ソ連の想いで

07/11/15 南方終末 李南央

 




1950年代の始め、私は北京郊外の発電所建設局の宿舎に住んでいた。周囲は大きな空き地があったので、真冬の寒い頃はそこに水を撒いてスケート場にすることができた。一人5分ほどの入場料だった。多くの人々がそこで遊んだ。 
 父は1955年に仕事でソ連へ行きお土産にスケート用の靴を買ってきてくれた。現在のスケート靴ではなく、固い皮を両刃にして靴底に張ったものだった。直ぐにその使い方になれてすいすいと滑ったので周囲の人達が羨ましそうに見たものだった。夜は遅くまで遊んだ。
 でもやがてその空き地にも家が建ってスケートが出来なくなった。
 父は1958年にまたソ連に行った。その時のお土産は本当の褐色のホッケー用スケート靴だった。それで私は一層スケートが好きになった。 
 父のお土産の中にはその他にウサギや小人の人形などとその童話本などもあり、父は私が読めるように中国語に翻訳してくれた。
 さらに母のために買ってきたものは漆黒の漆塗りの小箱とかバラ色の頭巾とかがあり、当時の中国には無いとても珍しいものばかりだった。それで近所の人達はとても羨ましがった。その結果私達家族はソ連が素晴らしい国だと思うようになり、いつか父と一緒にソ連へ行けることを夢見るようになった。

 父の発電所関係の仕事で中国に滞在するソ連の家族とも時々会うことがあった。父は彼等を我が家に連れてきたのだ。当時の中国人の衣服は貧しかったのに向こうの人の衣服はとても素敵に思えた。
 ソ連の人が私と兄に砂糖菓子やチョコレートをくれたこともあった。そのおいしさは今でも想い出す程だ。
 また桃の実を糖で包んだお菓子をくれたとき、それが口の中でいつまでも消えないようにずっと我慢していたのを想い出す。
 
 ソ連人の家族と一緒に家族揃って北京の名所を廻ったこともあった。相手の家族の内、サーシャというのが私と同年で、その下にリエーナというのもいた。サーシャの兄でワレカと言う名の男の子が私の兄と同年だった。
 相手の家庭を訪問したこともあり、そのときワレカが私達兄弟に可愛い人形をくれた。その人形の首も腕も脚も自由に動くのだった。
 その動きが不思議で、私が動かしすぎて首が外れたこともあった。

 当時、文革が始まった頃だった。家宅捜査が来るというので家の中から「4旧」と見られるものを全て隠すことになった。サーシャやレイナが写っている写真は全てそこを削った。

1983年のこと、母の職場から家庭捜索隊が来た。そしてソ連人から貰った一番大事にしていた幻灯機を持って行かれた。当時の中国ではそんな幻灯機は何処にも売っていなかった。

 私が小学校に上がったとき、ソ連のハルコフ市からソ・中友誼団が来た。生徒や先生達が大勢来たが、残念な事にその時私は風邪で休んでいた。学校へ行ってみると生徒達はソ連の子供達がとても可愛いかったとか友誼団の話で持ちきりだった。
 中国からも生徒代表団を送れないだろうかなどとその後も話が弾んだ。ソ連の友誼団に面会した子供達が相手と文通をすることになった。その文通の紹介で私にもハルコフ市の一人の女生徒から手紙を貰うことになった。
 そこにはイワノフ通りの写真もあり、私達にとってまるでおとぎの国を見ているような気分になった。直ぐに私は感謝の返事を書いた。

 だがそこへ「中ソ対立」と言う時代が来た。昨日の親密な友が一夜明けると仇敵になり、修正主義と呼ぶことにった。

 毛沢東主席は偉大でソ連の総統に挑戦すべきだと言う議論が毎日学校で話されるようになった。学校の友達はソ連との文通で得た手紙を燃やした。だが私はそれが出来ずそっと手紙を隠しておいた。

 文化大革命が始まった


 ソ連に少しでも好意を持つことは危機だった。でも私は既にたくさんの本を読み、そこに登場する人達が世界一素晴らしく愛すべきで、勇敢で、もう良いところだらけになっていた。 
 ソ連の小説の中に「赤い肩章」というのがあって、そこで一人の少年が他の少年がいたずらをしたことを先生に告げ口をするところがあった。だが先生はそのような他人の陰口をする人は将来立派な人間にならないだろうと、批判するところがあった。その記憶が強く残っていたので、私は文革中盛んに奨励された他人を密告することを私だけはすまいと決心していた。

 1986年ついにソ連訪問

 後日私は核開発計画の仕事に就き東欧州に8ヶ月滞在した。その帰途汽車で帰ることにして大陸横断鉄道に乗った。そしてついに子供時代に理想と夢見たソ連の土地を踏んだのだ。だがそこに見たものは大きな失望そのものだった。

 モスクワには3日滞在した。しかもその3日の滞在の許可のためにモスクワ市警察署で半日掴まった。市内を散歩する私に向かって出会う人達は誰も「ノ、ノ」を連発し私を避けようとするのだった。
 ソ連では人々の顔は生気がなかった、西欧の人達に見られる快活さも無かった。  

一番驚いたのは百貨店に並べられた商品の古くささだった。中国は改革開放が始まったばかりなのに、すでにソ連よりは商品が色鮮やかで豊富に思えた。父が昔お土産に買ってくれたお人形などもあったが、どれも色褪せて見えた。20年の歳月を経てソ連は全く進歩していないことが解った。
 食料品店ではほんの少しのパンとバターが置いてあるだけで、店の奥では店員が威張って座っていた。これが私が小説で読んだあの人間味溢れた人達なのだろうか。活発な子供達は、親切な婦人達は何処に行ったのだろうか、と全く信じられないものを見た気がした。

赤の広場では地下に置かれたレーニンの遺体を見た。だがそこは毛沢東記念館に比べてとても狭く小さく陰惨でぼろぼろの場所だった。

 無産階級開放の旗を掲げたレーニンの遺体を近くで見た。死後60年が経っているが、現在ソ連は全く貧乏国と化していた。その墓を去るとき私は歴史が理解できないような気分になった。
 
 1990年ソ連の家庭訪問

 それから4年して、父の友達を通じて私は再びソ連を訪問する機会を持った。娘と友に西ドイツへ行きソ連にいるサーシャに連絡を入れ、モスクワ駅で面会できることになった。
 5日後モスクワ駅に着きホームで長く彼が現れるのを待った。 

 駅の出口でやっと昔の懐かしい友ワーシャに出会えた。北京で一緒に写真を撮ってから35年が経っていた。

サーシャは私の荷物を持ってくれて、家へ連れて行ってくれ、そこで直ぐにシャワーを借りた。その夜、彼は私達をレニングラードへ案内してくれた。そこでも昔の懐かしいグズレッツォフという人に会えた。その人は私の手にキスをした。そのような挨拶は映画で見たり小説で読んだことがあった。そしていつまでも記憶に残るだろうと思った。

 その夜は彼の家に泊めて貰うことになった。その家は高層マンションで、エレベーターは1990年当時の中国には無い大型だった。彼の妻はビエラと言い、私達との挨拶には強く抱き合う仕方を示した。
 部屋は2間有り、当時の中国と比べるとやはりかなり大きな作りであった。その内の1間を私達の寝室にしてくれて、その夜を過ごした。
 周辺の広場は緑があり子供達にとってまるで天国のようだと思われた。ただ、百貨店の食品はほとんど何もなくその他の商品も粗末なものだった。
 
 翌朝、私はまだ薄暗い内に入り口のドアが開く音で目が覚めた。実はその家の主人グズレッツォフが朝の4時に市場に出かけ3時間も並んで買い物をしてきてくれたのだ。当時のソ連では買い物に3回の行列に並ぶことが必要だった。1回目は”買い物券”を貰うこと、2回目はその券を”商品券”と交換し、最後に商品の前に並ぶことだった。3時間かかって6個の卵を買ってきた。クズレツオフは「他に何も買うことが出来なくて申し訳ないね」と言う。その街の朝は極めて寒く、分厚いオーバーを着ていても行列に並ぶことは大変なことだった。家の中に入ったときの彼は本当に冷え切った顔つきだった。私は申し訳なくて言葉がなかった。
 そのようにして私達を歓迎してくれる異国の人の温かい心づくしに私も娘も感激した。

 グズレツオフ氏はレーニン勲章を見せてくれたが、彼は元共産党員だったが今はその施策に失望して党を出たとのことだった。
 その翌日息子のワレシャが遠方から会いに来てくれ、私と娘に抱きつく挨拶をしてくれたが、その仕方が小説では読んだことがあるがとても熱情的で私はまた大変感激した。
 その日はレニングラードの公募に連れてくれた。そこはドイツが侵略したとき50万人が死亡した所だ。ウズレツオフの兄さんと叔父さんに当たる2人とがそこで餓死したとのことだ。当時何処の家も平均で2,3人は亡くなったとのこと。当時ドイツ軍が市を包囲したので市全体が死滅すると言われたようだ。
 公募の入り口には火が点され、悲しいロシアの曲が繰り返し流されていた。戦争から50年経ってもまだ現地の人達には大きな痛手として残っていることが伝わってきて、私はグズレツオフ氏に「あなた方が戦争で得た悲しみは私達中国人も同じです」と言って慰めた。

 グズレツオフ氏がこれまでの人生で一番印象に残っているのは(食品が毎日欠乏していることを以外のことで)1924年レーニンが始めた「新経済政策」と、1950年に中国へ行ったときのことだという。彼が中国で過ごした年月は人生で一番良かったときだという。彼はソ連へ帰国後中国で大変な騒動が起こっていると聞いて私達の家族のことを心配したと言う。
 彼等夫婦は私達を商店街にも連れて行ってくれた。
何処の商店の棚もほとんど空っぽで、それは「本当に他国の人には見せたくない」と嘆くのだった。でも私は娘にカラフルなイヤリングを買った。小さな喫茶店で婦人が娘にお菓子を買ってくれた。婦人は大昔はもっと商品が並んでいたんですけれど、と申し訳なさそうだった。
商店街に「北京友誼店」と言うのがあり、そこで可愛い黄色の目覚まし時計とロウ作りの人形を買った。

帰ることになって、グズレツオフとサーシャが東ベルリン行きの汽車に乗るまで送りに来てくれた。
 彼等は東ベルリン駅に着いたら15分の停車時間しかないので、急いで乗り換えるように注意してくれた。西ベルリン行きの列車では乗車検査があるので10ドル出しなさい、そうすれば下車しなくても検査が終わりますよと言う。汽車の汽笛が鳴り出発の時が来た。彼等は私達を抱きしめて別れの挨拶をした。

 彼は涙をためて言った「貴女はお父さんと同じくとても勇敢です。良くも此処まで来てくれました。貴女はこれからまたアメリカにも行く予定ですね。向こうへ行ったら是非手紙を下さい」と言う。そして汽車が動き出した。彼等は帽子を取って振っている。汽車の残していく風が彼の頭の残り少ない髪の毛を揺すっている。私はまたきっとこの地へ来られるだろうという思いがしていた。
 
 2003年の旅

 それからもたびたび私達は文通を続けた。いつも向こうからは生活苦のことが綴られていた。そこにはもう希望など見いだせないと言う失望に満ちていた。
ところが2002年のクリスマスの頃になって突然手紙の雰囲気ががらりと変わった。どこからか光が射してきたようだっだ。サーシャは郊外に別荘を買ったという。退職金で将来が安定したという。

 近々にでも会いたいと言う手紙を出していた頃の03年4月20日、孫から電話が来てお爺さんが亡くなりましたと言う。転んで骨折し、入院先で肺炎になり亡くなったという。その時は苦痛もなく静かに息を引き取ったとのことだ。

 03年夏、私は夫と友に娘も連れてロシアに行った。夫は始めての旅だったが私は仕事も入れて5回目のロシア訪問となった。10年があっという間に過ぎた感じだ。ロシアの変化は正に驚きだった。商店にはなんでも揃っていた。だがその値段はとても高い。ある靴店で見たサンダルは、なんと200ドルの値が付いていた。人々の様子もすっかり変わったと言える。

 誰もがさっぱりしていて、しかし愛想がなくなっていた。私達は中国帰国後アメリカにも行った。何処にいるときも手紙を書きメールを送った。しかしその返事はほとんど帰ってこなかった。
 私達がサンクトペテルブルグに到着して電話を入れて始めてサーシャが面会してくれることになった。サーシャは新しい家に引っ越しをしていて、以前のような美しい庭も無く、外観も全くみすぼらしい感じがした。丁度その頃、市は建都300年の祭りの最中で街には飾りが至る所にしてあった。だが至る所にゴミが溢れ水路は毀れ、見るのも嫌になる程汚れていた。ただサーシャの家の中だけは以前よりもずっと豪華な感じがした。更に彼はジープも所有していた。サーシャの娘は私がアメリカから送った高価なクリームを付けていたが、別に何の挨拶もなく部屋を出て行った。その態度は何となく理解しがたかった。サーシャの下の息子はお婆さんの世話していると言うことで会えなかった。ワレーシャという昔の友達にも連絡を取りたかったが、その人は中国語も英語も出来ず方法はなかった。

 グズレツオフの娘さんのビエラさんだけは私達をとても感激して迎えてくれた。私の手を握って放さなかった。
 食事が始まると誰もがプーチンの悪口を言い、昔の方が良かったと言った。でも突然のようにビエラさんだけが「何を言うんですか。昔よりずっと良くなっていますよ」と話し出した。

 食事後も多くの果物が出た。でもロシアではどの果物も中国と比べると大変高価だった。柿が一つ2元もするという。ロシアの現在の平均賃金は1000元だとのこと。食事が終わってチョコレートもいただき、紅茶も飲み終わるともう話題が消えたように静かになった。それはお暇をするときが来たことを暗示したのだろう。ビエラさんとは熱い抱擁で、その他の人達とは形式的に握手をしてその家を辞した。
 彼等と別れた直後私は夫と娘に聴いた。「ロシアにまた来たいですか」と。娘はもうたくさんです、と答え、夫は「セントペテロブルグの夏宮は一度見たいなあ、でもその時はフィンランドから入って、日帰りで戻ればよい」という。2人ともサーシャに再度会いたいとは言わなかった。3代に渡って続いた家族の付き合いがこれで消えるのだと知った。


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訳者注:
 実に歴史的変遷を庶民の感覚で確認できる素晴らしい原稿です。

 中国が計画経済で全てが伝票で、何時間も並んで食料を買う時代は毛沢東が死ぬまでです。(1978年)
 その少し前から中国では農民達が党に隠れて自主生産を始め、自由市場も出来つつありました。1982年には農業製品だけの自由市場が公認され、そこでは驚く程の商品が並ぶようになりました。
 その直後に1986年、この記事を書いている女性がロシアの家族を訪問し、両国の商品の陳列という身近な面での社会の相違を見聞します。
 当時のソ連ではまだ厳格な計画経済で配給制です。伝票を貰って商品券に変えて商品店に並ぶのです。
 私は1996年末にその景色をキューバで見ました。商店には芋しか無く、買い物籠を下げ無表情をした人達が長い行列を作っていました。

 さらに1992年になると、中国では”と小平”がそれまでの社会主義的経済を全て否定するような政策を発表します。農業製品だけだった自主生産が工業や商業関係のものまで広がり市場に並びます。

 私の日記でも1992年に大連に来た日本人が「ここは日本人はとても住めない」と感じます。しかし3年後には「これだと住める」と感じるように様変わりしていく様子を書いています。

 勿論商店員は国家公務員なのでその態度は極めて横柄、無責任でした。商品も極めてお粗末でした。
 2000年の初め、大連の学校の売店で買ったノートは鉛筆で書けばすぐに破れるような紙質でした。その時、駅前商店街にマイケルという日本の百貨店が出来、そこでは日本製のノートを買うことが出来ました。

 ソ連の様子を見てこの筆者はソ連では歴史が止まった、と感じています。

 その数年後、記事ではソ連崩壊後の商店で商品が棚に溢れた様子にも触れています。
 
 その他、汽車の切符検査を賄賂で通過する方法や、生気のない顔つきの人達のことなど、ソ連崩壊直前の雰囲気を書いてくれています。

 このように大きな経済体制変遷の様子を旅行者の目で、しかも同じ社会主義体制の人間の目で描いてくれました。
  
 
1955年 北京で
ワーシャ と筆者
2003年
サンクトペテロブルグ 
ワーシャの家