資本主義の残り滓を捨てろ


07/08/09 南方週末 肖陳

  後ろめたい想い出

 あのとき私は誠意を込めてその障害を持つ老婦人に「あなた方貧しい小・中農民は身体を張って闘い、完全に資本主義の残滓を捨て去るべきです」と説いたものだ。

 それは1960年代の中頃のこと、場所はウルムチの西南郊外の農村で倉庫が並んでいた。
 現在と違ってそのころは見渡す限り畑が続いていた。既にトウモロコシは実りに近く頭を下げていた。その周辺には百数十件の農民が畑を耕していた。ある崖の上に粗末な小屋があり庭は無く、トウモロコシが道路側の空き地を見つけて少し植えてあった。その実が風に揺れて静かな音を立てていた。
 太陽が照りつける道に沿って20歳過ぎの青年がやってきた。それが私だった。

 当時の私は社会実践の学生組長で労働工作副組長も兼ねていた。

 あばら屋の門前に立って私は中を窺った。この屋の主は農民ではなかった。鉄道関係の仕事をしていたようだ。その妻は障害者とのことで外へほとんど出かけられない人らしい。
 以前に数回この屋の主人を見かけたことがあったが、あまり印象の良い人ではなかった。いつも無口でほとんど挨拶もしてくれなかった。彼等の出身地がどこか、それもはっきりしなかった。
 
じつはそこへ行ったのはある工作組会議で組長が貧農中農と言えども正しい教育を受けるべきだと言い、その任務を私に命じたのだ。「早急に資本主義的残滓を消し去るように」とのことだ。

 あばら屋には門もなかった。ただ数枚の布が垂れ下がっているだけだった。それを潜って薄暗い小屋に入っていくと老婦人が1人いた。男主人は留守だった。その婦人には両脚がなかった。婦人が両手を使ってにじり出てきた。自己紹介しようとすると向こうからしわがれ声で「あなたが小組長であることは知っています」と言う。小組長の「小」というのはこの地方では愛称に良く使う言葉だ。
 婦人は鉄道事故で両脚を切断したという。夫が退職後、親戚知人が居る農村の方が暮らしやすいと言われて引っ越してきたという。

 家の中には何もなかった。周囲の壁だけが目に入った。私の心には彼女に対する同情心が芽生えてきた。しかしそこでひるんではいけないと自分を諭し、早速教育を始めた。
 「外壁前の空き地に植えている少しだけのトウモロコシ。あれは自分の土地ではないでしょう」と決めつけた。
 すると婦人は私の言いたいことが判ったようで、「はい、あそこは私の土地ではありません。この言うことを聞かない脚を引きずって外へ出て土地を均し一粒ずつ植えました。もうすぐ実ができるでしょう。そうすれば全部収穫します。これからはもう他人の土地に植えません。それで良いでしょうか」と聞いてきた。
 私の心には”あんな小さな土地のこと。両脚のない身体で土地を均し種を植え、水をやり肥料をやるのは大変な苦労だったろう”、とその辛さが身に染みて判り同情の気も湧いてきた。 

 だがそこで折れてはいけないと自分に言い聞かせた。今中国は政治がすべてに優先すべき時だ。数日前も国民党の残党員の老軍医が自分で土地を開墾しトウモロコシを育てているのを見つけた1人の青年が「資本主義的利己主義」と言ってその畑を全て潰してしまったことに私は拍手を送っていた。

 その元軍医の老人も脚が不自由だった。そしてこのトウモロコシが無ければ生きていけないと反論したとき、少しは同情の気持ちも湧いた。しかし、「資本主義か社会主義か」の政治の大原則を曲げるわけにはいかないのだ。

 そこで私はこの両脚が不自由な老婦人に対して「資本主義か社会主義か」の理論の大切さを説明した。
 ”自分のためだけに畑を作ることの考え”は資本主義の残滓です”と、説いた。
 そこで私の出した結論は、「もし10日後までにトウモロコシを全て抜き取らなければ、私は自分の任務として私が抜き取りに来ます」と言い伝えた。
 言い終えて私がその家を出るとき、その老婦人は両手を使って私を入口まで送ってきた。そして私が歩き出したのを見ながら「小組長さん。気をつけてお帰りください」と声をかけてきた。私は後ろを振り返ることが出来なかった。

 2日後村の革命分子が私に報告に来た。「副組長、老婦人のあのトウモロコシはすっかり抜き取られて綺麗になっています」と。
 「ええ?誰が手伝ったのだろう」と聞くと、その革命分子が答えた。「はい、私が抜き取りました」と力強く答えた。私は本心では口に言い表せない”すまない”思いが滲んだが、勿論それは外に出ないように気を遣った。

 あれから40年が経った。

 今でもあの両脚の不自由な婦人の姿を忘れることが出来ない。あのほんの少量のトウモロコシ、風に揺れてもう少しで実るところだった。
 あれは私が若かったから犯した罪だろうか。
 もし、もし、あの方のお墓のあり場所が判ったら、その前に立って謝りたい。
 「ごめんなさい」の一言を伝えたい。
勿論今はそのお墓を探すことも不可能だろう。

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 訳者注:
 これはまさに毛沢東生存中の「革命的時代」を代表する”典型的物語”です。代表的というか、象徴というか、とにかくこのような物語は建国後の30数年は中国人なら誰もが経験したでしょう。「社会主義」を礼賛して両脚のない老婦人家族を見殺しにするような運動の先頭に立った人もいるでしょう、革命的な言辞に諭された人もいるでしょう。このような物語は国中に星の数ほど生まれていたことでしょう。
 この記事は社会主義とは何だったかを語る貴重な歴史的証拠の1つではないでしょうか。
 当時の生産は「人民公社」で北京の命令で何を幾ら作るかが決められていました。計画経済で、人類史の中で最高の段階だと自称していました。実際は環境や生活の実情に全く合わず、生産は下降の一途でした。毛沢東が死ぬのが3年遅ければ中国は国家そのものが消滅していたと言われています。経済が破壊に直面していただけでなく、国民の生活もこのように破壊に直面していました。

 もう一つ歴史的証拠と思った記事は2004年3月の「先生ごめんなさい」でした。 http://www31.ocn.ne.jp/~k_kaname/text/04/rindarong.html

「星の数」ほど有ったと言う言葉はこれまでの翻訳の中にいくつか出てきました。
 その一つは無罪の人が牢獄に入れられる免罪事件です。それは中国には「星の数」ほど有ったと書かれていました。

 (建国直後の「誰もが自由に発言しよう政策」(百家争鳴)で逮捕され追放された人だけでも、中国の教科書では60万人いたと書かれています)

 もう一つは、学生中に恋愛していることが学内党員にばれ、就職時に何千キロ離されたとうい悲恋物語で、それも「星の数」ほど有ったと書かれていました。

 20年ほど前、私の家でアルバイトした中国の学生も、野原に出来たリンゴの木の実を取ることが、いかにブルジョワ的で利己的行為か、と批判されたと強調していました。
 
”あれは私が若かったから犯した罪だろう   か”
こんな文字が中国の新聞に出るとは本当に驚きですね。

 現代ではほとんどの中国人は間違いだったと「口に出す」ことが出来るかも知れません。
 そのことは人間的社会を考えたとき本当にすばらしいことです。中国が大きく民主化されつつあることが判り安堵します。
 しかし公的には、中国政府と党は、まだ間違いだったとは認めていません。
 何よりも怖いのは”法に基づかない”強制です。
 同時にそれに反論できない社会機構です。その体制は今も現存します。