薄一波の現在

07/01/18 南方週末 朱紅軍

       1984年の薄一波(中央)




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薄一波は1908年生まれ、現在99歳。1925年共産党に加入、文革後の79年に国務院副総理、11節中央委員、等を経過。
 07年1月15日逝世

 94年に山西大学師範学校教授の蓄仲君氏が回想録を担当し、その後も晩年まで長く交際してきた。
薄氏は88年から5年掛けて「重大政策の回顧録」を記してきたが、さらに多くの記録が必要と考えられて教授が中心となって記録班が造られ作業に当たってきた。文革の最も鮮明な記憶者と言われた。

 文革の初めに「劉少奇が殺される」ことを予言していた。
 彼自身も文革では武闘に掛けられたこと136回、尋問206回あり、それらを全て記憶していた。
 幾つもの監獄に回された経験も明確であった。
 当時は最大の「反動的頑迷派」と見られていた。
 牢獄内は歩いて7歩の空間があり、そこを歩き回り、出される食事の飯粒のこぼれたものを拾って食べることで心身の崩壊を防ぎ健康を維持していた。

 75年には4人組が彼を河南省に追放しようとしたこともあったが、それは実現しなかった。
 その文革中、薄一波の妻が亡くなっている。娘さんが火葬の現場に骨を貰いに行くことが許された。
 火葬した人は「酷い身体だったですね」と言うだけで、その死因については今でも不明で、それを尋ねる勇気のある人は今まで現れなかった。

 4人組が打倒されてもまだ彼は釈放されず、完全に希望を失っていたかと思われる時期があったが、しかし娘さんに当てた手紙には精神がしっかりしていたことが判っている。

薄一波の最大の功績は抗日戦争の頃、民族統一戦線を提起し広い連帯を作り上げ、山西省に当時では中国最大の抗日根拠地を作り上げ、毛沢東に提供したことだろう。しかし後日その功績は評価されなくなった。そのことは大変遺憾なことである。

 文革が終わり「改革開放」になっても、彼は最大の保守派と見られていた。
 1980年代になって個人が労働者を雇って経営を行う動きが現れてきたときのこと。政府からは”不法分子を摘発しよう”の指令が出ていたが、薄一波は「経済の発展を実現することは素晴らしいことだ。個人経営の経験を生かしそれを合法化する道を造るべきだ」と述べた。当時はその意見はほとんど無視されたが、次第に個人経営の規模が拡大しそこで働く人数も増加していった。彼は「それは我が党の政策に合致している」と述べている。

 1980年代、薄一波はアメリカのボーイング社へ見学に行った。工場には完成機が2台しかないのを見て「この程度の生産で儲かるのか」と質問した。アメリカの返答は「飛行機は注文生産です。そうしないと資金が足りません」との言葉だった。
 それを聞いた薄一波は驚いた。中国の計画経済では必要と思われるものは具体的な要求が無くても次々に生産をしていた。
 実際に必要なものを生産する、それこそ「計画経済だ」と彼は述べている。

 晩年の96年になって病気が始まった。
彼は酒を飲まず煙草も吸わない。普段は人民服を着ていた。国家の要人とも会っている。
 北京市外の散歩に出かけようとしたが途中で近代建築の立つのは見ていられないと行って家に引き返すことが多くなった。 

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 訳者注:本当に恐ろしい事実が記されています。
 ”文革の初めに「劉少奇が殺される」ことを予言”。当時彼は国家主席です!
 私の翻訳「劉少奇の晩年05/02」参照。

 毛沢東は抗日戦争の時代から死ぬまで序列第一または第2の人を追放したり殺したりしています。それを見た周恩来は何時も序列第3を堅持したと言われています。
 監獄生活、これは文革の時は全国で常時見られた現象ですが、反論が許されない、審査がない、無法状態です。しかもその方法を大衆的に全国民にさせました。
 
 計画経済では各人が働く内容は国家の命令です。工場で出来たものがどんなにお粗末で使用に耐えられないものでも、国家の命令として誰も文句を言わず働きました。それが”社会主義精神”と言われる猛烈な官僚主義を生み出しました。
 インターネットで中国の各新聞を見ると彼のことがどの新聞にも出ていますが、さすがこの南方週末のような中国の歴史から振り返った記述は有りませんでした。
 現在の新聞もおざなりの「官僚的」です。