野心あってこそ 未来がある


07/04/19 南方週末 投稿

 中国の経済発展について関心を寄せているケンブリッジ大学のピーター・ヌオラン教授は「19世紀末のアメリカや20世紀初頭の日本や韓国などの後発国が見事に工業化を達成したのは、その国に地球規模の競争力を持った企業が生まれていることにある。だが中国には無い」と述べている。
 教授はその理由については理解出来ないと言っている。

 86年、中国政府は自動車工業界の惨憺たる実力について、海外の技術を引き入れて中国に取り入れる方法を採ることを決めた。言い換えれば「接ぎ木」の様な方法だ。そしてそれ以降の20年は外国との「合資会社」が進められた。

 だが20年はほとんど何も得るところ無く過ぎた。中国への「接ぎ木」は技術ではなく「部品」が持ち込まれたに過ぎなかった。
技術の積み重ねなくして地球規模の企業成長はあり得ないだろう。

 それでも中国の自動車企業は少しずつではあるがそれを自覚しつつある。下請けメーカーの地位に甘んじることなく、独立出来ることを模索している。
 その道を国営企業と幾つかの民営企業が努力している。
 国営企業はその看板に物を言わせて、今や鼻息も荒い。だが識者が言う。市場では大きな顔をしているが、その内実というと、政治力に頼り市場には頼っていない。つまり身体が市場の法則に合致していないのだ。

 今後市場で奇跡が起こるとは先ず誰も期待していないだろう。

 だが、民営の「吉利」公司は企業内に強烈な野心を持ち、これまでも種々の競争に打ち勝ち、幾つかの危機を乗り越えてきた。
 今では国際市場でも実力を認められつつある。05年度、中国からの輸出は輸入を上回った。

 中国内の企業が力を付けつつあるとき、しかし同時に外国企業もいっそう強烈に市場に参入している。恐らく外国企業家の目から見れば中国企業はその内追い払われる様に見えているだろう。だがその様な外力が中国企業を奮い立たせているのも事実だ。

 広州の「本田」が国家の保護を受けて強化体制を採っているのはその一例だ。
 05年国営企業「長安自動車」が独自に新車を発表して他の企業の羨望を集め、直ぐに日本の鈴木自動車と合資の契約を結び、中国のブランドで販売する契約を結んだ。
 これは正に歴史的一歩になると言われている。
 現在世界中が中国の自動車産業の行く末を見守っている。他の後発国家にとって一つの可能性として重要な役割を期待されている。

 だが、冷静に見れば中国の自動車産業が既存の国際規模のメーカーに互することはまだまだだ。まるで巨人と赤子の争いだ。

 しかし落ち込むこともないだろう。01年以降の5年と言う短時間にその市場は地球全体で第2の地位を持つようになった。恐らく2010年にはアメリカを凌ぐだろうと見られている。このような巨大な市場は必ず地元の企業に有利に働くだろう。
 外国企業は中国に参入して以降、その主力を公用車のみに置いてきた。しかし現代は自家用車の時代に入っているのだ。その変化の対応にかなりの労力を失うだろう。その点、地元産業は現実を見るチャンスは多く有利だ。

 ここに来て自動車産業に新しい問題が起こっている。それはエネルギー問題だ。
 環境重視の動力源採用が今後の自動車産業の支配地図を塗り替えると言われている。
 今その激変が始まったばかりだ。やがて現在の燃料油が何か他のものに取って代わられるだろう。
 中国政府は燃料油価格を上げる予定で、価格上昇は必ず動力の問題に行き着く。中国の企業「比亜迪」はこの状況を困難とは考えずチャンスだと言っている。

 今後の中国自動車産業の将来は予測し難い。その影響するところも大きい。これは自動車産業だけの問題ではない。自動車産業は一つの国家的企業の問題だ。中国の工業全体が関係している。

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  この記事はここで終わり。同じ紙面に同様の記事があります。

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今中国を舞台に自動車産業の激烈な競争が始まっている。世界一の実力と歴史を持ったメーカーが頭を聳えさせている一方、中国と言えば赤子のような状態だ。
 
 自動車産業の競争は一般市場の中心であり巨大な金額が動く。また工業全体の先進技術の粋を集めた産業でもある。

 新中国が誕生以降の30年、「自動車」は封鎖状態であった。そしてその後の20年は合資時代である。
 現在は市場自体は巨大で「世界有数」という「虚名」を頂いている。
2年前中国政府は事態の重要性を理解して「自主開発」を号令した。
 中国のような後発国家がその汚名を濯ぎ追いつくことが出来るのか、世界が注目している。  
 自動車産業の行く末は「工業の中の工業」と言われ、中国工業全体の中枢を握っている。国家の競争力は正にそこに架かっている。
 中国は1978年の改革以来2度目の歴史の転換点に居るとも言える。

    訳注:1978年、毛沢東の死後2年目で計画経済が終わり
         自主生産が開始され経済成長が始まる。


 現在は地球全体が密接に結合しており、どの成果も結果が他へ大きく影響を及ぼす。 

 03年8月デトロイトで開かれた自動車展示会で、日本のトヨタ自動車がアメリカの老舗クライスラーを追い抜いたことが報道され、そのニュースはアメリカを震撼させた。

  それ以降もこの小国日本が確実に巨大な国家アメリカの自動車産業を必死になって追い抜こうとしているのだ。
 中国に於いても07年3月、中国のブランドを持った「奇瑞」が44568台を売りさばき他の追随を振り切って初めてトップに躍り出た。
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 IBM総裁は20年前に、もし中国人の千人に一人がパソコンを買えば実に巨大な市場になる、と予言した。
 現在急速に発展しつつある中国経済。その個人GDPも2000ドルに成りつつあるとき、それが4000ドルになれば、自動車産業は巨大な市場となると言われているが、その変化を日本人は掴んでいないかも知れない。
 インドネシアではこれまでは全て日本の自動車だったが、しかし価格の点で中国製に切り替わる可能性が出てきた
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訳者注:

 ここに述べられている経済分析の考えは、「国家」として最善の方法・道は何かを求めているような論理です。
 国家として自動車産業を重視し、その成長や繁栄を獲得しようという考えで、それは一見当然のようで、どの国もそうして成長しているかというと、実はそうでは無いところが社会の進歩というか真理ではないでしょうか。
 国家のあり方、それは当然国民の生活を考えて、その利益を最大限に守っていくという思想です。
 社会主義が初めて登場した頃は、「国家」の「あり方」が最善であると考えられたのではないでしょうか。

 日本を例に取ると、山崎豊子が「不毛地帯」で書いていますが、戦後の日本でアメリカの自動車産業に比べ、日本側は像と赤子の様な力の差でした。
 その時日本の国家が最大に日本産業を支援したかというと、政府高官がアメリカの飛行機産業に買収されるような事件を描いています。
 また当の自動車産業で働く人達もそのような国家意識で働いていたでしょうか。答えはNOでしょう。

 それなのにこの記事で書かれているように世界的市場を持った企業が多数存在しています。

 社会主義は最大限に国家を大事にする思想と思われた時代があったのかも知れませんが、現実は如何でしょうか。
 中国の炭坑爆発が頻繁に起こる以上に官僚の腐敗、人民の虐め、海外への資産持ち出し事件が頻発しています。
  
 ましてこの記事のタイトルのように正しく「野心」を持って国家運営に当たるような幹部が居たでしょうか。中国の建国時、最も誠実と見られた周恩来でさえ劉少奇追放に賛成しています。報徳懐元帥の追放にも賛成しました。

 何故中国は建国直後に恐怖社会になったのでしょうか。党そのものは「国家」という言葉を繁用し、国民に力の結集を呼びかけていました。国民側も全体がその呼びかけに圧倒的に応えました。それは全く異常の姿でした。そして何も生まれなかったのです。恐怖と経済衰退と精神的後退以外は。
  
 多分これまで地球上で最高と言われたイギリス、アメリカなどのどの国家も国家全体が一体となって運営されていたかというと事実はNOでしょう。事実は一人一人が野心を持てるような、個人の自由がある程度存在していたのではないでしょうか。
 
 国家としての追求、当然上からの命令を伴う制度、そのような窮屈な集団からは成長が生まれないというところが、人類社会の難しさで、人間らしさの発揮が簡単ではないところです。
 「国家」を最上位に位置づけた経済活動が「計画経済」でした。そこでは個人の自由や権利、或いは個性等は完全に無視されました。
 経済さえ発達し生産力が拡大すれば個人の幸福も到来すると空想しました。しかしそれは余りにも非科学的でした。
 単に経済成長が生まれなかっただけではなく、人間社会としてあるまじき姿です。

 戦前の日本の軍部も「国家」を喧しく叫びました。そこでは誰もが幸福を得ることは不可能でした。

 しかし環境破壊対策や社会的支援システムは必要です。社会的基盤が充実している程個人の活躍は大きく、個性も生かせます。正しい野心が実現しやすくなります。精神的安定が生まれます。 

 この記事では国家が地球規模の産業を創ればその国民は幸福になるような書き方をしています。確かに中国人にとって日本やアメリカの農業や社会福祉は理想でしょう。しかし事実はそう簡単ではありません。

 オーストラリアでは電気・機械産業はほとんどが日本企業だそうです。しかし彼等が生活を楽しむ方法、そのレベルは日本に比べて劣っているとは思えません。
 日本人が生活を、生きていることを堪能しているでしょうか。企業に完全に埋没していませんか。家族が揃って食事できないのはいびつではないでしょうか。

 ただし、今回のフランスの選挙では週35時間の労働時間と8%を超す失業率が問題になりましたが、やはり社会や世界とのバランスが必要で、地球規模の視野が不可欠と言うことでしょうか。 
 
 私達が何処かの国の「人間」を賞賛するのは、「国家」とは関係ありません。
 その人自身の人間性や生き方を評価します。何処かの国が良いからと言って、そこに住む人を賞賛したり蔑視するわけではありません。
 国家さえ良ければ、と言う思想は私にはとても危険に思えます。本当のあり方は「人間」が主で「国家」が従です。

 これからも何度も「国家」と個人の問題が登場するでしょう。どちらが大切か、その答えを社会主義と日本の軍国主義から学ぶべきと思います。