最後の代行教師

 08/01/09 南方週末 張悦

 甘粛省渭源県張家堡小学校の門前にて

     最後の合同撮影


 05年11月南方週末は西部の代行教師の仕事を紹介し、その過酷な待遇に大きな社会的関心を集めた。

 訳注:次を参照(翻訳05年12月)

 http://www.ne.jp/asahi/cn/news/text/05/daiyou.html 

そして06年になると中国の教育部は全国で44万8千人の代行教師を大量に解雇し始めた。教育に黙々と人生のすべてを捧げてきた代行の先生たち、彼等はやむなく教職を去っていった。

 では、現在彼等の生活はどのようになっているだろうか。国は解雇に当たってそれ相当に補償をしたのだろうか。

 本誌は代行教師の行方について追跡調査をした。

  06年の夏、王政明さんは、長年使ってきた二胡の弦が切れた。それは何か悪いことの前兆と思えた。そして翌日学校へ行くと同じ学校の先生3名が呼ばれ「あなた方は上からの命令で明日から学校へ来る必要がなくなりました」と告げられた。

 王政明さんは南方週末が05年11月に採訪した先生である。

中国では最も年を取った代行教師であった。彼は当小学校の創設者である。数十年の間、月40元の薄給で勤めてきた。そして「整理」という名前で彼の血肉となっていた教壇を去ることになった。

 そのことを当紙が報道したことで省のトップも考え直し、代行教師の月別の賃金を40元から80元に改善した。

 06年、教育部は農村の教育改善に力を入れるためとして、早急に全国で44万8千人の小・中学校の代行教師を整理し、学歴の高い、素質の良い先生に替えることを発表した。

その場合、代行教師も試験に合格すれば採用されるという。

 渭源県では500名の代行教師が整理された。王さんもその一人だ。本誌が調べたところ当県にはまだ100人ほどの代行教師が残っているようだ。整理に当たって県は先生たちに約300元から800元ほどの退職金を払っている。その金額は公営企業の一時解雇者とほぼ同額である。しかし、どういう訳か王政明さんには一元も支払われていない。

 また例外があるが、ほとんどの代行教師は試験後も正規教員に採用されていない。

 ただし「臨時工」という名目で教壇に着いている元教師もいるようだ。

 王政明さんは整理されたとき学校には大切な持ち物は何もなかった。ただ弦の切れた二胡を持って帰った。若い頃は家を出るとき赤子がまとわりついてきて、その二胡で「遠いあの小山で」という曲を弾いてやったこともあった。

 でも今は彼の側には誰もいない。そしてその壊れた二胡をタンスの上に放り投げた。

 王さんは言う「この村で50年ほど先生を務めました。村の子供はすべて私の教え子です。その親も私の教え子です。そのお爺さんも教えました。それらの中には80名の大学を出た生徒もいます」。

 1958年に代行教師となった時、彼はまず学校の小学校の建物を造った。文革が始まると、生産隊長が来て、「教師はブルジョワ」だとして何度も殴られた。

 1982年、ついに「学校の中心土台であり、教育方法も最善」と上が認める発言も出たが、それも実らず、学校を去ることになった。

3年後、先生が不足して再び代行教員に採用された。ただし年齢の関係で1年ごとの契約の臨時代行教員としてだった。正式の教員になれる見込みはそこで完全に断たれた。

 王さんが最初にもらった月収は13元、正規の教員は32元だった。正規職員が40元に上がったとき、彼の賃金は17元となった。彼の賃金が40元に上がった頃、正規の職員は1200元から1300元に跳ね上がっていた。その差は20倍以上だ。賃金をもらうとき会計の担当者は誰にも見えないようにそっと彼のポケットに40元をねじ込んだ。

 06年、渭源県の代行教師のことが新聞に報道されるようになって、王さんには半年に120元分が追加された。

 正規の職員と月に1000元も2000元もの差が着くようになって、村の人たちは代行教師をあざ笑うようになった。そのことを自分の子供に言われるときが一番つらかった、と王さんは語る。王さんは自分の子供二人を上の学校に上げたかったが、それは如何にしても叶わず、子供を学校から退学させて農業の手伝いに行かせた。その娘の一人は現在他省へ嫁に行っているが、いつも申し訳ない気持ちで一杯だという。

 王さんと同じように整理された同じ学校の劉さんは、王さんに遅れること1年で整理され、本誌がその後の彼を発見した時、ぼろぼろの豚小屋で身体中を泥だらけにして働いていた。その姿からは、かって教職員だったとはとても推測できないものだった。

 王さんは劉さんのことになると本当に気の毒なことだとつぶやく。劉さんは現在34歳になるがこれまで一度も女性を口説こうとはしなかった。数年前彼の前に好きな女性が現れた。それは同じ学校の正規の先生だった。つまり月収は劉さんの数十倍ある。「まさか、私を養ってください」と申し込むのですか、といって苦笑いして、その気持ちを捨てたとのこと。

当地では代行教師であると知られている以上、娘さんと仲良くなることは不可能だという。そこで劉さんの希望は、いつか都会へ臨時工として出て、やはり臨時工の娘さんを探したいという希望のようだ。

彼の家にテレビとタンスがあるが、それは本紙の報道を見た篤志家が送ってくれたものだという。その人の気持ちはおそらく、若い娘さんが家に来たとき、以前は土だらけのニンジンなどが家の中に転がっていて、実に貧しさが満ちていたのを何とかしようと考えてくれたようだ。

 今年の9月が来たら彼は都会に行き、臨時工としての生活をすると決めている。今のまま村にいれば、やがて土間のニンジンと同じように干からびていきます、という。

 都会へ行くその気持ちには、もちろん心に留めた女性から遠く離れるべきだという気持ちが秘められているのだろう。

 渭源県の村の党副書記の李さんは、「どこの村へ行っても、代行教師という名前を聞けば、それはその村で一番貧乏だということは誰も知っている」と説明してくれた。

 代行教師は一般農民よりも、もっと食べ物には切実なものがあるようだ。揚川小学校の代行教師の毛さんは03年に干ばつもあって自作の収穫がほとんど無い年になった。年末に他省に嫁に行っている姉が帰ってきた。もうすぐ正月というのに食料がない。しかし姉にはそのことを言い出せなかった。そこで先生は知り合いを全部回って食べ物を借りてきて、何とか年末を凌いだ、という

 民間の作家で冠さんと言うのが同じ村にいる。冠さんも貧しく、毛さんの苦しみを知っても助けることは出来なかった。二人はただ抱き合っていつまでも泣いていたという。

 渭源県では評判の良い教師でも「代行」であれば全員解雇された。陳宏文さんは誰もが優秀と認める小学校の校長だ。しかし「代行」なので解雇された。

陳さんの奥さんも同じ学校の代行教員で、校長の夫は最初に解雇の命令を妻に言い渡した。それは実に辛い役割だった。校長として陳さんは上の命令を連絡した。

「明日から学校へ来なくてよろしい」「本当ですか」「そうです」「解りました」。

 これだけの遣り取りだったが人生で最大の苦痛の場面だったという。

 陳さんの家族は教師が揃っている。陳さんの父、陳其正さんも小学校長だった。母の羅さんとその姉と妹の3人とも教師だ。

陳さんの弟も代行教員で、先日解雇された。校長の陳さんは即時整理すると学校の運営に差し支えるということで、来年の7月に解雇される。

解雇されると「寝て暗そうかな」と呟くがしかし、彼には80歳のお婆さんがおり、60歳少しの病を持つ両親がいて、さらに子供が2人いる。これだけの家族を夫婦で支えねばならない。

夫婦は本職以外に田畑を耕して生計の足しにしている。それでやっと生きていけているのだ。

 さらに陳さんは数年前、妻が大病を患った。加えて陳さん自身が通信教育で大学の卒業証書を取ったので、借金が1万元を超えた。1万元と言うのは彼の賃金の10年分に相当する。

 困った彼は69歳の父を街のある工場の門番に着かせた。その父は病弱なので陳さんは内心申し訳ない気持ちで一杯という。

 その父は陳さんが解雇されると聞いて、「まあ仕方がない、農業で生活の糧を得れば」と言ってくれた。

 簡単に整理されるのは「乞食」と同じか

 代行教師の王政明さん、一生を教壇に捧げてきた後の解雇で、彼には如何なる解雇金も出なかった。彼はすでに60歳を超えている。背中も曲がり言葉もしわがれている。「昔は国全体が貧しかった。今は国はかなり豊になったと聞く。しかし私の方が年を取ってしまった。まあ、整理は仕方が無いかも」、と呟く。

 王さんに比べると劉さんは少し恵まれている。彼は整理金として500元支給された。

  整理金は年齢に比例する。15年以上が800元、10年以上が600元、5年以内が300元だ。

 当局は整理された代行教員が「不満を抱えて」北京へ直訴するのを恐れて、これらの整理金を受け取るように命じた。ところが多くの代行教員が受け取りを拒否した。

 そこで県教育長や党書記や村の幹部などが連日代行教員の家を訪ねて「あなた方は知識分子ですね。国家に逆らってはいけません。」と説得に来た。つまり、「乞食」と同じように簡単に追い払おうと言うことでしょう、とある人は嘆く。

地方政府は代行教師の家族や親戚を掴まえて、ことが穏便になるように説得し事態はやがてうやむやの内に推移した。

 王先生自身昔からの共産党員だ。「私は40数年党員として国家には絶対迷惑を与えてはこなかった」と語る。そして彼は党の指示に従って若い代行教員たちに素直に事態を受け入れるように説得の役目を果たした。

 劉先生の場合、彼は何度か学校へ通ったがそれは自分のことではなくて、担当したクラスの生徒たちの成績が県で一番だったので、それを表彰していもらいたいとのお願いだった。

32歳の羅さんの場合、彼女は授業が終わった後、それは午後の一番に解雇を言い渡された。それから2週間誰にも会わず家から出てこない。「解雇の理由を聞かれるのが嫌なのです。もう私の顔を誰にも見せたくありません」と悲痛に語る。

 彼女は小学校の先生だが山を越えて通勤するためバイクで通っていた。ある時転倒し大けがをした。心臓も良くない彼女だが、代行教師には保険制度がないため2日休んで這うようにして登校したという。

 暇になって彼女は自費で病院に入った。病院のベッドの上で毎日生徒たちの顔を思い浮かべるという。

 先生たちの代わりがくるのだろうか

 希望小学校には6名の代行教師がいた。突然先生たちがいなくなって学校は授業が進まなくなった。親たちがあわてて当局へ交渉に通っている。

張先生は代行の身分だが代わりの先生が来ないので解雇は最後になった。先生は長年代行教師だったので村では最も貧しい。記者が家へ訪問したとき、家の中まで風が吹き込んできて震えが止まらなかった。それを見て先生は「済みませんね。まあ、この村はどこの家も似たようなものですよ」という。

 なぜ薄給で長年先生を務めてきたのですか、と記者が聞くと「それは一種の陶酔感でしょうか。教壇に立っているときと生徒たちが良い成績を出したときのあの感じはたまりません」と笑顔で答える。

 確かに記者が教室の先生の姿を見たとき、この普段は全く無口の先生が立て板に水を流したようにすらすらと口を動かすのには驚いた。

 陳先生はこの仕事20年、村の先生たちの状況は一番知っているという。「村で40名が解雇されましたが、そのうち半分以上の人たちは正規の職員より能力も資質も上ではないでしょうか」という。かれは最近新任としてやってくる専門学校出の先生たちが農村の子供に対して授業を上手く進められないのを知っている。

 王先生は退職後自宅を新任の先生たち相手に安宿を提供している。ただ彼等新任の先生たちは村の生活を好まずすぐに止めて出て行くという。

ある小学校で3名の代行教師が解雇になって、侯先生は代行の校長職だが、すぐに止められなくてしばし学校に残ることになった。

 侯校長は自身で14教室を受け持つ、新任の先生たちは4教室を担当している。侯校長は黄色の牛を売って4000元を山の上学校の建設に寄付をした。彼の年収は1920元。地元政府の教育担当者の話だと「本当に侯先生には申し訳ないと思っています。若い正規職員と比べると百分の1くらいの報酬でしょう」と語る。

侯先生は「私たちは特殊な人種かもしれません。他の仕事には全く向いていませんから」と言っている。

 陳校長の場合もその管理能力や業務力などで高い評価がされていて、教区部門では校長として止めるべきでは無いかと言う意見が出た。上の方から「何を言うか。貴様はそんなお金どこから出ると思っているのだ。俺を困らせる気か」と叱られたようだ。

新任の先生や正規の先生たちは大量に解雇される先生を見て、「そんなに急速に解雇してその後がどうなるのですか」との疑問が渦巻いた。

 いくつかの学校では2クラスを1つにまとめたりして先生不足に対処しているが、どこも苦心惨憺のようだ。

 会川鎮では53目の先生が解雇され、全県では500数名の先生が解雇された。

中国国家としては試験に合格した人だけしか先生に採用しないという今後の方針だ。

 しかしその実現のために即刻解雇して本当に今後しのげるのか、教育関係者は全国で頭を痛めているようだ。

 陳先生は「党のトップは政策を決定する前に現場をよく視察して理解する必要があるのではないか」と疑問を呈している。「本当に代行教員という名前が中国にとって世界に恥を晒しているとでも言うのだろうか」とも言っている。

 民間作家の冠さんは長年村を歩いて「村の代行教員たち」というルポを書いた。

 “ 太陽が照りつける

代行教員が汗を流して

 冥利を求めず

 どこの村や山にもいる “

 と、その書き出しが始まる。

「中国の最後の代行教員たち、今彼等の任務は終わろう としている。だが彼等の精神は不死だ。その仕事を記録し、歴史に残そう。後日人々はこのような人たちによって中国が教育を受けたことを知る。
 彼等は如何なる苦労にも負けず、中国全体の中華民族の精神を作り出してきた」と記されている。
 王先生も登場する。冠さんの王先生への質問で「これまでの人生に後悔は」との問いに「全く後悔はありません」と答えている。 
 中国の教育を大きく支えてきた代行教員たち、その行為は高く、しかし今、琴の弦が切れたように消えていく。

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 訳者注: 
 一面では国内の美談にも受け取れますが、完全な人権無視、国家としての政策の欠陥です。

「職業を語ることが村での笑いものになる」、こ
ような状態を放置することが国家としてなぜ許されるのでしょうか。

中国の最近の月収は都会で2000元くらい。農民の臨時工で1000元くらいです。代行教員がその10分の1とは、もちろん普通に生きてはいけません。生きていけない賃金がなぜ公的な職員に許可されるのでしょうか。なぜ政党がそれを取り上げないのでしょうか。

 中国の記事を翻訳してきていつも思います。困窮に出会っている当人はそれを解決する発言権が存在しない、許されていない、という事実です。
( これを訴えるには北京へ行って直訴する手段がありますが、その受理は5%以下です)。

 これこそ社会主義思想の「非人権的側面」「構造的欠陥」です。

 社会の矛盾は選ばれた指導者が解決する、という発想です。これほど馬鹿げた発想はありません。社会の矛盾は常に発生・存在します。

社会主義思想では、いつか「階級対立が無くなれば矛盾も消える」と宣伝しています。

 本当は、矛盾や対立は如何なる社会でも常に発生し、それを解決する公的で公正な解決機関が機能するシステムが必要だと言うことです。

対立が起これば社会はぎすぎすした状態が生まれるでしょう。しかしそれに関係する人たち双方が権利を主張しあって公正な解決を求めることが出来れば、その方が本当は社会が平和なのでは。