日本人が中国で農村に入る

08/02/21  南方週末 黄小衛


    イ族の子供と

 30才の酒井順子さんは毎週1回、1時間程車に乗って、チベットのイ族の学校教育の仕事に向かう。彼女は四川省涼山州の州政府所在地から山奥深く分け入り、イ族の村にやってくる。
 そこで彼女が教える科目は日本語と公共衛生で、それまでそのような科目は現地には無かった。
 
 5ヶ月前から彼女は日本青年海外協力隊員としてここにやって来て、医療状況改善と他の2名の協力隊員と学校教育に携わっている。
 近隣には漢族もイ族、蒙古族、ナシ族等、10個の民族が住んでいる。
 青年海外協力隊は日本国際協力機構の一つで、開発途上国へ各種援助の目的で志望者を任期2年で技術者などを送り込んでいる。
 その活動は85年に中日両国で協定が成立し、現在まで600名、120の職種を数えている。
 その半分は日本語教師、その他文化、保健衛生、が多い。最近は社会福祉や環境保護・生活保護などの職種も増えてきた。
 酒井順子さんは3年前に中国に来て貴州蓮義市人民医院で看護士の仕事を担当していた。 
  中国へ来る前に彼女は日本で5年の看護士を経験し、中国に来るについては多くの経験者に相談したという。行く先に水がありますか、電気が来ていますか、等と。
 また彼女自身日本では新聞報道などで農産品の汚染や中国人が日本人を警戒すること、環境汚染、その他の吃驚するような事件を聞いていた。
 
 だが彼女は中国へ来て以来直ぐに、それらの心配は解消し中国人との友好も上手く行っているという。
 街の中では心配はないが、ただ車で郊外へ出ると驚くことが多々あります、と言う。
 中国へ来る前は両親も相当心配したようだが、しかしこの娘さんは決心してそれらの心配をはね除けて中国へ来て活動している。

 酒井順子さんは中国での生活に問題有りませんと胸を張る。ただ病院内の医療関係者が入院患者に対する態度は余りにも冷酷で納得できないと苦情を言う。
 彼女は中国の同僚に、何故中国では患者に冷たいのかと聞いたことがある。その答えは「中国では医療関係者が少なすぎ、患者も乱暴なことが多く、患者が入院費を払えないこともしばしばで、これを改善することは先ず不可能に見える為だ」と教えられた。
 看護主任も同じ考えだったが、酒井さんはせめて患者に笑顔だけでも見せて接するべきだと思っている。
 その後彼女は中国で2年働いてみて、同僚の考えがあながち間違っていないことが解ってきたと言う。中国では看護士があまりにも少なく、患者は余りにも多いことが解って、国情が違えばこのようなことは他国にも納得出来ないことがあるのかも知れないと考えるようになった。

 これら海外青年協力体の青年達は中国へ来ると、派遣先の地方と連絡して行き先を決定する。彼等の賃金は日本の協力隊が負担し、中国側は住居を提供している。
 彼等青年は日本で専門知識と経験を有る程度得た若者で、大方は「海外での経験」を望む気持ちが根底にある。現在中国にはこれら青年が60名活動している。
協力隊の北京事務所で働く”今間智子”さんは最初中国中央演劇学院へ留学に来た。その後99年に審陽で協力隊員として日本語教師を始めている。
 彼女が中国へ来た頃は、”協力隊の経験”が日本では評価や人気が高かった。しかし最近はその評価も下がっているという。
 9年前中国側が日本語教師として50名要求した所800名が応募した。だが現在は応募者が100名だという。
 先述の酒井順子さんは中国の地方を見聞きして興味が増した所へ、協力隊から短期公共衛生の仕事に就かないかと問われ、直ぐにOK の返事をしたという。そして昨年11月から涼山州赤十字会で働いている。

 彼女の仕事の内には、山奥の小学校で教える分も含まれている。その学校は先生が少なく彼女は大歓迎されている。そこは長年、貧困救済指定地域だ。
 そこ行って直ぐに彼女は子ども達に手を洗うことと歯を磨くことを教えた。だが子ども達はほとんどそれを実行しない。その理由をやがて彼女が理解した。その地域には水が無いのだ。水汲みは遠方まで桶を担いでいく。そのため炊事仕事は大変なことだ。彼等の生活習慣を衛生的にすることは、気の遠くなるような時間が掛かる、と彼女は気が付いた。生活改善には先ず経済面の改善が必要と彼女は言う。
 
 彼女が現地へ来て困ったことは、子ども達が極端にはにかみ屋で彼女が挨拶すると返事をせずに皆逃げてしまう。その理由も次第に分かってきた。学校周辺はイ族の村で子ども達は普段イ語で話している。

 そこで中国語を流離に話せる彼女は今度はイ語を勉強した。そしてある時恥ずかしそうな一人の少女に「お早う」とイ語で言うと、その子どもが逃げずに「お早う」と返答してくれたのだ。
 イ語はまだ幾つかの単語しか話せない彼女は「現地語を理解しない限り溶け込めないですね」と言っている。

 酒井さんの後釜に小林順子さんが赴任してきた。彼女の印象は「当地の食べ物はひりひりととても辛くて、慣れるまで時間が掛かりそうです」と言っている。

 彼女が中国へ来たのは幾つかの中国映画を見たからだと言う。彼女が見た映画は、「美しいお母さん」「私の両親」「あの山あの人あの犬」(山の上の配達員)等だ。彼女はこれらの映画に感動した。「私が中国に来たのも運命の流れでしょうか」、と言う。
 でも彼女が知っていた中国とは、北京の林立する高層ビルと工事中のクレーンなどでしか無かったようだ。

 彼女に比べ酒井順子さんは中国の各地方を見て廻っている。彼女は言う「私は北京、上海だけではなく、多くの友達も知っています。友達らが祖国という言葉で愛している国であることを知っています」と言っている。
 彼女は今年4月日本へ帰る。その後の予定について彼女は「中国でやって来た公共衛生とその管理方面で働きたい。こう確信したのも中国で得た掲示かな」と言っている。
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訳者注:

 この記事も今号に掲載された日本の経済援助特集の一つ。この記事の初めにも日本から中国への経済援助の規模の大きさの説明がありましたが他の記事に訳したので省略しました。
 海外青年協力隊員が中国への援助を目的に行っていますが、でもそのことは隊員自身にとっても大きな経験、有意義な体験で、国際的な視野を養成してくれるでしょう。そのような青年が増えることは日本にとっても大切なことです。