦しみと言うことを知った人間にとって全て国家と言う名で、上から絶対命令で強制されることに強い疑問を持ったことがその底にあると考えています。

 現在韓国、日本、台湾に経済面で大きく遅れていることが彼に中国を捨てさせた直接の原因です。基本面では北朝鮮と変わらない「社会主義」がある限り中国人の本当の自由と解放はないと思っています。
 これまで職場で、家庭で自由の無かったことが経済や文化などの遅れを招いたと考えています。

 彼は天安門事件直後大学に入学しました。
その天安門事件の一年前までは「分配」と言う制度で学生の就職が決まっていました。国家が社会の計画経済の下で学生の配置を決定します。今では原則として職業選択は自由になりましたが「分配」と言う建物は残っています。大学生の就職の斡旋をしています。(この数年、就職先について不服なら明確に断る学生がでてきています。十年前には考えられなかったことだそうです)
 現在は就職はとても困難な経済情勢で職場が無いことも有ります。他の学生たちに聞いてみると、それでも誰もが自分で将来を決定する方が良いと答えるそうです。

 話が飛びますが、この「分配」制度について紹介しておきましょう。

 これはたまたま現場を見聞した日本人で高齢の方の話です。一九八二年の頃の話です。
 学校で卒業生の「分配」が決まると全校生徒が校庭に集まって決起集会を開きます。まず送り出す方の激励の挨拶があり、それを受けて一人づつが「祖国の発展のため、学校の名に恥じないようがんばります」と決意表明をします。これを見た日本人は、戦前の日本で若者を戦地へ送り出す様子と全く同じで、背中に冷たい水を被ったような印象を持ったと感想を述べています。

 社会の生産の要求に基づいて「全く無駄のない国家による人間配置」が四十年近く行われていたのです。この結果として官僚主義と無責任と尊大な態度の人間が大量に生産されました。
 ハウさんはT・Vで北朝鮮の人々の生活を見るとき、当時の中国よりもっと酷い姿だと感じると言います。
 この分配制度が職場でどんな形になるかはちょっと中国を旅行すれば解かります。たとえば商店で品物を買うとき客の質問に対してわからない場合、「わかりません」だけで終わりです。同じ店員に相談して答えるということはありません。職場では隣の人は国家から命令された人です。横の繋がりは不必要で場合によっては危険なこともあるとのことです。そこでほとんど助け合うこともありません。
 空港に降りると大きな看板に「人民にサービスを」という漢字の看板が掛かっています。しかし公務員のサービス精神が皆無に近い状態は変わらないそうです。これが官庁や事務職になるともっと徹底していて、担当者に出会うまでは仕事の相談に乗ってくれません。

 四月二三日の彼と会える最後の日、彼がこんな話を聞かせてくれました。

 先日父の将来について再度話し合ったとき親戚が二十人も集まりました。父の仕事については町内の掃除と安全の見回りの仕事がちょうど空きがあると言うことでその仕事を先ずやろうと言うことになりました。このような仕事は党の財産から賄われます。月に三百元です。でも父は未だ元気なので二人分働けると言うことにして六百元もらう相談をしようと言う意見が出ました。(九十九年の平均月収は七百元ほど、十五倍すれば円になります)
 その日集まった二十人のうち八人が現在失業中でした。

 このようなことをハオさんに聞かせてもらって、全てが私には想像もできない世界のような気がして聞いていました。
 日本と中国は近いけれどその実体がわからず、あまりにも遠い世界のような気がします。
 とくに八十年代までのことは日本人で中国のことを知っている人は極めて少ないのではないでしょうか。
 日本と中国共同で作ったはずの「大地の子」を彼は全く知らないと言います。「ワイルド・スワン」も聞いたことがないそうです。勿論「上海の長い夜」も。
 私がこれらの本をもし読んでいなかったら全く中国音痴だったでしょう。上記の本は九三年頃世界的にヒットした小説です。
 
 私がこのような気持ちを彼に言うと、彼もこう言いました。
 「私も高校までは学校で、日本などの資本主義社会では労働者は貧しくなる一方だと教わりました」、こう言って彼は大笑いしました。
 現在はこのような教育は中止されましたが、でも自分たちが国家の一部で、どこかで
自分が管理されていて大事なことは上で決められるという気持ちを誰もが持っていると思う、と彼は結びました。
 
 別れるとき彼は私のEメールを聞いて、二年以内に連絡をして、日本に行きたいと言います。その目的はパソコンを買うためです。世界で日本のノート型パソコンが一番良いと言われているそうです。

 ☆「東北への旅」

 五月の連休を利用して、日本から友達が来たので東北を旅行しました。ハルピンまで飛行機で飛び、市内見学と「七三一部隊罪証記念館」も見ました。帰りは汽車で「長春」「審陽」経由で戻りました。どの街も現地で買った地図では人口が五百万人超の大都会となっていますが、たぶん市内の区画範囲が日本より広いのではないでしょうか。
 春が始まったばかりの気候でしたが、緯度から言えば札幌くらいですが、夏には四十度まで上がるそうです。

 自分で計画した初めての旅行だったのでかなり緊張したときもありますが、街の人達は誰も親切だった気がします。ただ鉄道の公務員はどこでもとても怖く威張っていました。
 農家の家の造りは、全て古びた赤い煉瓦造りで、如何にも粗末な感じで、外装内装ともに無しです。友達はそれを見て「日本の農家はこれと比べるとまるで芸術品だ」と感想を言っていました。
 
 ☆「働きすぎて解雇されました」

 五月六日、若い夫婦が学校へ私を訪ねてきました。
 男性は中国人で女性は日本人です。二人は日本で知り合い日本で結婚しました。現在二人とも二四歳です。そして彼氏は日本の企業に勤めたのですが、大連に転勤になって三月に二人でこちらに来ました。
 そして女性の方は大連の大きなワンダーというホテルに就職しました。でも三ヶ月は使用期間と言うことでした。
 私は五月一日にたまたま空港で仕事中の彼女に会って名刺をもらいました。
 
 ところが五月四日に彼女の夫の会社にホテルの人から電話が入り、「明日から奥さんを出社させないでください」と言われました。
 その理由を聞くと、これが日本人にはとても考えられない話で、彼女が「働きすぎるからだ」というのです。

 電話があったときは社長が出張に出た日でした。約三十人の事務職員のうち十八人が結束して彼女の解雇に賛成したようです。
 彼女としては外国での初めての仕事でもあり、しかも使用期間でもあったので、一生懸命に言われるとおり働きました。不思議なことに周囲の人がわざとらしく他人の仕事を彼女に回してきて、無理強いにさせていると感じたこともあったそうです。でも彼女は多少はきつくてもこなしてきました。正社員になるために。
 そのようなやり方をみて周囲の人達が反発したらしいとの彼女の推測です。 

 突然解雇された彼女はその理由が納得できず、しかも外国のことでもあり寂しさが募って、二・三日食事がのどを通らなかったそうです。
 
 その話を聞いた私も納得がいかず、その若い中国人の夫に聞きました。「中国ではこのような事件はよくあることですか」と。
そしたら彼氏は「良くあります」と頷いたのです。それなら外国人の私が何を言うことができるでしょうか。彼氏は日本の企業に勤めて日本のしきたりを良く知っています。使用期間といっても、突然解雇するには社長も含めた会社としての正式な手続きが必要なことも知っていました。今回は社長の留守をねらっての、従業員の嫌がらせのような形での、強制退職です。でもここでは良くあることだそうです。
 一週間前空港でたまたま出会った私に彼女が相談に来たのは、ここが彼女にとって外国であり、他に知り合いが全く居ないからです。まあ、彼女にとって、一応経済的には夫が働いていて何とかやっていけるので、問題はありません。今回のような経験を通じて次第に中国になれていくのでしょう。 
 
 似たような話はここ大連に進出している企業の人たちの話があります。
 やはり外国ですから、日本人にとって想像もできない事件が起こるのでしょう。

 ☆「妻の不貞」新聞から

 四月の末、一組の夫婦が病院に行きました。婦人の生理不順が続いたからです。そして病院で検査の結果婦人の方に性病があり、男性の方は正常だとの診断が出ました。検査と薬代八百元を請求されました。そのとき夫婦は二百六十元しかなかったので、薬は後で貰うと言うことにして帰りました。
 そして帰ってから夫が怒りだしました。妻の不貞を疑ったのです。そして彼はかなり暴力をふるって妻の顔を真っ青にして、離婚だといって家を出て行きました。妻の方は職場に出ると顔の痣を皆に不審がられ、職場にいられなくなり、しばらく休暇を取る始末でした。
 そして彼女は大きな病院で再検査を受けました。その結果は何の病気も発見されなかったのです。
 これで新聞の報道は終わっています。
少しこの記事で疑問なところを現地の人に聞きました。
 このような事件も中国では良くあるそうです。八百元の治療費がべらぼうに高いことについて(大学教授の月給とおなじ)。これは病院が儲け専門に走っているからだとのことです。
 保険について。今年の春から保険制度が出発しましたが、まだ公務員などの公共機関しか実施していないそうです。

 個人の被害を守る制度について。改革解放以降、最近は個人の権利を守る法律が出来てきて(八十年代の終わり頃から)この件の場合賠償を取ることが出来るだろうとのことです。勿論計画経済の頃は不可能でした。改革以前は誰でもが他人の家に入って行って「反動を暴く」という言葉の下で暴虐無人に家財を壊わし日記を持って行くというのは日常茶飯事でした。このころの救済方法は周恩来に直訴するしかなかったようで、その様は「大地の子に」詳しく書かれています。
 ☆「賄賂の話」

 学校の宿舎は現地の物価から考えるとべらぼうに高いです。一日十ドルなので月三百ドル、約四万円、月二千四百元です。五百元も有れば中国人はとても良い部屋を借りられます。老師(大学教授)の月収が七百元から類推できます。その上、寮は日本人と韓国人が夜も平気で騒ぎます。その声の大きさは全く傍若無人です。親のしつけを受けていない人たちでしょうか。それで勉強第一の人は寮を出ます。でも寮の好いところもあります。安全です。教室まで三分です。
 ある学校で三月の末に寮を出た人の話。
 彼は期末の七月まで部屋代を先に払っていたので、その差額の返還を請求しました。でもだめの一言でした。そこで賄賂が思い出されて彼は頑張り「OK」が出ました。八百元ほど使ったそうです。(誰かの月収分?)