林彪墜落から36年目
          文学城 07/09/20 




9月13日は林彪の乗った飛行機墜落事件から36年目である。
1971年9月13日真夜中の2時30分頃、モンゴル東部ベイアルホー 火薬庫の傍に墜落した。目撃した人の話では尾部に火を噴きながら落下したきた。
 モンゴル警察ツワニ氏は現場へ最初に到着した人。「飛行機は3カ所から火を噴いていた。どこが最初に出火したのかも判らなかった」という。「中国民航256号」の文字が判読でき、英国製のトライデント機であった。女性の持ち物に避妊薬が有ったことも判っている。

 夜明けが来て現場の惨状が明らかになった。8人の男性と1人の女性の焼けこげた遺体があった。衣服は全て消失し拳銃とベルトが確認できた。当時の蒙古外交部長のトクスレキン氏は「200キロ離れた蒙古首都ウランバートルから直行したが、遺体が誰のものか確認できなかった」という。
 やがて持ち物から林彪の息子林立果が確認された。飛行機には毛沢東の像飾りがあり、それで飛行機は中国のものと推定された。

 現在の蒙古民主議会議員ケントサンプチンは現場の医療報告書を書いた人。
 医療関係者の意見ではどの遺体も50歳以下という点で一致している。女性の遺体はかなり若く林彪夫人の”葉群”では無いでしょう、と述べている。葉群は当時50歳。

当時蒙古の外交部で翻訳を担当していた人が語る。
「私は真夜中に電話で起こされて役所の”安全部”に行った。そこで翻訳を依頼されたが、それは避妊薬の説明書だった。それが飛行机上の1人の女性のポケットに入っていた」とのこと。
 これから考えると林彪夫妻共に飛行機に乗っていたかが疑問視される。
林彪の息子、林立果の婚約者、張寧は当時葉群は避妊薬を携帯していたと証言している。

 また張寧は次のことも証言している。

1971年9月12日、林彪家で起こったこと。
 一家がそろってテレビを見ていた。やがて林彪は先に寝室へ行った。すると立果が母の葉群と別室で密談。直後皆の前に現れて「明朝7時飛行機で広州に行きます」と宣言。この話に反対したのが、これまでも母とは仲が悪かった林彪の娘の豆豆。豆豆は急いで北京の警衛隊に電話。折り返して周恩来から電話が来て葉群と10分間ほど深刻な会話が続いた。そして葉群の計画は変更となり、数名の親戚と林彪を叩き起こして汽車に飛び乗り飛行場へ向かった。林豆豆は同行を拒否。

  飛行場の様子を見ていた人が張寧に語ったという話では、林彪一族は縄ばしごで飛行機に登ったが、林彪自身は体が弱かったので人の肩に乗せてもらい、飛行機の上から葉群に引き上げられたという。
 飛行機は初め南方に向かい20分して戻ってきて数回旋回を繰り返し、次に北へ向かって飛び去った。その後も飛行機の陰はソ連と蒙古の間を行き来したようで、やがて発火墜落した。この話から行くと林彪家族が乗っていたのは紛れもないようだ。

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   訳者注:
 林彪は建国直後から毛沢東を礼賛する態度を続けた。
林彪だけでなく、周恩来も国家主席の劉少奇も毛主席には反論しなかった。出来なかったと言うべきか。
 日本との闘い、国民党との闘いで、毛沢東は頭格を表すが、その間上司の周恩来を下に置き、党の最大の実力者が国民党に囲まれたときも見殺しにして自分の地位を上げている。

 59年の大躍進政策で4000万人が餓死したときも、それを諫めたのは彭徳懐元帥のみ。彭徳懐はその責で獄入り死亡。
 文革が始まると最初に国家主席の劉少奇が獄死。(詳細は翻訳参照)

 それらの経過を見て林彪は一層毛沢東の忠実な部下を装い暗殺を計画。しかし実の娘豆豆に計画を通報されて国外脱出。途中モンゴルで墜落死
 何故新中国の上層部が毛沢東の「独裁・個人崇拝」を許したのか、それが最大の問題。ソ連も同様な道を歩んだ。
 
 敵階級を殲滅すれば社会に平和と安定が来るとして、法治国家の道を選ばなかったことが主要な原因ではないでしょうか。

 飛行機の炎上原因も現在は未解決。