書籍紹介
 
     「登小平秘録」(上・下) 
   産経新聞社 伊藤正 著 ¥1700、¥1785。

 登(右に”こざと”偏付)小平は、毛沢東時代の封建的暗黒の時代から、現代中国の改革開放を実現した人として賞賛される一方、89年の天安門事件では学生や国民に血の弾圧を加えた人として警戒される両面を持っていたと評価されています。著者は新聞記者として天安門事件当時を現場で取材した人。

 文革(1966年から77年)が始まると当時の国家主席”劉少奇”が毛沢東によってブルジョワとして殺され、党総書記を務めていた登小平は劉少奇と同類とされて69年に四川省へ追放されます。
 その追放先で見た現地の人々の生活はラジオもない極貧のもので、と小平は中国の近代化と経済建設の必要性を痛感します。

 文革で毛沢東の後任という地位を得た林彪が71年に毛沢東暗殺に失敗し国外逃走の途中死亡した後の73年、と小平は毛沢東に呼び戻され再び周恩来の右腕として党総書記の地位で混乱した国家の整理を任されます。
 しかし文革を進める毛沢東と4人組によって、周恩来とともにブルジョワとして警戒され毛沢東の死の直前、再び職務を採り上がられます。しかし半年後、毛沢東の死で4人組も逮捕され、と小平時代が始まります。
 
 毛沢東死後、中国の民主化を進めたのは華国鋒主席。華国鋒は学生達や中国の近代化を求める人達から毛沢東の暗黒社会を変える人として期待された。
 しかしそのやり方は毛沢東と似た面があり「大躍進政策」(急速に社会主義を進める59年の政策、4000万人が飢えで死亡)の大失敗が懸念され、経済建設を国家の命令形で進める華国鋒に対して、より一層農民などが自主生産を認めたのがと小平です。
 
 同時に、と小平は毛沢東死後民主化を求める運動が高まった北京の学生運動に弾圧を加え、魏京生に冤罪を押しつけます。79年。

 81年に、と小平は軍事委員会主席に。中国ではその地位が最高権力者を意味する。主席が胡耀邦。 
 79年に胡耀邦が死亡し、その民主政治を惜しむ国民運動が高まる。胡耀邦に次いで民主化を進めた趙紫陽総書記が運動に理解を示すと、と小平は弾圧を決意し、趙紫陽をブルジョワとし、民主化運動を「反革命」として血の弾圧を決行します、「天安門事件」。

 天安門事件は中国の保守派の勢力を急拡大し、生産よりも革命第1派が台頭。学生もその傾向を強め経済成長が停止し。

 86歳を超えたと小平が、中国の近代化が絶対不可欠と考え、広州方面への旅をしながら各種談話を発表、「金持ちになれるものから豊になろう」等々。(南巡講話)

 建国後の40年間、封建的絶対権力に悩んできた中国民の大多数が熱望するものと重なり、92年に経済界の市場化が決定。以降、中国の高度成長が始まります。
  

この本の最後に収録された「石平」という人の回顧録から。

 ””文革で農村に追放された私たちが、と小平の復帰で大学に戻ることが出来た。
 彼の復活で、中国人は毛沢東時代の暗黒から解放された気分になった。

 と小平とその右腕の胡耀邦の登場は知識人や学生にとって毛沢東時代の暗黒恐怖政治に対する反省を促し、民主主義の理念が生まれた。しかし、この夢と情熱に終止符を打ったのも、と小平であった。(第1次、第2次天安門事件)””