開放・透明を貫こう

08/05/29 南方週末 編集部

 5月24日、温家宝総理は映秀鎮の廃墟の上で記者を招待した。その席上「今回の災害については徹底して”開放”を貫く」と述べた。
 その具体的内容は、世界の新聞社の参加を認め、公正・客観・事実を元に報道することだと言う。
 
このようなことはまさに新中国始まって以来のことで、中国はすでに「開放」が始まっていることを歴史に記録するだろう。今回の地震を通して中国が開放と透明の国、新しい中国になったこと意味している。

 開放しなければ人命は救えない。透明でなければ人命は救えない。この大地震で数千万の子供達の命が危険に晒された中で、今回の決定が下された。無数の命がこの新しい道を切り開いたのだ。開放・透明、この合い言葉は中国社会で共通に認識されるだろう。それは巨大な宣言である。

 新中国始まって以来、国民達が自ら避難民救済に立ち上がることはなかった。
 新中国始まって以来、外国の支援を受け入れたことはなかった。新中国始まって以来報道機関が自由に報道できたことは無かった。

 これが可能なのは、すなわち中央政府自身が変化していることを意味している。
 中央政府が人命を最も大切なものと認識したことを証明している。
 政治が人間性を重要視し、現代文明に適合できる可能性を証明している。そして今後一層、開放と透明が進められることになるだろう。

 この宣言は政府自身の大きな試練である。これまでの伝統的形式的な政府ではなく、現代化に向かって転化しつつある政府である。国民の生命と権利を実現するという一大転換点を超えたことを意味している。
  
 このような大転換は必ず国民の信頼を増し政府の役割を高めるだろう。政府と国民が手を携えることに成るだろう。両方の力が合成される時、その力は空前の規模にふくれあがるだろう。民間の集中的参加は政府に大きな信頼を醸すだろう。
 そのことがあればこそ、廃墟の上で温家宝総理がかくも明確に「開放・透明」を記者の前で宣言できたのだ。
 
今回の大地震で倒れたのは古い建物だけでは無くて、旧式の体制が崩れたのだ。そこに新しい社会規則が生まれたのだ。それは多数の生命と引き替えに生まれたとも言える。

 いまここに中国公民の社会が生まれつつある。崩壊と廃墟に変わって、旧態と腐臭に変わって開放と透明が生まれつつある。
 もちろんこれら開放と透明は一直線に進むものではない。それらを好まないものもいるだろう。
中国社会の中に広範に存在する非開放・不透明が染みこんだ体制の中で、目前の民族の命と血がそれらの変革を求めているのだ。
 
 総理は記者達に「人命が中心の社会」を追求すること、開放を目指すことは、今後決して変わらないだろう、と述べた。
 今中国は、これ以外の道は無いことを肝に銘じるべきだろう。

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 訳者注:
 多分このような記事を初めて見られた方は中国が今まで何をしてきたのか理解に苦しむでしょう。しかしこの記事はまさに正しいことを説明しています。
中国が如何に国民の生命と人権を疎かにしてきたかという、中国という社会の実態を説明しています。
 
 たとえば1976年、24万人が亡くなった「唐山大地震」の時政府は何をしたか。

http://www.ne.jp/asahi/cn/news/text/05/tukaizisin.html

 埋もれて「救命」と叫んでいる人達に「毛沢東語録」を送ってきたのです。

  今後、”命”を特に”人権”を大切にするなら、それはこの数年政府が大声で叫んでいる「現代化」と称することが出来るでしょう。
 確かにそれに一歩近づいたかに見えるこの「開放・透明」宣言ですが、これまでの中国では考えられなかった言葉であり、それを中国の法律や体制に生かすことはそんなに簡単なことではないでしょう。