バイク上の夫婦

08/05/28   Sinopix提供  平客  




 5月14日午後、アメリカ国籍の沈棋来氏は震源地近くの漢旺の技術学校へ採訪に来た。その学校の校舎は全壊で、その下に学生達がまだ大勢埋められていた。救援隊が建物の残骸を取り除く作業を続けたが、すでに救出の希望は断たれていたので、彼は学校を離れた。
 彼が街角に出たとき、1台のバイクに乗った青年が電話をしているのを見た。バイクの後部には一人の女性が乗っており、前部の青年の身体にしっかりと縄で結ばれている。
 女の身体を見ると靴を履いていない。どうも生きていない様子に見えた。

 沈さんは不思議な光景と思い、そのバイクの2人の姿を前後2枚の写真に撮った。

 沈さんの助手がバイクの青年に近寄り尋ねた、「後ろの人は誰ですか」と。
その青年は「私の妻です。もう死んでしまいました」と答えたのだ。
 そして電話を終えバイクを走らせて彼等の視線から消え去った。
 その間ちょうど1分間だった。その青年の邪魔をしてはいけない気もあって青年の名前は聞かずじまいだった。
 その周辺の人に尋ねると、地域の習慣として大事な人を亡くしたときは街外れの静かなところに埋める習わしとのこと。
 沈さんは「あの青年の目には一滴の涙も見えなかった」と強調している。

この写真が5月15日のイギリス「デイリー・ニュース」に掲載され、それがすぐにインターネットや各国の新聞にも載り、、世界を駆けめぐった。
 
 沈さんは四川に滞在した6日間悲惨な現場を数多く目撃した。しかし「泣いて居る人はほとんどいませんでした」と言う。

 5月15日、北川で崩壊した幼稚園廃墟の上で、我が子の奇跡の救出を願う親たちが辛抱強く座り続けた。
 ある母親はわが子の名前を叫び続け、ついには声も枯れて出なくなって、やっと静かになった。そしてミルク瓶を取り出しそれを廃墟の上に垂らして「お母さんがここにいますよ。ほらミルクをお飲みなさい」と囁くのを沈さんは見た。
 
  また若い父親が地面から出てきた我が子の遺体を見ている場面に出会った。しばらくそのまま黙っていたその父親はやがてナイロンの袋に我が子の遺体を包み立ち上がった。そこへ巡回の警官が来て「現場を早く去った方が良いですよ」と言うのを聞いてその父親は遺体の娘を抱いて歩き出した。少し歩いて父親は水を飲んだ。そこで通行人に頼んで電話を借りて遠くへ出稼ぎに行っている妻に連絡しようとした。しかし何回掛けても電話は通じないようだ。
 
その父親は「写真は撮らないでくれ」と言うのを聞いて、沈さんは若い父親が廃墟の中を歩いて行く後ろ姿だけを写真に納めた。
 その間、その父親の目にも涙はなかった、と沈さんは言う。

 1972年生まれの沈さんは12歳の時アメリカに渡った。2000年から写真家として「ニューヨーク・タイムズ」等のメディアに中国の実態を写真で掲載してきた。

 01年春節の時、河南省でエイズ病の治療患者達を撮影したものが 英国の「タイムズ」やドイツの「明星」等に掲載された

 今回の地震について中国政府は報道解禁を約束したので沈さんは希望を持って現地を採訪した、と言っている。


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 訳者注:
 悲惨な状況が伝わってきます。
 ただし日本ではこのような形で遺体を運ぶことが可能でしょうか。医者の「死亡確認書」などを携帯しないと搬送は不可能では、と思いますが。それは文化・習慣の違いでしょうか。

 日本では遺体をいったん学校体育館などに安置し、医者が死亡を確認した後遺族に引き渡されます。
 この記事のように現場の瓦礫から遺族が直接引き取ることは日本では許されないでしょう。警官が見に来て早く家に引き取りなさい、というのは、中国ではそのような法律がまだ無いことを示しているのでしょう。 

 先日、日本のNHK衛星放送が「農民工の冬」と言うドキュメントを放映しました。中国全体では2億の農民が都会へ出稼ぎに出ています。都会では住居や教育などの権利を取得できない農民達、都会の住民の半分以下の年収で苦しんでいるいる農民達。
その家族が農村に子供達を残しています。その子供達が今回の地震で親と永久に会えなくなったのです。