三月の大連

 ☆「授業開始」

 三月一日から中国語の授業が、受付の壁に掲示されることもなく突然始まりました。
 全生徒の数は二五〇人ほどいるそうで、多くの生徒の出入りを見て、はじめは誰もが中国語をぺらぺら話していると思って圧倒されていたのですが、どうも韓国人のようです。その内に日本人も大勢いるのが解ってきました。アメリカ人もロシア人もいるようです。
 校舎入り口広場では若い人たちがサッカーやバレーボールをしています。そこも勿論国際色豊かな顔ぶれです。
(学校は七月十六日が終了日のようです)授業料の領収書に書いてあります。

 ここは日本で言えば語学専門学校です。時間がきたら突然のように何の紹介もなく教科書を読み出し始めます。各学生がどこの国の人なのか、先生の名前も何も紹介はありません。

 私は半年の予定で中国語を勉強に来ました。中国にこのような方法というか教育制度があるのを知ったのは昨年の十月でした。たしか朝日新聞だったと思いますが、読者投稿欄に次のような一文がありました。その方が中国へ行かれたときは偶然現在の私と同年でした。
 「私は五十八才で定年を早め北京で中国語を学んでいます。授業の傍ら街を歩いて古い家並みを写真で取りまくっている内、その中に歴史的古跡に近い文字が刻まれた門石が写っていました。それが極めて貴重なものらしく、現在北京の博物館に展示されています」と言うものでした。
 それを読んで私も中国での生活を思い立ち、調べたところ年間授業料や生活費全てを含んで八十万円ほどで過ごせるということを聞いて、中国へ行くことにしました。
 住み易いと言われる大連が良いというすすめもあって、ここにやって来ました。
 四年前仕事で台湾に行ったことがあって、中国語に親しみを持てたのも寄与しているでしょう。

 さてクラスの決定ですが、私の場合授業開始十分前に、大勢の学生が教室へ向かうのであわてて私はどこのクラスへ行けばいいのかと事務所に聞きました。そこで初めて「どれくらい学んだのか」と聞かれて二言三言話をして決まりました。それから教科書を買いに行きました。その間十分間でした。

 学校へ着いた明くる日授業料と教科書代と部屋代など半年分三十三万円を日本円で払いました。後は食事代ですが、これはそのときに払います。一階に学校の食堂があります。

 こうして私の半年の予定の自由時間が始まりました。
 大連の街に出てみると何でも売っています。十階以上の大きなホテルや百貨店も並んでいます。繁華街で電気スタンドを買ったのですが、売場の少女が私を引き留めて、値引き交渉に応じて負けてくれました。(七十元)このような取引はこれまでの中国では不可能だと聞いてきました。きっと数年前に中国へきた人はびっくりするくらいの変わり様ではないでしょうか。

 ☆「インターネット接続」

 学校の寮の個室には電話回線が来ていません。そこで学外で探した結果、街の中で業者を捜すことができインターネットに繋ぐことが出来ました。月に三十元の約束です。(十五倍すれば円になります)こうすれば家族との連絡も市内電話で済みます。学校では三百人近い生徒に公衆電話が三本しかなくて、いつも満員です。しかもパソコンと接続できません。週に一度くらいその接続会社に私のパソコンを持って行ってメールをやり取りします。

 ☆「学生の構成」
 
 学生の出身国は私の知る範囲では、日本・韓国が一番多く、アメリカ、ドイツ、フィンランド、ロシア、イギリス、フランス人などがいます。
 そして日本から短大の学生達が中国での観光と研修ということで一週間泊まっていったこともあります。
 学生がお互いの紹介と言う時間は有りません。私のクラスが二十人ほどでそこからの類推です。ひょっとして、来たとたんに帰った人もいるのではないでしょうか。
 漢字圏の国の人は授業の説明に何とかついていけると思いますが、いわゆる横文字の国の人は大変ではないかと想像します。
 私の授業の時、隣に座った青い目の青年が教科書の漢字の発音を聞いてきました。私の知っている漢字だったので得意になって教えました。多分私の方が実力が上かなと思ったのです。ところが授業の中で老師が質問したとき、その意味が私には分からないのにその青い目の青年は明快に老師に答えていました。しかもその言葉の早いこと。後で聞くと彼はフィンランドの学生でした。このように漢字圏以外の人は漢字には弱いけれど、聞く力はすごいですね。 
 年齢構成から言うと二十歳前後の学生が八割ほどでしょうか。後の一割が中年で、企業派遣、または大連に夫が勤めている人です。残りの一割が停年後の人。これは全部日本人です。

 彼ら年輩の人は本当に人生を楽しんでいるという感じです。
 食事の時に酒は飲めるし、たばこは吸えるし、時々若者と一緒に外で食事ができるし、野球チームの監督をしている人も居ます。
 定年後人生を楽しんでいるのが日本人だけというのはやはり経済力でしょうか。その人達の話によると韓国の青年は年長者の前では煙草を吸わないそうです。年長者が吸えば吸います。それで高齢者にはとても韓国の青年は好かれています。これも次第に問題があることが解ってきますが。

 ここへ来てから一週間目の時、一時間だけ市内観光がありました。そのときバスガイドが日本語だったので隣に座った韓国の女学生に大約を通訳しました。彼女は来てからすでに二年経っているので中国語は私よりうまいのでそのようなことができたのですが、それ以来近くを通ると必ず挨拶に来ます。随分礼儀正しい感じがします。

 ☆「教室の中身」

 全く初めて中国語にふれる人の場合、大体日本人なら日本人だけでクラスを作り、教師も日本語で説明するそうです。そのようなクラスが韓国語と英語のクラスにもそれぞれ一つずつ有ります。
 その他は全部中国語だけで授業が進められます。
 教師が教科書に基づいて少し話をしては、その会話の中の難しそうな言葉を黒板に書いて中国語で説明します。
 
 学生の滞在年数から言うと、ここで一年学んでいると言う人が学生の半分くらいではないでしょうか。彼らは冬と夏の休みに一人で中国を旅行して回っているそうです。旅行程度なら言葉に不自由しないそうです。女学生も一人で旅行していると言います。

 授業の時ですが、皆さん随分遅刻が多いです。欠席の人も多いようです。毎朝定刻で出席しているのは日本人だけです。
 中には四年学んで、しかも寮に住んでいる人がいます。授業には出なくて外で働いているようです。
 それから授業が始まってもリンゴをかじっている生徒も居ます。アメリカ人とドイツ人でしょうか。お菓子を食べてる人も居ます。
 
 本校の中国人ばかりの教室へ教えに行っている日本人の教師に聞くと、(彼はこの宿舎から同じ敷地内の中国人の校舎に通っています)授業に遅れてきた生徒に対して怒鳴りつけるそうです。「高い授業料を払っているのに何事だ」と。でもその熱意が通じるのでしょう、一年間の授業が終わって別れるときには受持ちの生徒全員がぽろぽろ涙を出して別れを惜しんで泣き出すそうです。

 また別の高齢者の人に聞くと、二年前一緒に入学したロシアの学生が一年半で上級まで進みました。それは極めてすばらしい成績でした。
 入学後その青年は漢字の書き方が分からないために毎日のように聞きに来たそうです。本当に初歩から外国語に接したようです。彼はずいぶんと優秀な青年で放課後も懸命に夜遅くまで勉強をしたそうです。

 しかし、しかし彼よりも優秀な人が居たのです!
というのは一緒に学校に入った他の日本の学生ですが、授業にはほとんど出なくて、街を出歩いていて、なにをしていたかは正確にはわからないそうですが、とにかく一年半後にあの優秀なロシアの青年よりも上達して出ていったそうです。まあここが言語(学)の愉快なところです。

 さらにもっと優秀な人が皆さんの周りにいるのをご存じでしょうか。その人達は教科書さえなくて一年もすればどんな外国語でさえものにする人です。そうです。それは子供です。子供にとって外国(語)という自覚さえ無いのでしょうか。

 と、ここまで書いてこの文は後から訂正です。子供は話せるけれど読み書きは出来ません。当然です。そして特にこの中国語の世界は漢字の数が山と有って、少々の勉強では読み書きは出来ないでしょう。日本の場合小学校へ上がらなくても「ひらがな」でお爺さんお婆さんに手紙を書く子が居ます。でもここではそれは無理ですね。というのは、世界童話全集を買ってきたので今読んでいますが、半分以上が絵です。しかし文字のところが全て漢字で、これが又とても難しい。私の辞書に載っていない文字も使われています。特に外人の名前と土地の名前は当て字だから意味がありません。だから完全に漢字を知っていないと読めません。ああ、大変な世界に足を突っ込んでしまったな。
 
 三月一日ウガンダの国立公園で百人の暴徒がホテルに暴れ込んだ記事をこちらの新聞で見ました。しかし「ウガンダ」という漢字は周囲の人に聞いても解りません。本校の中国の生徒に聞いて解りました。

 一方学校の教師は誰も熱心です。私の場合一週に四人の先生に習いますが、どの先生も熱心なあまり汗を常時拭いて、しかもそれでも熱いのでしょう、窓を開けてしまいます。外は零下の気温の冷たい風が吹いているのに。
 
 ☆「老兵現る」

 二週間目のはじめに、夕食時、七十歳を越えた二人連れの日本人に会いました。
 一人は学校の教師で、一人は戦後すぐに日本引き上げなくて、中国共産党に頼まれ中国に残り現地の航空兵を養成しました。命と食事は保証すると言う条件でした。
 朝鮮戦争の後ソ連からジェット機が入ってきてプロペラ機はさようならと言うことで、日本に帰国したそうです。
 それから五十年近い時が経っています。航空兵の養成時代は毛沢東と同じ白飯を食べたそうです。

 戦前の日本の殴る蹴るの教育方法ではなくて、個人の個性にあった方法を採用したので日本の教育時代よりも半分の時間で中国人の生徒に飛行をマスターさせたのが自慢です。
 そのことでは今でも誇りに思っているとのことです。

 しかし毛沢東の政治路線で「虎を洞穴からあぶり出す」というのがあって、子供が親を告発したり妻が夫を告発したりする社会となったので、十五人ほどいた日本人教師の中でも自殺する人が出たそうです。

 生徒から煙草をもらうとそれを見つけた他の生徒が煙草をもらう以上その裏にはなにか利害関係があるはずだという「告発闘争」を真面目にやったわけです。煙草一本で敵階級という烙印を押されたのです。

 文革の時には学校が閉鎖されていたのですが、軍隊でさえ混乱していて常に仲間を告発する状態が続いたようです。

 今私が話を聞いている人はとにかく無事帰国できました。帰国後は日本の社会では「赤教育を受けて来た」と噂され、航空会社には就職できなかったそうです。それは現在でさえ有効だと言っています。
 さすが中国のことには深い関心を持っていて「上海の黒い霧」を読んでいました。それで文革時代の暗い社会は良く知っていました。

 八九年の天安門事件の時、現在の中国政府が「学生は一人も死んでいない」と強弁していることに怒を示していました。
 今回の中国への旅は、昔の教え子から招かれてきたそうです。
 
 もう一人の方の説明によると、現在の学生達は毛沢東がかなり早い時代から「ぼけ」が始まっていたことを知っているようです。でも文革がなんだったかは学校でも教えないし、親でさえ子供に話せないであろうと言っています。しかもここ外国語学校の関係者は全員外国のスパイだということで、大変な苦労をされたそうです。
 親子も夫婦も告発しあったのですから、実に深い傷を今後も残していくのでしょう。
 この告発政治は一九七八年の毛沢東が死ぬ間際まで続きました。

 ☆「互相互学」
 
 これはお互いに勉強し会うという意味です。三月一日に現地の二八歳の青年が私が校舎を出たところを捕まえて、一緒に勉強をしましょうと誘ってくれました。
 彼は日本の会社と関係しているようです。六月にはオーストラリアに行き日本の会社で働くそうです。それまで私と週に一度くらい一時間は日本語、一時間は中国語で話し合いをします。実に何事にも熱心な青年です。政治のことも歴史のことも、もちろん悪口の言い方も話してくれます。「あほ、馬鹿」に相当する言葉も聞いておきました。これは辞書に載っていないけれどいろいろと役立ちます。
 私が一番助かるのは街中での中国料理の注文の仕方です。毎回彼と食事をして教えてもらう予定です。
 一月もすればメニューが解るようになると期待しています。

 何しろ台湾に居た時はメニューが読めなくて二年間朝飯は同じものを食べ通しました。
 もし中国語のメニューを読めれば世界中どこの国へ行っても食事には困らないと思います。中華料理店のない国はないと聞いていますので。

 食事の後、彼は自分の家族や国を紹介してくれました。両親は十五年ほど前に離婚し今はお父さんの方のおじいさんお婆さんと一緒に住んでいます。
 彼は文革はほとんど記憶がないそうです。でも中国周辺の諸国が全部経済成長していて中国だけが取り残されていることに強い不満があります。その理由もはっきり理解しています。中国は一九四九年の建国以来人権を強く抑圧してきたからと言っています。北朝鮮のテレビを時々見ることができますが、あのような政治はとても見ていられないと顔をしかめて否定しました。

三月から人民大会が開かれています。そこには八つの政党が参加していますが、全て共産党の指導を受けた「民主政党」という規定があって大会に異論が出たことはまだ一度もないそうです。
 それから彼の友達から聞いた話として、昨年北方の民族(新彊ウイグル族)が独立の暴動を起こしたようですが、それはここの新聞には現れていません。(今年朝日新聞が二度掲載したことを後で知りました)
 
 私が囲碁が好きだと言うと碁石を持ってきました。そして勉強の前に一度遊びます。
 すると彼は二回目から試合の記録を紙に書いてそれを持って帰って復習してきます。
勉強熱心なのは彼だけではなくて、毎朝散歩する時、朝の六時半頃ですが、その寒風の外気の中で本校の生徒達が教科書を朗読しています。このような姿は日本では見られないのではないでしょうか。

 六十,七十年安保闘争の時代のことが話題になったとき、日本中が反政府のデモで荒れたことを話しました。すると彼は椅子に深々と腰をかけて両手を広げてため息をついて言いました。
 「ああ、中国にはかって政府に反対した運動は一度もなかった」と。
 そう言われて気がついたのですが、確かにあの文革の時も、一見壮大な大衆運動に見えていて常に権力(と言うより毛沢東個人)におもねった、上から作られていた事実を痛感しますね。 
 それだからこそあのように、人の目をくりぬいたり、仕事を止めたり、学校を停止したり、全ての人が無責任極まる行動に走れたということでしょう。どの行動も権力の擁護なしにはなしえないでしょう。 

 ☆「電話で人助け」

 ある日の午後商店街で焼栗を買っていたら、一人の小姐が寄ってきて「あなたは日本人ですか」と聞いてきました。そしてちょっと助けてくださいと言います。
 彼女の男友達が日本に居てこれからそこへ電話をするので繋がるまで手伝って欲しいというのです。簡単なことだと思い、すぐ近くの商店内で電話を借りて日本の栃木県足利市へ電話をしました。すると始めに繋がったのは工場長の自宅でした。それで電話番号を聞いて友達が居るという工場へ電話をし直しました。しかし彼は朝一度来たけれど風邪で熱があると言うことで寮に帰ったというのです。今度は寮の電話番号を聞くと寮には電話が無いというのです。そこで仕方がないので、彼女の名前と相手の名前を日本語読みして連絡してくれるよう頼みました。

 問題はその直後でした。店の叔母さんが電話の通話記録を見て「八四」元と言いました。そしたら小姐が顔を真っ青にして「太貴」(高すぎる)と言い出したのです。
 ちょっと小姐の言い分を理解するために三月はじめの新聞の記事を紹介しておきましょう。
 一ヵ月の最低賃金は四百元と言う規定があるのに最近は三百元以下の企業が増えてきて問題になっています。そして大都市の二四パーセントが五百元以下、四九パーセントが五百から九九九元の間、一九パーセントが千五百元以下、残り八パーセントが千五百元以上有ります。ちなみに私達の学校の教授は七百元だそうです。後で聞いたのですが、その小姐は千元でした。(日本円に直すときは十五倍してください)

 現在三千万人の都市労働者が失業しているそうで、それで計算すると現在農業人口が八割なので都市の失業率が十パーセントを超えているのは間違いないようですね。

 と言うわけで月収の一割近くがほんの数分で吹っ飛んだ訳です。そこで彼女は店の叔母さんに真剣に文句を言い出しました。そして電話を借りて電話局に電話したり、その電話が又なかなか掛からなくて近くの電話を探しに行ったりで、私はまだ電話の内容を小姐に伝えていないので、その場を立ち去ることもできず、三十分ほど待ちました。

結局小姐はお金を払ったようです。
 それから私は電話の内容を説明しました。そして小姐から日本のことを詳しく聞かれました。労働条件とか物価のことなど。
 
 人件費から言えば中国は台湾のちょうど十分の一ですね。これは中国の大都会の場合ですが。小姐の父親が七百元とのことです。
 日本で働いている小姐の友達の寮に電話が無いことが気になります。どんなところで働いているのでしょうか。男性四人が昨年の十月に日本に行ったそうです。
 その友達がビザを持っていて働いていれば問題がないと思いますが、持っていない場合中間に入っている組織がどんなに搾取するか分かりません。

 ☆「失業保険」

 三月十七日の新聞によると、この大連で小・中学の先生一二〇名が集まって九千元のカンパを集めて、教科書を買えない生徒が増えてきたのでその援助基金にすることを決定しました。
 又その三日前の新聞にも大学の生徒の両親が失業したので教師が集まって義捐金カンパをしたことが書いてありました。その生徒の父親はリヤカーでものを運んで小銭を稼いでいると書いてあります。 

 中国は五年前に失業保険がスタートしました。月に一七〇元以下の収入の場合政府から援助金がもらえます。しかしその金額があまりにも少ないため、そして補助金をもらうことが恥ずかしいことと考えられているので、障害者以外はほとんど申請しないそうです。
 それで繁華街には乞食が子供連れで居ます。特に高学歴ほど失業率が高いそうです。立ち売りの新聞売りや煙草売りが漢字のびっしり詰まった本を読んで街角に立っています。

 ☆「一番困ること」

 水道の水は黄色い。これが一番困ることです。栓を捻ると最初は真っ黄色です。やがて少し薄くなります。この黄色い水で頭を洗って身体を拭いて洗濯をします。
 これがいやならこの国では生きていけません。(これは毎日私自身に言い聞かせている言葉です)
 夕方は湯が出ますがこのときは真っ黒の水です。やがて少し薄くなります。
 飲み水はこの水を九十度に加熱する温水器が寮の各階にあります。でもこの水の正体は黄色ですから飲み水専用のコップもすぐに黄色くなります。この黄色は強く拭えばとれます。黄色の原因は、市内に施設されている水道の配管が鉄製のためだそうで、鉄の錆です。日本は鉛配管か塩ビ製です。
 ここ大連には多くの日本企業がありそこに働く人たちの宿舎があります。これはホテルであったり、高級マンションだったりするわけですが、そこでは浄水器を使ったりして白い水が出るようになっています。夜九時半には現地人の高級マンションはエレベーターが泊まりますが、日本人が居るところは夜も停電しません。かなり高額でしょう。守衛が居ます。
 私達の寮は月三万五千円ほどです。とても安いと初めは思っていました。しかし民間の部屋を借りると、高くても月一万五千円で借りられます。最近法律が変わって外国人が民間の部屋を借りても好くなったそうです。

 この話を聞いて私も寮を出ることを考えています。というのは真夜中に大勢の人が集団で寮に帰ってきて廊下を大声で話しながら歩くのです。木製のドアを閉める音が又とても大きいのです。静かに戸を閉めるという心がけは二十歳前後では無理なのでしょうか。寮の部屋は防音については全く考慮されていません。がんがん響きます。この雑音が一週間に何度も有ります。夜中でもドアをどんどんたたいて呼びに来ています。だから午前中の授業がとても眠く辛いのです。学校の事務の人に言っても「了解」の言葉だけです。
 中国に着いた頃は、早く言語に慣れるため出来るだけ日本人とは話をしないように接触を避けていました。食事の時も外国人と思えるる顔の人の隣に席を選びました。
 ところがこの真夜中の雑音のため仕方なく、日本人で既に半年以上前から学んでいる人にこれまでの対策を聞いてみました。
 でも部屋の配置によって静かなところもあり、これまでの経験は何の役にも立ちません。

 私が聞いた人達の疑問は、夜騒ぐ学生はどこの国の人間かに関心があるようでした。
 夜中に騒ぐのは日本人が一番多く、次が韓国人でしょうか。その順番に学生数が多い。

 ☆「チベットは中国に属しています」

 偶然ですがチベットの首都ラサに行って来た人に会いました。ラサにお祭りがあって何人かで観光に行ってきたそうです。チベットの隣に位置する四川省に親しい人が居て、出発の前日ラサ出身の女性を紹介して貰って旅の注意を聞いたそうです。三十分も時間が有れば充分と思っていたら、その女性は延々二時間半ラサの文化・歴史について語り、中国が如何にチベットを抑圧しているかを語り続けたそうです。その女性は立場上自国には帰れないそうです。中国の公務に就いているらしいのです。
 そして一行がチベットに入ってみると中国政府に仕えている幹部の写真は全くなくて、インドに亡命を余儀なくされているダライ・ラマの写真ばかりが街中に張り出されていたそうです。

 ラサまで隣の四川省からジェット機で二時間半掛かります。中国が軍隊をチベットに送ったのは一九五二年。そのとき中国軍側は「君たちは宗教に毒されている。宗教は支配者が流す阿片だ」と叫び、「俺達が君たちを解放する」と叫んだそうです。 

 ☆「大連の小姐の恋愛」

 電話で小姐を助けた話をしました。それには続きがあります。一週間してその小姐から電話が来ました。日本へ手紙を書きたいので見て欲しいというのです。
 近くのマグドナルドで会いました。一杯四元のコーヒーを飲みながら話を聞きました。 まず手紙の宛先が違います。日本には無い漢字なので直さなければなりません。
 その後彼女は先日の続きを話してくれました。日本の彼氏から電話が来て賃金などを聞いたそうです。彼氏の年齢は二四歳で、賃金は月三十万円。日本人と同じかそれ以上でしよう。とても良い条件なので、中間に入っている会社を聞くとこれまで働いていた会社の紹介と言います。
 しかも年に一度は会社持ちで帰国できると言います。
 一緒に行った他の三人はすでに結婚していて大連に妻と子供が居るそうです。
 
 この話を聞いて私の顔は俄然明るくなりました。「この話はとてもよい条件であなたは何も心配はいらない。彼の帰国を待てば三年後にはあなた方二人は大金持ちになれる」と言いました。もしあなたが彼にもっと会いたければ彼から仕送りしてもらえればよいと言いました。彼の賃金からそれくらいの旅行費は捻出できると思いました。

 そこから話は微妙になっていきました。二人はまだ婚約まではしていないのです。知り合ってから四年経っています。
 簡単な贈り物をお互いにしたけれど、もし今後三年間にどちらかに好きな人ができればその贈り物をお互いに返すことで「二人の仲」は解消という役束だそうです。

 しかも彼にはこれまでほかの女性との話が無くて、彼女の方には今でも追いかけている男性が何人か居るというのです。
 これが現代若者の考えなのか、それとも大陸的なのか迷いながら聞きました。

 ここで白状しますが、私が彼女の話を一度に理解できないので、私への質問は私のノートに漢文を書いて質問してくるのです。私はどういう訳かこのテの話は理解が早くて彼女の文章はすぐ分かります。学校の文章は難しいのに。
 彼女の話によると、男は一般に浮気心が有って三年も経てばどうなるか解からない。最近は離婚が増えている。自分はまだ若い。
 多分日本語が分かれば簡単に住む問題をノート一杯使って聞いてきました。まだ使いたての日本のノートに。学校で売っているノートは紙の質が悪くとても使えないので、日本から持ってきたものを大事にしたかったのに。
 たまたまそのノートには現在大連で流行っている歌の歌詞を写したのがありました。中国語を覚えるために近くの店でテープを買いそれを昨夜写したのです。今大連で流行っているのは男も女も台湾の歌手です。でも歌は多分いつの時代もそうなのでしょう、一人が一人を真剣に想う歌です。その歌詞を見せて小姐に言いました。このように一方が相手を真剣に思えば他方も真剣になれると。そうして美しい物語が始まると。

 そしたらなんと彼女は、私に向かってあなたはこれまで心変わりがしなかったかと聞いてきたのです。そこまで面と向かって聞かれたのは初めてです。相談に乗っているこちらが汗をかいてきました。
 そして今度は私がなぜ妻を日本に置いて一人で中国へ来ているか聞いてきました。
 ここは省略しないで事実を書いておきましょう。
 今日本では平均寿命から考えると後三十年近い余生があります。
 その長い人生を如何に生きるか、この数年に真剣に考えるのがとても大事な年齢だと言いました。これ本当です。
 世界を旅して回るのが若いときの夢でした。でもそのころは経済的に不可能でした。だからそのころの夢を叶えるのをかねて今中国に来ていると言いました。

 私の妻も同じように今後の準備をして居ると言いました。
 その辺の話はふんふんと聞いていたようです。

 中国の場合この八年間に随分と経済成長したそうです。学校の教科書にも現在は登小平のお陰で高度経済成長したと書いてあります。しかし企業の寿命は以外に短くて年間二千七百万件の倒産が有るとも書いてあります。企業の平均寿命は三年だそうです。そのような環境で若者が安全策として将来の約束をしないのかとも思いました。
 でもまあとにかく、後はどんな人生を歩もうとあなた自身で決めてくださいと言って別れました。

 そしたら彼女は家に遊びに来てくれと言います。私はまだ言葉が通じないので断ったのですが、後で寮の先輩に聞くと「馬鹿」と言われました。そんなことでは中国語をマスター出来ないと。このような話は日本人にはいっぱいあって、その家に行って家族の人と会って話を聞いたり酒を飲んだりして次第に言葉を覚えるものだそうです。学校の勉強は有る程度まで進むとつまらなくなるそうです。
なんだ、先に教えてくれればいいのに。

 ☆「食堂」

 学校の食堂で食べるとかなり安く済みます。また自分でお盆を持って棚の上から好きなものを採って行く方式なので簡単です。漢字で書かれたメニューを読む必要は有りません。昼間は生徒で満員です。ここでいろんな人と会います。日本人のことも有ります。韓国人のこともあります。アメリカ人のこともあります。今日はたまたま隣の女性は私と小学校・中学校が同じ日本人でした。彼女は十八歳で一人で親と別れてここに来ました。四年制のクラスに入っています。今年来たとこなのに街の中を一人で出歩けるそうです。同じテーブルに居た年輩の男性の方はまだ一人で出歩けません。
 そしてもう一人二十歳の娘さんも居ました。その人は日本を出るときお母さんが泣いたそうです。毎週親に手紙を書いています。
 韓国の二十歳の娘さんもいます。彼女はピアノが弾けるので顔を知っていました。もうすでにこの学校にいて後一年滞在し韓国へ帰って大学に戻ります。彼女達とは太極拳が一緒であることが後ほど解りました。教室では全ての科目に生徒同士の紹介はないのです。
 
 ロシア人のテーブルに行ったときはちょっと困りました。一人の男性と四人の女性です。でも何となく話しにくいと思いました。彼らは困ったときも英語が話せないようです。だからもう少し私が中国語がうまくなったら話してみましょう。
 
 ☆「日本人街」

 毎朝一時間弱ほど散歩します。学校から十分ほどのところに昔の日本人街が有ります。建物はほぼそのまま残っています。その前に大きな公園があり、昔は冬には凍ってスケートが出来たそうです。その話を私は妻の母からよく聞きました。
 今は大勢の人がいくつかのグループを作ってダンスをしたり太極拳をしたりしています。気功もあります。
 そこから十分ほどのところに昔の大和ホテルとか満鉄本社が有ります。「中山広場」という一番にぎやかな広場に面しています。先日一人でその大和ホテルで食事をしました。大きな玄関には守衛がいて廊下は絨毯が敷いてあって豪華な感じがします。大きな食堂には中国人が少しと日本人の家族が一組だけでした。その日本人の家族に高齢の方が居るところを見ると多分昔の名残を惜しんで、若夫婦が連れてきたような感じでした。

 今は実に簡単に日本からここへ来られます。飛行機の直行便が有ります。ここは昔はアジアの中でも飛び抜けて高級なホテルだったと聞いています。私が食べたカツ丼は三五元でした。鰻丼は九十元なので止めました。
 廊下を少し行くと喫茶店があって日本の新聞が読めると思い入りました。夜はカラオケの準備があります。カウンターの女性に日本の新聞が読みたいというと、「没有」と言って中国の新聞を持ってきてくれました。
 どこでも親切ですね。昨年北京に行ったときと随分感じが違います。古い人に聞いてみるとこのホテルは日本人が多いからだそうです。大連には外人を呼べる観光名所がないため、観光客専門の店がないからではとの意見でした。観光客専門の店は「国営」で、極めて客に乱暴とのことです。

 ☆「朝市」

 朝市に行きました。これも徒歩十五分ほどのところにあります。
 依服や雑貨や本や食料や魚も売っています。大勢の人で賑わっています。子供世界文学全集を三十元で買いました。(定価は八十元です)登麗君(テレサ・テン)のテープ二本で十元です。コルゲート歯磨きが五元。これは中国語で書いてあります。目覚まし時計も五元。説明書と箱なしです。外に出てみるとリヤカーがずらっと並んでいます。これを手で引いたり自転車で引いたりして品物を運んでくるようです。