党書記のお帰り

07/11/01 南方週末 劉洪波

 江蘇省ぴー州市の党書記李連玉の名前が盛んに報道されている。先ほどの第17党大会に出席して帰ってきたので市が大々的に歓迎会を何度も開いているのだ。
 軍楽隊が威儀を正して合奏し、巨大な龍が街を練り歩く。鼓笛隊も出動した。通路には赤絨毯が敷かれ、大型花火が打ち上げられ、歓迎の詩朗読大会も開かれた。会場には制服の市職員が整列し、会場に参加した人達は誰も笑顔を要求される。北京からの帰省は盛大なお祭りだ。
 歓迎式典が終わってみれば人々は実は北京への出発に際しても盛大な送迎会が行われたことを思いだす。

 花輪が会場全体に飾られて、ほめ言葉が充満した”詩”が朗読された。「李書記の北京行きは市の発展にとって大きな成功をもたらすだろう」「これまでの李書記の業績の偉大さが北京行きを決定した」等々と。「帝王のお出まし」等という言い方もあった。

 当市から全国大会に出席するのは結党以来始めてのお目出度いことだ。首都から遠く離れた当地では、誰も感情を抑えることが出来ず、そのような度を外した歓迎も諒とすべきかも知れない。
 ただその後の経過を見るとき何か根本的なことを忘れていないか気に掛かる。

 これらの歓送迎式典は国民の下から出たものだろうか。もっとはっきり言うなら、李党書記のこれまでの活動を認めた結果のものだろうか。

 確かに党の代表に選ばれることは名誉なことだろう。ただし同時に大きな責任が発生するはずだ。彼を推挙した党員達に対しても責任が重大だろう。党の最高権力機構に参加したことは、多方面の活動に対して充分な点検がされた結果であろうか。
 彼はまず最初に自分の北京での活動に対して報告する義務があるのではないか。
大会で決議したこと、その討論の過程、又その雰囲気等を報告する義務があるのではないか。
 当地の党員達がまず最初にせねばならないことは大げさな歓迎の儀式だった。李書記が北京へ行ったこと自体は歓迎の資格を持つことではあるが、それが即名誉の戴冠式になるのだろうか。

 当地の盛大な歓送迎会を見ていると本末転倒の文字にぴったり適応している観がある。盛大な歓送迎会が重要ではなく、北京で討論された内容を如何に全体に広めるか、全体のものにして当地で実践するかに重点が置かれるべきではないか。

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 訳者注:
 中国の歓送迎会の盛大さは凄いものです。街の道路を横切って赤字の横断幕を吊ります。
私の翻訳でも台風で河がまだ氾濫して住民が混乱している最中に、その始末に奮闘した党の祝賀会が盛大に開かれた記事がありました。
 又べつの記事では、中央からの指令で市の綱紀粛正を命じられて盛大な決起大会を開いてその実現を決意表明して、しかし帳簿の不正を見付けた女性党員を市から追い出し、追い出された女性は住宅を失い離婚する羽目になった記事もありました。

 でも日本でも明治初期には農村に行けばこのような本末転倒の儀式が行われたのではないでしょうか。政治は庶民とは全く関係ないところで行われていて。
 
 ただ中国でこのような記事が良くも書けたものですね。そちらの方が本当に驚きです。