対中華援助30年の日本

08/02/21 南方週末 曹海東 黄小伝

 





 日本は1979年以来中国に対し2248億元の経済援助を提供してきた。その他各種の貸し付けや無償供与もある。両国間には複雑微妙な面もあるが、しかしこの数字が示す膨大な援助について知っている中国人は少ないだろう。

 1970年末、中国で改革が始まったが、それに必要な資金が欠乏している時代だった。国際的に中国に目を向ける国は全く存在しない頃で、日本が最初に中国に援助を始めた。
 戦争に対する賠償を放棄したことへの感謝の印としてそれは始まった。当時は両国とも貿易の需要が求められていた。そして始まった日本の援助と両国の貿易は中国の基礎的国家規模の諸施設建設に大きく役立ってきた。

 1989年以降も日本から中国への援助は継続し、97年から01年の援助額は増額し続け、01年には2144億円(142億元)に達している。

       訳注:以上の文はその他の日本関係の記事の冒頭に           も記されている。

  経済的支援以外に日本はこの30年の間、技術経験を持った年長者を中国に派遣し続けている。その種の協力は産業技術は勿論、文化・教育・衛生・環境保護などの広範囲に及んでいる。歴史問題で両国の関係が上手く進まないと言う状況にあるが、経済援助から伝染病予防、水資源利用に至るまで幅広い援助と交流が続いている。

 そして30年後の07年には、日本から中国への輸出額は2630億ドルに達し、中国から日本への輸出額はアメリカを超えて輸出第1国になっている。

今年の3月で(08年)日本から中国への経済援助は終了する。だがその後も各種の援助は続く予定だ。

 ”雪中炭送”

 これまで対中国援助の窓口になってきた北京にある日本国際銀行はその役割を終了し、技術協力無償援助機関などと一本化される。
 日本外務省が南方週末に提供してくれた資料によるとこの30年間で経済援助総額は約3兆4000億円(2248億元)になる。 

 それらの援助項目は鉄道、道路、港湾、飛行場、等々国家的基礎施設で農村開発、環境保護、医療保険など高範囲に及ぶ。その実施地域は中国の全省に至る。
 北京の地下鉄1号線、北京飛行場、武漢長江2橋等日本からの援助で建設された施設は中国人なら誰でも知っているだろう。
北京の地下鉄1号線は総投資額の20%が日本からの援助金だ。

 1979年、日本の首相、大平正芳が中国を訪れ、「中国の改革開放を支持し、現代化の為、経済的・技術的協力をする」と表明。その少し以前に中・日国交正常化が始まり、中国は対日本への戦争賠償を放棄すると表明している。

 その頃は正に中国が外国への門戸を開いたときで、外貨準備は欠乏していた。中国は技術導入や基本施設建設に外貨を絶対的に必要としていた。日本からの低金利・長期貸付けは中国の発展にとって焦眉の急に応えた。

 1980年から経済貸付が始まり、北京に設置された日本海外協力銀行北京代表として中国に来たのが”竹内克之”氏で、かれは在務の6年間、実に精力的に中国側の関係者を良く指導してくれた。

 79年から84年の5年間で提供された貸付額は3309億円で、秦皇島の港湾とそこから北京への鉄道建設などが主として建設された。
 現在の開発銀行総裁の中里太治氏は当時のことを、「中国側の重点目標と計画を研究しその完成に必要な項目を懸命に研究した」と述べている。
 戦争責任賠償放棄への見返りであっても、それ以降の日本からの低利貸付援助が中国の高度成長に大きく役立ってきたことは紛れもない事実だ。
 その後も日本から、時の首相が中国へ来るたびに経済貸し付けの約束がされている。
  84年3月、中曽根首相の時は4700億円を約束し、4年後の竹下登首相の時は6年間で8100億円を約束している。それらが中国の港湾埠頭・鉄道・発電所・通信施設建設に投資された。
 92年に26才で中国に派遣された中里氏は北京大学で中国語を勉強しながら中国各地を見学した。彼がその頃受けた最も大きな印象は、中国西部の立ち後れと貧窮な生活だったと受懐している。諸器械の不足や都市の立ち後れだったという。

 当時の中国は涸れきった大地と動乱の傷跡が各所に残っていた。日本からの資金援助は正に「雪中送炭」の例え通りで、開発に大きく貢献し、その資金総額は94年までで中国GDPの0.29%を占めていた。
 中国の社会科学院副所長の金シタ氏も「中国の経済発展にとって日本からの技術経済援助の重大性」を指摘している。
 
 97年から01年に掛けては援助額が増大し01年は2144億円(142億元)に達した。それ以降の投資項目は都市建設から環境保護や人材育成方面に移っている。 
 契約もそれまでの5年毎ではなく1年毎に変わった。

 問題点 

 北京正東電力集団は7年の資金援助を受けて建設されたが、その時の利率は0.75%、返還期限は40年、最初の10年は無利子となっている。一般の銀行貸し付けでは考えられない低利だと、電力集団総裁の黄世高氏は述べている。
 ただ中国の企業が資金提供を申請して以降審査などが完了するまでに17ヶ月も掛かっていることが中国側を不便に感じさせている。現在では中国のどの銀行も貸し付けは瞬時に契約が可能だ。

 さらに日本国際銀行の規約では資金提供による建設は国際的入札を受けること、建設材料購入は明確な競争原理に依ることなどが記されており、それが中国側にとって、しばしば足枷となることもあるようだ。
 特に中国側の精神を突く問題がある。それは日本政府内部の不協和音で「既に北京は国際的な都市になっているのに、何故日本人の税金をそちらへ廻す必要があるのか」という日本の国会議員の追求が伝わってくることだ。そして彼等議員が北京の日本国際銀行を視察するときにそれは明確に中国人に伝わる。

 技術の持ち込み

 日本国際協力機構事務所に勤める藤本正也氏は90年代末を懐古して言う、「中国側はとにかく技術よりも金銭が必要だと言っていた。しかし最近の中国は、金銭は何とかなる、しかし技術と経験が不足だ、としばしば言われる」と変わったと言う。
 そこで現在はその国際協力機構を通して技術者や経験者の派遣も頻繁に行われている。
  
 1987年に青年海外協力隊の一員として中国にやって来た江坂和隆氏は98年に夫婦で中国に到来し、企業公害防止制度の管理員として働いている。その制度と経験は日本では40年の実績があり、05年に中国で採用されるようになった。
 その制度の下で中国側の担当者が日本で訓練を受け、日本の専門家達と親しくなって帰国している。
国際協力機構は中国の20才から35才までの青年を日本に送り、エネルギー、工業、農林水産、行政、医療保険などの専門分野で教育を受けている。

 その制度の初めは研修者を中国政府が人選し派遣していたが、今は公募によって派遣者を決めている。すでにその研修を受けた人達の中から中国の専門家が多数育っている。
この制度が中日の技術移転問題にも深く関係するようになっており、第2次に日本で研修を受けた、現在では環境保護局副局長になっているひとがその制度の重要性を政府トップに進言して継続されている。

 その制度の下で教育を受け中国の各分野で指導者になっている人の年齢は40才から69才までに及ぶ。

 この制度以外で中国が大きく注目しているものに「海外青年協力隊」がある。そこで訓練を受けた日本の若者が中国の各地に行き、文化・保険・衛生・農林水産業などの分野で活動している。
 北京の日本海外協力機構の事務所に掲示された大きな中国地図の上に、中国各省に派遣された人達の居る場所が記されている。
 かっては中・日両国が手を取り合うことは複雑で困難な壁が存在していたが、協力隊員の貧しい農村での活動、伝染病予防、水資源利用活動などが両国の壁を明らかに薄くしている。
 
  3月の終結は新しい始まりに続く

 3月末の日本対中華協力機構の終結を、責任者の藤本正也氏は「金銭面では一応終了になるが、今後もその他の援助は続く」と話している。

 先ず技術供与は年間約40億円が中国に入ってくる。これは経済援助の年間最高額が97年に100億円であったことから見ても大きさが解る。
 これからは技術供与が中心で、環境保護、エネルギー節約、伝染病予防、中日相互理解、これまでの経済援助の深化等がある。更にその先には中日両国が共同してアフリカへの援助を始めるなどが考えられているようだ。

 北京の日本海外協力銀行は事務所を移転するが、これまでの資金援助の継続の仕事が今後も継続される。
 現事務所代表の中里太治氏の客室壁には、黒竜江省高速道路建設完成を祝った額が飾られており、そこに「中日両国の友好は世代を超えて続く」と記されている。

 これまで中日間の関係には風雨有りで、援助についても波風があった。しかし現在中国全土に及ぶ日本の支援はこれからも何代もの世代を超えて受け継がれ、より一層の完成に向かって継続されていくだろう。
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 訳者注:
 このように報道機関が日本から中国への援助についてかなり具体的に記述したものは皆無と聞いています。
 この「南方週末」だからこそ書けたのでしょうか。
 日本側の議員が援助についてとやかく言うことに日本人としては気になるところです。
 援助額(本来は賠償額)は「日本が中国に与えた戦争被害に対してそれ相当のものを返す」べきもので、北京が大都会になったかどうかは全く関係有りません。
 どのような援助をしたかは永久に世界から厳しく評価されるので、正当であることが第一でしょう。
 
 中国との関係が、最も近い国であり、これからも相互の影響は深まり続けることは明確なので、またそれは良いことなので、暗く正義でない”しこり”を残しては後世に良くないでしょう。

 中国で若者の反日運動が起こったりしていますが、しかし中国の産業・政治の中核を担う人達の多くが日本で教育を受けた人達が占めていて、彼等は日本の技術の高さや信頼度について理解をしています。これからは相互の信頼が大切な時代です。
 

 














30年前の貴陽特殊鉄鋼公司
日本の援助で環境保護されたあとの公司