報 復 行 動

08/02/21 南方週末 劉秀芳(投稿)

  それは1973年の夏のことでした。中学を卒業した私は一生を黄土に鍬を下ろす農民として生きていくことに我慢が出来ず、抗日戦争に参加した経験を持つ父に都会で働ける仕事を探して欲しいと頼みました。当時、父は国営企業の有る部門の主任でした。父がそんなに上級の位でなくても娘に職業を紹介するくらい簡単だろうと考えていたのです。
 父は一通り努力してくれたようですが、それは簡単ではなかったのです。父は職場以外に頼りがいのある人が一人居ました。戦争の時親しくなった司令官で王××という人で、その頃は省長の職に就いていました。3年前その方が職場を視察に来たとき父と面会し私の家が改修中であることを知って、車に一杯の木材を支給してくれました。私に職業を紹介するくらい簡単なことと私はかってに想像しました。母を味方にして父に懸命にせがんだ結果、父はその王さんに会いに行くと言って出て行きました。
 父が帰って来るなり私は顔中に期待を込めて父の返事を待ちました。しかし父の返事は重く、「王さんの娘さんさえ”青年は農村へ行く運動”で農村に行ってしまっている」と渋い顔で言い首を横に振りました。

 父が懐から取り出したビニールカバーの手帳に「広い大地で若者は自分を鍛えよ」とペン書きされていて、その横には党の名前が並んでいて、それを私にくれました。私が都会で働きたいという希望は可能性が無くなって、私はその夜一晩泣き明かしました。
 
 半年後、省の重要人物”王”さんが批判され”打倒”されました。何処へ行っても王さんを批判する壁新聞が張られ、たまたまその記事の中に「王さんの娘は農村になど行っていない」と言う文を見付けました。娘さんは都会で働いている、と書かれています。私は騙されたと思い、父の手前では何も言わず、ただあのビニールカバーの「党」云々の手帳を細々に引き裂きました。
 
 私は父と王さんが一緒に写真に映っているのを取り出しハサミで切り裂こうとしました。父がそれを見付けて手を出し、どもりながら「娘よ、そんな事をしては行けない。王さんは立派な人だよ」と言います。私は「あの人は”走資派”よ、人民の敵よ。そんな人と付き合ってはダメでしょ」と言いました。

 父は暫く黙していましたが「本当はあの手帳は私が買った物で、あの句も王さんが書いたのではなく他の知っている人が書いてくれたのだよ」と言います。そんな話を私は信じられません。父と王さんの関係は死ぬまで続くと思われるほど硬く、その人のお陰で私の希望が絶たれたのだと考えて、私の気持ちに恨みのようなものが膨らんだのです。
 それから数日は壁新聞から王さんを批判した部分を持ち帰って父の見える場所に置いたり、批判文を大声で読んだりしました。ついに父は職場に泊まって家に帰らなくなりました。それが大きな災禍を招くことになるとは。

 父は普段酒が好きで、職場に泊まり込んでも飲んだようです。心臓が丈夫でなかったので直ぐに酔いつぶれ、そんな状態で職場で王さんの批判が出たとき弁護したらしいのです。ついに父は丸々6ヶ月間の停職と思想検査を受けることになりました。自分を批判する原稿を50種類書きました。批判大会が20回開かれ父は涙ながらに自己批判を続けたのです。
 
 停職が始まって私達の家計は大変苦しくなりました。その期間に私はあのビニールカバーの手帳は父が買った物で、句は父の友達が書いたことを知らされました。 
 母が「貴女の父は、王さんに仕事を紹介して貰うと王さんが裏取引をしたと疑われるから、それで王さんには要求しなかったのよ」と言いました。 
 
 あのときから数十年が経ちました。私はあれからずっと農民として暮らしています。でも今では誰も恨んでいません。あの頃私は父や母に大変心配を掛けました。いまは特に父には申し訳ない気持ちで一杯です。もし、私があのように父に無理を言わなかったら、父は6ヶ月の停職処分とあのような屈辱を受けなかったでしょう。そして私達家族は停職の大変苦しい生活を強いられることもなかったでしょう。
お父さんごめんなさい。

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 訳者注:
 「青年は農村へ行こう」運動 
中国語では「上山下郷」と書き、(シャンシャンシャシャン)と発音します。とても語呂合わせが綺麗で良い印象を与える感じの”政治スローガン”です。

 この運動が日本で紹介されたときに訳した人は、その運動に大きな意義と前向きの政治思想があると夢想したのではないかと思います。「貧しい人こそ政治的に常に前向で青年がそこへ行くことに大きな意義がある」というような。
 昨年NHKの記録映画を見ましたが、実際は悲惨なものです。当時の農村へ廻されることは一生帰れないことを意味し、しかも当時の農村は水も電気もない、勿論本を読むチャンスなど皆無の、大変な環境であることは中国人なら誰でも知っていました。親子の永遠の別れでもありました。親は自分の子どもに向かって農村の娘とは結婚しないように言い含めています。少しでも帰れることを期待して。農村で結婚すれば「戸籍」が農民となり、都会へは完全に帰れなくなります。それは現在でも続く非人間的制度です。
 自分の子ども達を送りに駅頭に集まった親たちは誰もが泣いて見送っています。農村から逃げて帰った青年は直ぐに公安に掴まり送り返されます。
 当時の都会では計画経済で現状維持が精一杯でした。若者を受け入れる職場も食料もなかったのです。まして文化大革命が始まると工場閉鎖などで社会的生産が急速に低下しています。そこで都会の若者を農村に送るより他は道が無かったのです。
 
 ところが受け入れる農村では都会の青年を受け入れることを喜ぶ所はありません。食料を奪われるだけで、農業生産に全く役立たないからです。

  この記事の1973年は文革(66〜76)の真っ最中です。如何に省長と言えど農民を都会に送ることは不可能でしょう。  
 この投稿をした人の親はそれを知っているからこそ、娘に「父が王さんと会っていない」という真実を言えなかったのでしょう。 

 「走資派」との闘い。中国全土を大波乱に巻き込んだこれらの全国民的闘争は法律や規則に基づかない極めて心情的なもので、社会から「人権」と「民主主義」が消えてしまいました。結局毛沢東以外は全てが被害者になり、毛沢東だけが政権を取り返すという実を得ました。
 当時このような不幸を経験した人は正に星の数ほど居たことでしょう。
 何故娘さんが社会の実際の動きをつかめなかったのでしょうか。計画経済が続く限り若者の仕事と食料が生まれないこと、走資派との闘いは法律に基づかない限り行っては行けないこと等を。勿論それは表現と報道の自由がない中国では誰も発言できなかったのですが。