農作物の見張り

07/02/08 南方週末 崔武

 農作物が実る頃それが盗られないように見張りを建てる。それを黒竜江省では「看青」(”青”は作物のこと)と呼んでいた。他の地方で何と呼ぶかは知らない。
 1968年、「上山下郷」(青年は農村へ行こう)の最盛期の時、私は「貧下農出身」の子供であるが、しかし我々都会の青年大軍団は農村へ「下放」された。
 その年いよいよ農作物の実る季節が到来となり私達多くの青年が集められて「畑の見張り」をするように命令された。「看青」の始まりだ。

 地元の人達と言えば、その土地に何十年、或いは何百年と住んでいるわけで、地元の人間同士では顔を知らないと言う人は居ないであろう。しかし私達は都会から回されていて、しかも誰もが”紅衛兵”の経験者だ。作物泥棒を捕まえる為に身を挺して闘う決心が強かった。泥棒を見て、顔見知りで尻込みするなどを考える必要がなかった。

 1つの生産団体に4人の青年がその役を命じられ、夜も2人が当番で巡邏した。
 夜は鎌を持って胸を張って無限に広がる畑を廻った。それは本当に誇りのある任務に思えた。どんな泥棒に出会っても闘う決心が出来ていた。私と組んだ相棒は詩を作ってそれを諳んじて大声で歌った。まあ、現在はその時から40年も経っているのでその詩をほとんど忘れたが、でも最後の所は覚えている。

 ”目を見張れ、鎌を振り上げろ、階級敵を倒せ、何処にも逃がさないぞ”
 、というものだ。

 1つの生産隊の受け持ち面積は2万から3万5千アール有った。
 そこを巡邏するのだが見渡す限り麦畑で一人や二人が歩いても大海に針を置いているような感じで、人影など見つけられるものではない。
 私の相棒は頭の良い奴であった。彼は「我々貧下農民は社会主義の主人公だ。どんなことがあっても泥棒などを許すわけにはいかない。捕まえて徹底的に虐めてやる。私の見張りがある限り泥棒などさせるものか」と息巻いていた。
 そして彼が考え出したことは、「我々都市から下放された若者は階級の主人公だ。とすると恐らく泥棒はこの土地の者に違いない。と言うことは土地者の家の出入り口を見張っていれば泥棒の出入りが解るというものだ」と言いだした。
 そこで他の仲間とも打ち合わせ、手分けして地元の農家を見張ることにした。
 それは正に省力で、疲れることがなかった。じっと門の近くに隠れて見張るだけである。 誰かその家から出入りが有ればそっとそれに着いて行くのだ。このようにして1週間が過ぎた。何処の隊からも泥棒現るの噂が来なかった。

 ところがそれから暫くして、トウモロコシが盗られた、と言う話が伝わってきた。
 と言うことは誰かの見張りが土地の人が泥棒するのを見て見ぬふりをしたに違いないと言うことになった。ところが誰も「俺は階級闘争の決意が固い」と言って、嘘を言わないと誓った。土地者が盗っていなかったら、一体誰が盗ったのだろう。

 その内我々のやり方がバレて生産大隊長が怒り出した。「看青」では無くて「看土地者」ではないか、と言う。
 又再び巡邏をする羽目になった。そして当分泥棒のニュースが起こらなかった。

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訳者注:
 「上山下郷」はどういうわけか日本では「青年は農村へ行こう」と訳されています。
 山も郷も農村のことです。その訳を日本で初めにした人はきっとその運動が社会的に見て有意義なものと考え、威勢の良い翻訳語を当てたのではないでしょうか。
 実際はここに一例が書かれているように、都会では計画経済のため仕事が無くなり青年の口減らしのための追放です。下放された農村でもほとんど役だっていません。さらに悪いことは、北方では山の木を大量に切り倒す仕事をさせました。現在それが砂漠化の大きな原因となっています。
 つまり「山上下郷」運動は社会的には全く意義のない、逆に巨大な損失です。

 建国以降は「階級敵」を倒せば理想社会が来るという理論が党と政府によって宣伝教育されて、誰もがそれを信じた時代です。そのため法治国家となる道が50年遅れました。

 やがて毛沢東が死ぬと彼等は都会へ戻ります。農民の秘密裏の自主的生産が始まり、実質的な市場経済が始まり、若者の仕事が出来つつあったからです。またそれよりも農民側が青年が邪魔になって帰省を強く要求したのでしょう。
 しかし悲劇は直ぐには終わりませんでした。都会へ戻った青年達は、農村で無駄に年を食ったこと、青春が終わりかけていること、それらが深刻な影響を現在でも残しています。
 前回紹介した日本の衛生4チャンネルで放映されている連続劇「歌声は天高く」では、主人公の両親が都会へ戻ってからの不幸を描いています。