教室は間違いを出すところ

07/01/04 南方週末 魏得勝

 学校の授業で「理想の先生」と言う題目を我々生徒に書かせようとした先生が居た。
 しかしこのテーマは生徒にとって全くやりきれない。というのは真面目に書いても適当に書いても、本当のところは正しい文といういものは出てこないだろう。出し辛い面もある。

 授業のあり方で最近感じていることを述べよう。有る小学校で優秀と言われる女教師が次のように説明した。
「古代人は賢くて、”文字”を造るとき有る規則を決めました。例えば”木”という意味に関係するものだけに、”木”扁を着けたように」 すると一人の男子生徒が直ぐに手を挙げて「先生違います」と名乗った。しかし先生はその生徒の考えは明らかに間違いだろうと思って発言を無視していました。生徒の方は自信があるらしく手を下げません。仕方なく先生が「言ってみなさい。どうせ君の考えは間違っているでしょうけれど」と発言を許可しました。
 生徒の言う字は「葉」でした。

 訳注: 中国語の”葉”には「合わせる」    と言う意味もある。

 すると先生の顔が真っ赤になってぷりぷりして教室から出て行ってしまった。
 
 この話は先生に「雅量」が無かっただけの問題に聞こえるかも知れない。しかし少し現実を見て欲しい。中国の授業の進め方は、「教科書には間違いがない」「先生の言うことは絶対だ」の方式が貫徹している。この方式は先生の考え方を固定化する。そして生徒の疑問を受け付けようとしない。

 日本もかっては儒教の影響を大きく受けてきたが、しかし明治以降教育の観念を大きく変更した。
 私の友達が息子を日本の小学校に通わせた経験話を聞いたことがある。
 その子の親が息子に対し「お前は言葉が不自由だろうし、間違いを言ったりして、授業で困らないかい」と。
その子は「大丈夫だよ。先生はね、学校は間違いを出し合うところで、誰もが発言するようにしているよ。先生だけが発言したら生徒は自分の考えが正しいかどうか判らないと言っているよ」との答えだった。
 「学校は間違いを出しあうところ」と言う考え方は、私は名言だと思う。
 先生でさえ間違うことがある、と言う考え方は、先生達の欠点を受け入れ、そうすることが教育界の自然の法則に合っていると私には思える。

 ケンブリッジやオックスフォード大学ではその歴史が自由尊重を重んじているので、学生達に授業の選択幅を大きくしている。
 その授業に出るかどうかも生徒の選択に任せている。もし教師のやり方が不味ければ、学期末には生徒達が教室に居なくなることもあるようだ。先生の方もそれを理解しているとのことだ。それを「自然平衡」と呼んでいる。
 英国人はこの方式に誇りを持っており、自国のやり方を「生物育成」と呼び、中国の前記の女教師のようなやり方を「鉱物育成」と呼んでいる。

 「ローマ滅亡史」を書いたエドワード・ギボンという人はオックスフォード大学生の頃が人生で一番のんびりした時だったと言っている。学生時代は何もしなかったし、何も生まれなかったと言っている。
 ケンブリッジ出のダーウインもそうだ。学生時代は全く何もしなかった、と書いている。
 学生時代に眠りこけて、その結果、彼等はやがて人類史に名を残すようになった。

 そこで私の結論ですが、先生のあるべき姿は「生徒に寛容と自由を教え」「生徒の創造力を育てる」、ここにこそ有ると考えるのですが如何でしょうか。
 だが中国の現実は、文化の伝統が強烈に教育界を縛っている。
 先生達が寛容な気持ちで生徒に相対出来るだろうか。生徒が寛容な気持ちになれるだろうか。先生達は管理に汲々している。泥沼に浸かって身動きが取れない感じだ。そのような環境で理想的な先生を捜すのは極めて難しくなるのが当然だ。 

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訳者注:
 最近の韓国では「詰め込み教育」を見直し、全人格方式の動きが出てきたと報道されています。日本では逆に授業時間を増やす詰め込み方式へ少し変わるようです。
 しかしここに書かれている問題意識はそれらとは違います。
 この記事では儒教や中国文化の伝統などと書かれていますが、本当は現代の国家体制と関係しています。
 党の言うことが絶対正しい、この哲学が中国全体を縛っているのです。「上から下へ教える」この思想が全社会を覆っています。
 党の言うことが間違っていればそれを正す、そのことが許されないのです。
 現実の党は間違いだらけで、腐敗の先頭を走っていますから、この思想が間違っているのは余りにも当然ですが、しかし国家権力を握っている以上それを放棄することはないでしょう。
 例えば日本の図書館で現在出回っている中国の書物には「建国後人々の生活は向上し誰もが党に感謝している」と書いてあります。
 これほどの嘘を堂々と書いている国も珍しいでしょう。
 中国の若者でさえ建国直後の生活は毛沢東指示の「敵階級撲滅運動」と「計画経済」で誰もが地獄だったことを知っています。

 (多分日本の左翼の人達も各派毎に自分達の思想は”絶対”だ、世界は理解されたと主張した時代があったのではないでしょうか。その究極の国家レベルの「絶対思想」が現在の中国の発展を阻止しているのです)

 でも、話を日本に戻せば、間違いを出すことが出来る日本でも、実際の教育の現場は簡単なものではないようですね。

 少し余談ですが、中国語表記について。
 オックスフォードを「牛津」、ケンブリッジを「剣橋」と書きます。たぶん当て字でしょう。牛は「オックス」で、津がフォード(浅瀬)に相当するのでしょうか。(中国語”津”の発音はチン)
 剣の”けん”は日本語の発音です。(中国語はチエン)橋は英語で”ブリッジ”で、本当に訳すとき困ります。共に辞書には載っていません。
 文革時代に学校教育を受けた人達、(現在50歳前後)は英語を習っていませんから、この2つの単語発音の由来は理解できないでしょう。
 来年は北京オリンピック。外国選手の名前表記は驚くような当て字が氾濫するでしょう。