1958年に卒業

08/01/31 南方週末 雛 啓宇



 1958年7月に大学を卒業、後は国家の「分配」(就職指定)を待つだけとなった。
 当時は全ての学生が計画経済制度の「分配」で就職先を指定されていたので自分から捜そうとする学生はいなかった。もし自分で就職先を捜そうとしたら、すぐに住民委員会から或いは公安から「何をしようとしているのか」と質問を受けただろう。

 就職先決定は政治要素が第一で学業成績は第2だった。当時の政治条件とは、先ず親の出身階級、それから社会的人間的繋がり、そして「反右派の闘い」での行動評価だった。それによって「右」「中」「左」と区分けされた。1クラス40人で誰も自分や仲間がどのクラスに評価されているかは明確に解っていた。「中」も「右」も更に細かく多くのクラス分けがされていた。ただし「右派」以外は表面的に宣告されることはなかった。

 毎日「分配」の命令が来るのを待つだけの日々が続いた。その待つ場所として当地の党組織は「左以外」の全ての学生を昆明の重機械建設工場で働かせた。その肉体労働を通じて思想改造が出来ると訓辞を受けた。
 私は身体が丈夫だったので、荷車引きも天秤棒担ぎも、泥運びも別に苦しくはなく、「思想改造」に役立つとも思えなかった。毎日泥まみれで働いたが平気だった。

 8月下旬に学生達は学校へ戻るように指示が来た。引率する党員と数人の学生達は「分配」先を知っているような口ぶりだった。北京配転が何名、外省へ廻されるもの何名、学校に残って教師に就くもの何名、と言う噂が伝わってきた。
 学校の下級生が私に「先輩は学校の教師に成られるのでしょう」と挨拶しに来た。しかし私は内心そんな「先輩を持ち上げる話」に納得するはずがなかった。というのは私の評価は「中派」で学校に残れるのは「左」の8人ぐらいだと知っていたからである。
  待てどなかなか「分配」の発表はなかった。9月になり、下級生の授業が始まった。例年の行事となっている卒業写真を撮るという話さえ誰も提案しなかった。

 卒業写真の話がまとまらないには理由があった。「右」「中」「左」が一緒の記念写真に収まっても、「左」の人は直ぐに写真から「右」を切り取ってしまうだろう。写真の真ん中に誰が座るのか。先生は「右派」で、その先生に「一緒に写真を撮りましょう」、などと誰が言うに行くのか。結局、1958年の卒業写真は実現しなかった。

 同級生に”趙××”と言う人が居た。学校では各年生の「右派」を集めて指導談話が催されていた。そんな時、党組織は数名の「学内こそ泥」を捕まえたと発表した。その中に趙さんがいた。彼は勿論、他人のものを盗んだりしなかった。それは明らかに彼を侮辱する為の処置だった。政治的判断からの処理だった。それで彼は「右派」の第3類という区分に入れられた。
 彼は教室で「俺は泥棒などしていないぞ」と、大声で叫んだことがある。すると党幹部が飛んできて「貴様、学内を混乱させる気か。もっとお前の評価を下げたいのだな」と叱りつけた。趙さんの目には涙が貯まっていた。不当な仕打ちを恨んでいる目つきが私には見えた。彼の「分配」は遠く離れた四川省の農業作業所に廻された。日当25元を貰うことになった。
 
 学生の中に25才くらいの人が一人いた。名は龍××と言った。彼は勉学を求め、その関係の職に就きたかったのだ。ある時、私は共産青年同盟に入っていたので、指導者が「これが君の任務だ」と命令してきたことがある。「右」の学生達は4班に分けられていたが、龍さんはその第2類という分類にいた。翌日の早朝、その2類の生徒達を集めて集会を開くという。そこで私は龍さんの宿舎の廊下に一晩座り込んで彼が夜中に逃げないように監視することが任務だったのだ。 
 学生の一人が部屋から小さな椅子を用意してくれた。それを廊下に置いて私は窓から中にいる龍さんを見張った。室内の学生達が誰も次々と寝付いた。龍さんも寝付いた。私は薄暗い廊下で用意しておいた雑誌を読むことにした。真夜中に猛烈な睡魔が来た。しかしそこで居眠りをしては私の政治評価が右へ移動してしまう。やっと朝の6時が来て学生達が起床した。龍さんもこちらを見て頭を振っている。あまり親しくなかったが、それでも4年間同じ教室で学んだ仲間だ。お互いに目配せして、まあ、それぞれの道を歩もうぜ、と言う挨拶を交わしたつもりだ。宿舎の外には監視役の他の学生が待っていて私と引き継ぐ形となった。

 またすぐに「右」の他の一人の学生の姿が見えなくなったことに気づいた。彼は「右」の第1類だった。やがて彼は公安に引っ張られたことが解った。そして22年後に解ったことだが、その学生は15年の刑に処せられたのだという。刑満期後も肉体労働の場に廻されていたという。
 
 そして私の「分配」が決まることになった。20数名の学生が集められて党書記の訓辞を受けた。
「君たちの将来が中国の将来を決める。この分配に従って欲しい。都市へ執着してはいけない。如何なる地方へ廻されても、そこで全力で働き人生を切り開いて欲しい」 
 その訓辞に対し誰も一言も反対意見は出なかった。シーンとしたままだった。反対など出来るわけがないことを誰もが自覚していた。その場の全員に新しい職場の名前と新しい戸籍と宿舎の規模などとそこへ行くまでの汽車の切符が渡された。集会後宿舎に帰ると誰もが興奮していた。雲南に配転される者、四川省に廻される者、貴州、河南省、など等、紹介しながらお互いに激励しあった。
 誰かがトウモロコシ焼酎を買いに行ったりして、その日は大騒ぎだった。

 いざ出発の前日、私は党支部に呼び出された。話は簡単だった。私の政治的発言に問題があるので、就職後は必ず党指定の日記を書くことだった。記録が1日でも欠ければそれは党への反抗と見なすという。

 私の問題発言とは2年前のことだった。夜に「誰でも言いたいことを話そう」と言う集会が党主催で始められた。「非党員が自由に話すことで党の成長が実現される」と言う説明だった。
 有る学生が「一部の学生党員は傲慢です」と話し始めた。指名された学生党員はそれに対して猛烈に反発し、集会の雰囲気が一気に険悪になった。発言は次第に具体性を欠き、ただ政治的尖鋭な言葉のぶっつけあいになった。
両者を支持する発言が少し出た、しかし私はどちらも支持しなかった。翌日も集会が再開され、「この集会は党を強化するための目的である。当然党員を支持する立場で参加すべきだ」と言う発言で再開された。
 そして「お前はどちらを支持するのか」と私が問いつめられることになった。私は「どちらの言うことに道理があるのか、それはこれからよく観察する必要がある。真理がある方を支持します」と答えた。
 そのことが私の「党を支持する立場が不明確」という判定になって、その後何度も私は呼び出され反省の作文や懺悔を命じられた。
 そのことが2年後も私の評価に影響していたのだ。党の処分を受けたことで私の卒業の想いでは楽しいものでは無くなった。一時も早く学校から離れて遠くへ行きたくなった。
 一体その処分はどの組織がしたのか、それは解らなかった。しかし11年後に学校内部の決定ではないことを教えられた。

 就職地への出かけの朝、7時半に昆明の駅頭に着いた。もう住み慣れた学校と宿舎に未練はなかった。9月の雲南は雨期で毎日雨が降っていた。私は3人の仲間と行く手が一緒だった。駅から長距離バスに乗り込んだ。バスは泥を跳ね上げガタガタと進んだ。丸3日後ミャンマーの近くの奥山の中にある職場に着いた。そこで私は一生働いたのだ。

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訳者注:
 マルクス理論の骨幹と言われる部分に「社会発展の原動力は”階級闘争”」と言うのがあって、中国の党は建国後毎年スローガンを決めて「反右派」という名の「階級闘争」を全国的に行いました。
 「何でも話そう」もその一つのスローガンです。文字通り受け取って社会にある矛盾を指摘したために、1年だけで現在の中国の教科書は50万人以上が追放されたと記しています。
 住民委員会も全国で住民の3%を敵階級として指名して糾弾大会を開きました。その「敵階級」の指名には住民の密告という方法を採用し、そのことがいつまでも近隣を信用できなくしています。
 そしてこの記事の翌年「大躍進政策」が発表されて、農民の餓死者が4000万人に達する人類史上最悪の大事件が起こります。
 それで毛沢東は一時主席を降りますが、「文革」を始めて政権転覆に成功しています。

 新しい「戸籍」
 中国が計画経済を始めると、全てを(生産から住民の生活必要品まで)北京で計算指示するために、職業選択と住居移動の自由を禁じます。学生は就職時に新しい「戸籍」を貰います。もしこのとき「農民」に廻されたら悲惨な身分になることはもう何度も記事に出てきました。市民となっても小都会から大都会へは移動できません。

それにしても学生の間でお互いに信用できない状態を創り出すことが何故「社会発展の原動力」と豪語して低劣な政策を全国的に実行したのでしょうか。
 若い学生を「懲らしめるため」就職先を決め、右派は牢獄へ送る、という異常政策。
(当時社会主義は資本主義よりも優秀だと自賛していました)

 実際は当然のことですが、建国以降は経済発展や農業生産高などがどんどんと下降します。

 この記事で登場する学生は現在70才くらい。建国後60年近く経ってついに、当時のことを公表できる状態をこの「南方週末」が実現しました。中国人達が涙なしにこの記事を読めるのでしょうか。