年金制度に見る社会の公平

07/02/01 南方週末 葉径元

 私が仕事で年金について編集した時のこと、1人の読者から便りを貰った。そこには「現在500元の年金で生活していることの苦しさ」が綿々と書かれていた。
 年500元では食事さえままならず、まして病気になることを考えるとそのお金ではほとんど役立たないとこぼしていた。
 また他の手紙には同じ学校を出ながら年金は3倍も差があることが記されていた。
 
そこで各方面に手を尽くして調べてみると年金には全く信じられないほどの大きな格差があることが解った。

 有る技術者は40年勤めて1008元だ。その妻は農民の戸籍だが結婚後衛生局で雑工として勤めた。しかし女性は定年が早いので12年勤めて年金は1300元だ。夫よりも300元多い。この大きな差は夫が企業で妻が公営の理由からだ。

 ある兄弟の例では、兄は有名な大学を出て年金は900元。弟は中卒で煙草公社に入った。年金は1800元。その差は2倍となっている。その差は、兄が国営企業、弟が独占企業だからだろう。

別の例では一人は高卒、一人は中卒の例がある。66年の頃だ。直ぐに農村へ配置され、下方後(都会へ配属が許された後)高卒者が国営企業に回され年金は810元、中卒者が集団企業に公務員として配属、年金は2200元ある。さらに一時金として3万元受け取る。この2人の差は3倍近い。

  最初に挙げた例の夫婦の場合、夫が真剣に考えれば”諦めきれず”、場合によっては長江に身投げする可能性もあるだろう。
 
 40年勤務の技術者と12年勤務の雑工が何故このように大きな差が有るのか、誰も公平な観点からは説明出来ないだろう。

独占企業とは、鉄道・航空・電力・電信・石油・煙草などを指すが、彼等とてその財産は国有だ。さらに病院などのように暴利を取って儲けている産業もある。
 最近はこれらの待遇の差は拡大を見せているようだ。
 前記の例で言えば有名大学出の兄が中卒の弟の2分の1という例などはこれは政策の不公平を突出して代表している例ではないだろうか。
 誰がどのような観点で始めたのか解らないが、社会には「公平」の原則が必要であり、現在の制度を再考する必要があるのではないだろうか。

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訳者注:
 都会での平均月収は約1000元。出稼ぎ農民で600元位。農民には年金はない。
 
 中国で言う年金は「単位」が主で、日本で言うと「企業年金」に当たり政府管掌はない。

 年金1000元前後は確かに苦しいでしょう。
 1990年代後半に社会福祉制度が始まり、住宅供給などは廃止されています。
社会福祉の恩恵を受けるのは公務員が優先でした。
 建国後の30数年は社会資本投資はあまり行われていません。学校教育も。
 それは階級闘争を闘えば社会の矛盾が無くなり平和な国家が建設されるという社会主義思想が原因しています。
 国営企業の「単位」が中心で、そこで食糧や住宅等の供給、裁判・公安まで全てを抱えて解決することが未来社会の理想と考えられていました。「単位」を「ソビエト」と書かれていることもあります。

 確かにその国家が極貧の場合、「単位」に囲われれば生活の心配が消えるという安心が生まれるかもしれません。しかしそこで生活の全てが供給されると言うことは、個人の選択の余地が無くなり、「自由」は完全に消えます。人権もなくなります。
 そこで働く人達は完全に受動的な行き方をせざるを得ません。それは同時に命令されなければ働かない極端な官僚主義ともなります。その恐ろしいほどの官僚主義はどの職場にも現存しています。
 ソ連崩壊後10年経っても自主的に人生を生きる人が現れなかったことが、私の原稿にあります。
 
「単位」が違えば待遇に差があるのは当然と見なされていましたから、この記事の様な疑問が書かれているのか不思議に見えます。「単位」成立の意義を知らない若年層の方でしょうか。

 現在から見ればこれらの思想は全く非科学的で非人間的・非社会的ですが、50年前までは人類の理想という考えで社会主義が選択されたようです。