1958年の「大躍進運動」の失敗原因とそ の影響

 南方週末  08/04/02 作者 楊圭松

「大躍進政策」:
 極度に権力が個人に集中した場合、下級役員は上の決定に従わざるを得ない。まして当時は狂信的な愛国心や民族的自信があり、何事も出来ないことはないと言う風潮がありその結果行われた政治行動であった。1958年の末から「大躍進政策」失政の結果が現れて巨大な荒廃が現出した。毛沢東でさえ「アメリカを追い越す」と言う言葉は再び言わなくなった。その反省は極端に走り、アメリカを世界革命で取り囲もうという妄想に走らせた。




全国で数千万人が”小高炉”を作り、”土法錬鉄”の”大衆運動 ”を始めた。

問: 今年は大躍進運動から丁度50周年、改革開放から30周年に当ります。改革開放については数多く報道されていますが、「大躍進」については余り見掛けません。その原因は何処にあるのでしょうか。

答:改革開放は成功例で「大躍進」は極端な失敗例で、しかも現在でさえその悪影響が  日々の生活に残っていますから、報道しにくいのでしょう。

問: 「大躍進運動」が”馬鹿らしい”ものだったと言い切れますか。

答: 確かに当時は自然を破壊し、炭を作り鉄を溶かして廃鉄を作ろうとした。それは確かに「馬鹿馬鹿しい」と言えるかも知れない。
 しかしでは現在はどうだろうか。実際の人々の生活を全く顧みず、税金を高騰させ、世界一を目指して巨費を投じ、GDPも上がったかのように数字を誤魔化している。環境汚染は子々孫々の時代まで悪影響を残すのではないだろうか。その思想にはやはり科学的な考えではなく、上に立つ者の意思一つで政策が決まっている。そこには庶民の汗と血が全く無駄に浪費されている。
 これらは大躍進と比べて五十歩百歩ではないだろうか。過去の失敗を今後に生かす工夫が見られない。

問:では大躍進から何を学ぶべきでしょうか。

答:人間に対する巨大な災害、自然に対する巨大な破壊、それらをもたらした原因を考察することです。一つ一つの出来事ではなくて、そのような失政が生まれないような社会的な考察こそが必要でしょう。

問:最近になって大躍進についての記事も出始めてきましたが、どれもが毛沢東が事を急ぎ、当時のトップ達が科学的知識が欠陥していたことを指摘していますが。

答:たしかに当時のトップ達の科学知識はあまり無かったのは事実でしょう。
 共産主義国家以外でも科学者がトップに成ることはあまり有りません。専門家が成っていればこのようなことが無かったかも知れませんが、自然科学は奥が深く多方面に専門分けされています。そのため広い管理能力という面では自然科学者より社会科学者の方が向いているのでしょう。
 毛沢東は自然科学者ではなかった。彼は幼少時に農村で育ち農村で生活していた。更に言えば田畑でどれほど耕作が出来るかも知らなかったでしょう。
 当時、彼が「事を急ぐ」あまり起こした失敗という言い方も不充分でしょう。何処の国でも「事を急いで」政治を行っています。

 問:では「大躍進」は何故起こったのでしょう。
答:その答えは2つあると言えるでしょう。一つは過剰な民族的意識です。もう一つは高度集権の政治体制です。その2つの根底には「人が天を支配できる」という過剰な自信が当時生まれていました。同時に生産に対する科学的知識が欠乏していたのに、ロマンチックな幻想に走る傾向が生まれていました。膨大な民族の”数”があれば膨大な”産”が生まれる、と言う自信でした。

 問:有る本に記されていますが、毛沢東は当時を振り返って「製鉄がこれほど複雑とは知らなかった」と言っています。鉄を溶かすこと、それらを運ぶ方法、炉を作る方法、どれも民族的悲願ゆえに考慮され無かったのでしょうか。

答:大躍進は毛沢東の「強国」を創るための悲願から出ました。この夢は毛沢東一人のものでは無くて国家上げて誰もが望んだ夢でした。民族的悲願で同時にそれは盲目的自信だったと言えたでしょう。他の国の人にとっては信じられない不思議な現象だったのです。
 新中国が出来たことで、誰にとっても何千年に渡る長く貧しく虐げられた歴史を振り捨て、何とか繁栄にたどり着こうとした理想だったのです。建国宣言の「ここに中国人は立ち上がった」に、人々は大歓声で応えたことがそれを示しています。これからは腰を伸ばして生きていくのだという強烈な気分が生まれていたのです。

問:なるほどこれは面白い説明ですね。

答:近代の中国のトップは誰もこのような気持ちを持っていました。蒋介石は「中国の運命」と言う本の中で、欧米の文化よりも中国の文化を尊ぶこと、自国の民族を尊敬することを強調しています。毛沢東は蒋介石よりも強く世界一を目指していました。
 当時、延安に居た共産党の面々は西欧がソ連の十月革命を参考にするなら、他の後進国は中国を参考にして「農村が都市を包囲し、武力で国家権力を奪う方式」をモデルにすべきだ、と議論していました。建国後はアジアの労働者に対して、中国革命の方式をモデルにし、解放軍を作り武力闘争を始めるように宣伝しました。この思想はスターリンによって認められ、アジアの多くの共産党に支持されました。印度と日本の共産党も一時はこの方式で武装闘争を始めています。
 当時のアメリカは、中国の人口過多が国民の重要問題を解決できない、という白書を作っていたのに対し、「粟飯と小銃」でアメリカが支援している国民党を破ったことで、毛沢東は意気揚々とそのことを自慢して手紙に書いています。

 人口過多に対するアメリカの問題意識に対して、毛沢東は「中国の人口が多いことは大変良いことだ。人口が多いほど良い。人口が多い程それは宝であり、人間が価値を作り出すだろう。人間が物を作り生活を豊かにする。文化を創る。そこに悲観的なものは何もない」と自信満々に記しています。このような文言から当時1958年の剛毅な熱気を伺うことが出来ます。

問:当時のアメリカが中国敵視政策を採っていたことが逆に毛沢東を意固地にさせたのでしょうか。

答:恐らくそれはかなり大きな刺激となっていたでしょう。「新中国」建国宣言して大陸全体を1950年末までに統一しました。その後すぐに朝鮮戦争が始まり、アメリカが台湾海峡に第7艦隊を派遣したことで台湾の接収を不可能にしました。毛沢東は出鼻を挫かれて他人の話を聞かなくなっていました。そして朝鮮への出兵を決定したのでしょう。当時の言葉では「ソ連が兵器を出せば中国が兵士を出そう。そしてアメリカが何処まで出来るか見てやろう」と称しています。
 アメリカと対等に闘ったことは中国にとって「光輝」と言える時代でした。中国人全体が気分を高揚させたものです。実際はソ連の提供した軍備が大きな役割を果たしていたことは事実ですが。
 また、陸地戦ではアメリカと対等であったにしても海上と空中戦ではアメリカが圧倒的に有利であったので、台湾開放は不可能でした。

 1953年にスターリンが死去して朝鮮戦争が停戦となり、ソ連の新しい指導層は平和路線に変更。中国もそれによって台湾開放は外交問題として話し合いで解決しようということになりました。翌年周恩来がアメリカと交渉することに成ったのですがアメリカから拒否され、そのことが毛沢東を怒らせました。
 彼はこれまで通りアメリカとは武力闘争を続け、「中国人民の尊厳を力で守る」べきであったと後悔しています。
 そしてベトナムと朝鮮での休戦が締結されて直ぐ、毛沢東は台湾の武力解放を決定し、大陸から金門島へ砲撃を開始しました。アメリカ人の鼻をあしらってやるという意気込みでした。実際半年の砲撃でアメリカは中国との対話を求めるようになり、毛沢東は大きく満足しました。

 問:当時のアメリカは中国建国を認めず敵視政策を続け、国連での代表権を拒否し、中国への経済封鎖政策を採りました。

答:これらの問題を通じて毛沢東は経済面の強化が極めて大切であることを痛感し重工業と国防強化に力を注ぐようになりました。
 毛沢東の言葉で「現在中国人は世界で”ぶざまだ”と見られている。しかしアメリカの人口は1億人、中国には6億人強が居るのだ。アメリカを追い越そう。その時こそ中国人は世界に万歳を叫ぶことが出来る」と言うのがあります。
 そのことは当時インドネシア総統のスカルノにも話しています。
スカルノが「中国の国連加盟を早く決めましょう」と言うと、毛沢東は「まあ、そのことはゆっくりで結構です。国連で例え3分の2が中国の加盟を認めたとしても、アメリカ、イギリス、フランスが反対する限り中国の国連加盟と台湾の中国への帰属は決まらないでしょう。中国は大国ですが強国ではありません。中国には何もない。アメリカには原爆がある。」
 この様な国際環境の下で毛沢東は自国強大を計ることが一番大切であることを痛感したのです。そうしない限り国連加盟も台湾取得も出来ないと悟ったわけです。
1956年、全国に太鼓を鳴らして「社会主義的所有制完成」を宣伝して廻りました。ソ連が12年で経済を回復させその後3年で社会主義所有制度に移ったのと比べると、中国は3年で経済回復し、3年で社会主義所有制度に移ったのは極めて早く立派なことだと宣伝しました。

 毛沢東はソ連の経験を学ぼうとする周恩来などの提案を蹴って、中国は必ず経済建設でも奇跡を起こすことが出来る、と言い張りました。
 アメリカの人口は1億7千万人しかいない、中国にはその数倍の人が居る。資源も豊富で気候もまあまあだ。必ずアメリカを追い越すだろう、と主張しました。まして社会主義経済は資本主義より優越性がある。50年もすれば遙かにアメリカを追い越しているだろう。その頃中国を認めない国など有ろうか、とも言いました。

問:貴方の資料によると毛沢東はいつ頃アメリカを追い越すと考えていましたか。
答:ほぼ15年くらいでイギリスを追い越し、その後30年くらいでアメリカを追い越すであろうという見方を1956年元旦の人民日報に発表しています。
 
 これが58年の「大躍進政策」発表の下地と言えます。57年にはソ連が15年後にはアメリカを追い越すと発表しています。
 アメリカはこの頃中国との大使級会談の意義はないと発表したことが毛沢東を激怒させました。そして「大躍進」へ突き進むことになります。彼は「経済建設は戦争より遙かに簡単だ。全ての部署は大躍進の準備をするように」と命令し、イギリス・アメリカを追い越すことと当分の和平会談を諦めさせたのです。すぐに周恩来を外務大臣職から外し、外交を要求する人々を「右傾保守主義」と批判しました。更にアメリカに対し「15日以内に会談を開かない場合は全ての責任はアメリカにある」と警告を発して、金門島攻撃を準備しました。
 大躍進が始まると直ぐに全国で「奇跡的な大収穫」が生まれているという報告が連続して中央に届けられました。平年の数倍、中には十倍、百倍というものも出ました。
 全国で九千万人が一斉に鉄くずを拾って手製の溶鉱炉に投じました。各地の様子が全国に報道されて行きました。勿論鉄鋼生産量が急上昇という報告も上がりました。
 58年5月、党中央は大会の席上、毛沢東はイギリスを超すのに7年、アメリカを超すのに8年で可能だと発表しました。その1ヶ月後、その計画を更に縮めて造船・自動車・電力以外は1年後にはイギリスを追い越すと発表し、もうイギリスなどは問題にならない、アメリカも5年で追いつき7年で追い越す、そのために全同志は奮闘して欲しいと激励しました。

 58年の夏、中国の全国で発生したことが毛沢東の精神を如何に激変させたか、推して知るべしでしょう。

     訳注:全農家が耕作を放棄して鉄作りに参加したため、この頃から農村で餓死者が続出している”真の情報”が中央に届き出        す。毛沢東の出身地だけで1000万人が餓死したと届けられている。  最終的には人類史上極めて珍しい4000万人の餓死者を出した。

 問:当時の地方幹部は何故奇跡的な増産が生まれていると中央に報告したのでしょうか。嘘の報告をしないと厳しい処罰が行われたのでしょうか。毛沢東は何故全国からの嘘の報告を鵜呑みにしたのでしょうか。”奇跡の生産増”を自分で見に行かなかったのでしょうか。

答:正にこれこそが体制の問題なのです。新中国では高度の中央主権制度を造り上げました。幹部の選択と罷免は全て一人が命令できました。幹部の家族の生活や福祉面まで上の人が決めました。大衆で選挙されるということが無くなっていました。上の人は下の人の報告や成績でその人の昇進を決めました。
 また全党で「右」より元気な「左」が好まれました。その結果嘘でも何でも作り出して好結果を報告する体制が出来てしまいました。そうすると上の者が下の報告を見抜くことが困難になってしまったのです。例え報告に疑問があっても、その報告をもう一つ上に上げるには「左」で元気が良いものにしたくなるのです。
 当時のことですが、有る地方幹部が農民の生活調査で現地に行きました。そのことを事前に知った村では全ての鴨や豚などを2軒の家に集め、裕福に装ったのです。幹部はそれらを見て「我が村はたいしたものだ」と満足して帰ったという話があります。そうしてその幹部は当然上に好状態を更に上乗せして報告し昇進しました。

 どの階層の幹部も嘘の報告で自分も得をするのです。毛沢東だって地方視察に出かけるとなれば、当然現地は「奇跡の生産増」を演出し、現地幹部は出世を計るでしょう。真理を知ることはほとんど不可能に近かったのです。

 問:上の命令通りに下は働き、その結果を嘘を付いても好結果として報告する、それを更に成績を増大して報告していく。誰もが自分だけの出世に夢中になる、そして社会的に厳重な災害をもたらす。これらの欠陥はこの新聞の読者ならよくご存じでしょう。 結果的にこのような社会が毛沢東の政策に何をもたらしたのですか。 

答:1958年に起こった外交政策を見れば明らかです。
 周恩来が外交から外され、平和共存政策が廃止されます。そして3つの異常現象が見られます。
先ず第1は、4月3日、日本の長崎で右翼が中国国旗を破損した事件があり、当時の岸伸介首相は両国に外交関係がないことを理由に中国に謝罪をしなかったことがあります。そこで毛沢東は対日貿易と文化交流を禁止します。
 次いで2つ目は、7月21日ソ連駐華大使が「中国とベトナムとソ連とが潜水艦条約を結び、アメリカの台湾海峡封鎖を協力して排除しよう」と提案しました。それを聞いた毛沢東は、ソ連が中国の技術を甘く見ているとして激怒し、民族的屈辱だと高言し、駐華大使を呼びつけて抗議しました。それを聞いたソ連のフルシチョフが慌ててモスクワから謝りにやって来ました。でもこれが1年後には「中ソ対立」の下地となるのです。

 3つ目は8月23日、金門島への攻撃を再開し台湾海峡に緊張が生まれますが、毛沢東は「緊張は良いことだ」と言っています。

問:1990年代に出版された「建国以降の毛沢東語録」によると、毛沢東が彭徳懐に対して7月24日の金門島攻撃開始を決定した中央軍事委員会のことを印した電報を送りました。その中に、「眠い目をこすりながら考えているんだが、中東でも紛争が始まったことだし、急いでこちらから攻撃を仕掛けることもないかな。我々には時間はたっぷりあるから、相手が仕掛けてきてから攻撃しようと思う」と書かれているのはどういう意味でしょうか。

答:金門島攻撃と決定した27日、イラクで左翼の武力闘争の政変が起こり、イラクはイギリス・アメリカとのバクダッド条約を廃棄すると宣言しました。事前にイラクに対しクーデターを起こしたときには金門島を攻撃してイラクを支援すると約束していましたが、アメリカ大使から金門島問題解決の会談要求が届き、毛沢東は民族優越感から、その提案に乗ってやるのも良いかな、と考えて彭徳懐に電報を打ちました。
更に大きな問題があります。少し前の56年にフルシチョフ秘密報告で、ソ連共産党の20の秘密としてスターリンの独裁を批判していましたが、それを聞いた毛沢東は心理上大きなショックを受けフルシチョフを敵視していました。毛沢東はフルフシチョフの平和共存政策とその外交を毛嫌いしていました。フルフシチョフはスターリン批判することで実際は共産主義革命を恐れているのではないか、と言っています。そこで58年、大躍進政策による成果が報告されるようになると、フルフシチョフの存在が大きな邪魔になりだしました。丁度その頃イラクの中東革命政変で、ソ連はそれを支援すると宣言してアラブ地区のアメリカ艦隊を非難しソ連独自に軍事演習を開始してアメリカに抑制を強要しました。それらのことは毛沢東にとって自分の存在が小さくなり耐えられないことでした。なんと、フルシチョフが革命を呼びかけている、それは毛沢東にとって耐えられない「自分が世界革命の中心にいる」という自尊心の破壊でした。

その頃アメリカからは中国に対し金門島攻撃中止の会談要求が出ていました。それは中国から見ればアメリカの弱腰です。この関係を毛沢東は大事にしたかった。
そこで金門島現地担当の責任者”葉飛”を呼び金門島の攻撃準備と大砲数などを質問しました。「そんなに多くの大砲を撃てばアメリカ人が死んでしまうかな」。それを聞いて葉飛は「金門島には国民党の軍事顧問としてアメリカ人が一人います」と答えました。主席は「そのアメリカ人には攻撃を避けられないか」と聞きます。葉飛は「これだけ大砲を撃てば誰が死ぬか予想など出来ません」。すると主席は10分以上考えても結論が出ず会議はお開きとなりました。
 その翌日、毛沢東は数百発の攻撃を命じましたが、海面上に向けて発射するように指示しました。特に指揮所にいるアメリカ人には当たらないようにとの命令でした。当時の海岸には30以上の小隊が待機しており、一度に10万発の砲を打つことが出来る状態でした。これだけの兵が目標を極限して打つというのはほとんど不可能でした。
彭徳懐と葉飛と毛沢東が算段して1万発程度の攻撃が開始されました。
 ここには毛沢東の心理上の矛盾が現れています。大躍進時代の国を挙げての興奮状態に満足している姿が一方にあり、同時にソ連とアメリカから相手にされなくなることへの不安が共存していました。実際はアメリカを追い越すことは長期の問題であり、ソ連から革命の中心の旗幟を奪うことも難しく、どの辺で手を打つかで焦っていたのです。

 問:金門島攻撃でアメリカとの会談は中止になったのですか。

答:いや、9月15日中米会談が開かれ、彭湖島は中国の領土だという確認がなされ、中米は武力衝突を中止し平和手段で解決することを決めました。当時中国国内は大躍進で盛り上がっていたので、アメリカに対しても談判を優位に進めたかった毛沢東は大いに失望しています。
 蒋介石はアメリカの支持が必要であり、アメリカとの間に矛盾があるはずと見て、蒋介石と手を握りアメリカと対決する策力も考えました。しかし60年に入り中国とソ連が対立するようになって、世界中に摩擦が絶えなくなりました。

 つまる所、大躍進政策の失敗は国民に飢餓をもたらし、外交面では孤立をもたらしました。その損失は計り知れないくらい大きいと言えます。

問:結果としてその歴史から私達は何を学ぶべきですか。

答:やはり民族主義的膨張政策は採るべきでないと言うこと。中国は数千年の歴史があります。数百年の屈辱の歴史を拭い去るために悲情な決意をしました。そこから正常な判断を欠き、形成を見分ける能力を失いました。これは毛沢東の現実離れした詩人のような資質だけが原因ではありません。
 49年に毛沢東がソ連を訪問したとき、「中国人は立ち上がった」と言う言葉に酔って民族的傲慢な気分が国全体に溢れていたのは事実でしょう。そこに悲情な決意が溢れていたのです。当時の中国のトップの中には、中国の毛沢東は偉大であり、外国の首相達は尊敬の念を表しに来るべきだと語っています。
 スターリンが毛沢東を駅まで迎えに来なかったのは失礼だと言いました。新聞に「スターリンが毛沢東に接見」した、と言う表現も失礼だと言いました。
 ソ連で行われたバレーを見て、その中に中国人らしい人物が小さく登場したので、それも中国を見下げていると非難しました。

 中国政府とソ連が航空・造船・石油などで共同経営をする契約が成立したとき、中国の学生達はソ連が中国の主権を侵害し中国の資源を略奪しているとして抗議のデモをしました。

 このようなかっての民族的屈辱感が強かっただけにそれに反発して民族的優越感を高揚させることは毛沢東自身にも大きな影響を与えたし、それは時代の波で避けるのは難しい面もあるが、しかし大躍進時代の教訓を学び繰り返してはいけないことでしょう。

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訳者注:
 大躍進計画:くず鉄や古い鍋などを集めて小高炉で再生しようとした計画。この無意味を知らなかったのは毛沢東だけかも知れません。しかし周辺の誰もこの無意味を毛沢東に教えませんでした。当時は中国内にも東北などに製鉄所があり、多くの専門家も居ました。全国で始まった製鉄作業の馬鹿馬鹿しさを誰も口に出来ない、そして4000万人の餓死者を出す、その愚かさと悲惨さは正に歴史的愚行です。
 この記事には「民族的高揚期」と「高度権力集中」がその原因と記しています。
何故、いつ頃、中国で「高度権力集中」が始まったのか。
 それは建国前に毛沢東が延安にいたときです。毛沢東は権力を自分の物にするために「整風運動」を始めます。”ブルジョワ修正主義”を歩んだ人は徹底的に自己批判しろ、と言う命令です。
 周恩来は自己の「出身が比較的良かった」、と言うことが決定的な弱みになり、それは建国以降も毛沢東に何度も利用されます。文革時には江青が北京で大字報で批判したりします。それで周恩来はそれ以降毛沢東には絶対反対しないことを誓います。それは彼の儒教精神が作用したとも言われています。
 林彪は面従腹背の態度を決め、公衆の前では毛沢東を誉めあげます。この「大躍進」さえ大賞賛しました。そして毛沢東暗殺を狙い、1972年失敗して国外逃走して墜落死します。
 この「ブルジョワ修正主義」を議論して独裁者以外を批判・非難することは、社会主義特有の現象で、ソ連でもこの言葉を使ってスターリンが独裁したと言われています。
 さらに、社会主義特有の国家体制がこの権力集中で成り立っています。能力のある選ばれた党が遅れた国民を指導するので、党は憲法に勝るという思想と体制です。党に対する批判・反論が機構として存在しません。裁判、公安、報道、議会、これら全てが党の下部組織です。党への権力集中が「人類解放の早道」と言う思想です。党への権力集中、即ち党のトップの個人独裁になっています。
 「人類解放」を掲げ、歴史上最悪の政治を作ってきた原因がここにあります。

 毛沢東死後、独裁批判が起こり、人治国家から脱出して法治国家になることを90年代に宣言はしますが、しかし現在もその体制に変わりはありません。