蕭山の婿取り

07/01/25  南方週末 朱紅軍








 浙江省杭州市蕭山区、ここは全国で最も富んだ街と見られている。
1990年代中頃に万向集団企業が民営企業として最初に市場に登場した。その同じ頃そこで婿入りの現象が盛んに行われていた。

 歴史の変化を見るとき、経済は時に急速な発展を見せるが、思想方面の変化は信じられない位緩やかなものだ。
 この報告は急速に都市化していく農村の人情の変化と発展を追った。

  衣食足ってこその礼節か

 興恵紡績工場の宿舎、そこで最近婿入り後破断した陳安冬さんと会った。法院の記録では、家出でしたとき相手の家族と衝突し傷害人が出たと記されていた。
 
婿入りするときの条件で2万元の外国製バイクを貰った。婚家先は工場から10分程の所。その家は豪華な飾りが着いた別荘であった。結婚後はそのバイクの音を聞くのが楽しみであった。だが直ぐにバイクを盗まれた。
そして離婚。家からも追い出された。

何故結婚したか、彼はそれを一種の悪夢を見たようなものだという。大きな期待と幼稚な幻想。
 7年前大学を卒業し、蕭山に来た。彼は農村出身でそこの雇用は臨時工であった。だがそれでも月に1000元の収入は彼の出身の山西省と比べると2倍以上の収入だ。7年前、そのころ蕭山は全国一の開発、発展を示していた。工場の入り口には大きな門札が掲げられていて、社長の車は外車となり社員の宿舎には空調が着けられていた。こんな贅沢は誰もが期待するだろう。

 1980年代に始まった一人っ子政策で女子が生まれた家では跡継ぎをどうするかで中国全体が悩んだ。

 陳さんは自分の人生を考えた。働き者の嫁を外部から貰い、自分は餅を作って稼ぐ方法。 しかしその人生ははかないものだ。30年働いて家を買い、40年後に車を買い、そしてすぐに一生の終わりを迎える。
 もう一つの方法は入り婿だ。紹介者を通じて婿入りすれば、翌日には都会人としての戸籍が貰える。家は別荘で空調着き。2万元の外国製バイク。勿論気のあった妻がいる。

 だがそれらは幼稚で空しい空想だった。
結婚すると全ては妻の両親が采配を振るった。
 「俺は自分を買いかぶりすぎた。相手のことを全然計算しなかった」と述懐する。
当時は結婚紹介業者なる人は居ず、友達の紹介であった。 
 当地のお見合いは時間的に余裕が無く即断を求められる。とすれば当然「えい・や」の一声で決断となる。
 この土地では婿入り結婚後出来た子供の姓は母親の姓を付ける。そして家庭の経済は妻が握る。妻の両親が常に目を光らせ指図する。

   訳注:中国では原則として子供に男親の姓を付ける。
       妻の姓は変わらない。

 それでも彼は「衣食足ってこそ礼節を知る」と自分に言い聞かせ、”衣食足る”の満足感を高く評価しようとした。
 そして彼の人生設計は破綻し宿舎住まいとなった。
 
 07年1月15日、記者は29歳の李俊林という人に会った。彼は今、1日10元の安宿に住んでいる。
 彼の理論は「綺麗な鳥は止まる木を選ぶ」というもので、入り婿で人生を飛躍させようとしていた。
 ただ彼の心配は自分で終わる姓だけという。その姓は両親がくれた。それを受け継がないのは親不孝かも知れない、と言う考えがある。
 そこで結婚紹介所に頼んで1週間が経つ。だが紹介所は身長が1メートル60では難しい、という。それで半分やけくそになっている。
 記者が写真を撮っても良いかというと「問題ないよ」と了解。その返事は投げやりだった。記事に記載する名前も「お好きなように」との返事。記事になって宣伝の役に立つだろうという。 
 この原稿を出す寸前に彼から電話が入り「新聞に載りましたか」と確認をしてきた。
 
   孫悟空はお釈迦様の手のひらから逃げられない

 蕭山区は面積1420平方メートル、22の村がある。大きな道路が造られ大小の工場が集まっている。見渡しても麦畑は見あたらない。点在する家々は洋風だ。ガラス窓があり綺麗に整っている。
 この土地の情報は「5年連続経済発展全国で7位、浙江省で1位」というものだ。
 ほとんどが民営企業で、その率は98%に及ぶ。1994年に万向集団企業が中国第一の市場に登録され、婿入りも盛んになった。

 新しい時代の息吹を感ずるかと言えばそうでもなく、この10年間女性側の婿への要求は「実直で家の柱になる男」というものだ。それは昔からの伝統で何も変わったものではない。
 
 52歳の張建国さんは機械工場を経営している。4つの家と一人娘がいる。彼はこの区で第一に経営者となった。同時に最初に「一人っ子」を実行した。必然的に家系継承を誰にするかが問題となる。祖先の継続を絶つわけにはいかない。

 もし娘が嫁に行けば老夫婦の将来を誰が面倒見るのか。そこで紹介所に依頼した。もう1年になる。こちらの提供「条件」は優秀だ。家有り、車有り、事業有りだ。
 第一で紹介された相手はほぼ良かった。相手方の親は反対しない。実直で軍役後有る企業で経理をしている。両親とは別居。そこまでは満足出来た。 
 ところがある時娘が夜の12時に相手の男性に電話をした。電話の中に凄い雑音が聞こえ、「今ダンスホ−ルにいる」とのこと。父親が怒鳴った。「今何時と思ってんだ。傍にいる女性の声は誰だ」と。こうしてその話は破断した。

 次に紹介されたのは格好良い長身の青年だった。
 大学卒業して江西省で働いている。先ずメールで条件を確認することになった。
「結婚したら蕭山に来ること、子の姓は妻のものとする、妻の両親と同居する」。これに対し男性から「同意する」との返事が来た。 この返事に対し父親が心配しだした。「こんなに簡単に返事が出来るとは不思議ではないか。相手の親はどう思っているのだろう。自分の系譜が消えるのに」という。
 そこで父親の返答する番になった。彼は逡巡する。人生最大の「一か八かの巨大な投資」だという。「もし狼を部屋へ引き入れるようなことになったら」と悩む。
 簡単には予想不可能な選択を前にして、彼は悩む。「出来ることなら娘の一生を自分が全て按排して行きたい。孫悟空がお釈迦様の手のひらから逃げられなかったように、娘の一生を父親が握っていたい」という。
婿の戸籍を先ず地元に移し逃げないようにする。仲間の工場で働かせ様子を見る、賭け事はダメ、酒は絶対ダメ、煙草は少しだけ。 このような条件を考えて彼は「ゆっくりと決めたいものだ。しかしそれは許されないだろう」と逡巡する。
 「もし相手が怠け者だったら。ああ、何時か相手の者にこの家をやってしまうことになるのだぞ」など、考えることは尽きない。

 蕭山で婿入りする人は大体数が出稼ぎ農民だ。有る村の千人規模の行政村で主任が言う「婿入りする例は工場の在る地方に偏っています」と。
 
 7年前に「結婚紹介所」を建てた李継延さんは「そうですね、当の娘さんの意見はあまり重要ではありません。娘さんは何時も両親の後ろに隠れています。両親が家族を守る、そこで温順、家に閉じ籠もる、伝統を守る、それがこの地方の特色です」とのことだ。

 この土地で記者の採訪を快諾してくれたたった一人の女性がいる。葛清さんだ。彼女は大学時代純真な恋愛を求めた。相手の学生は学生会の副会長だった。才能と輝きに溢れていた。女学生の羨望の的だった。卒業の前年彼女に言い寄ったもう一人の青年がいた。家財が一億元以上有るという。彼女に会いに来たとき真っ赤なスポーツカーに乗ってきた。
 
だが共にその話はうまく行かなかった。それだけの話を彼女は記者に電話で話した。今とても幸福とは言えないので電話でしか話せないと言う。
 卒業後蕭山に戻った。そこで中学の英語の先生をしている。
 彼女は両親が自分を遠くには行かせないだろうという。遠方に嫁に行って追い出された話を幾つも聞いている。彼女の両親の将来は自分しか見る人がいないという。
 彼女の両親の戸籍は農民だ。家はあまり豊かではなかった。そのような環境で彼女を大学に出すため大きな借金をしている。
 この数年地元政府が土地取り上げを連続して行っている。両親の土地も取り上がられて毎月300元ほどの収入がある。だが何時かそれは消える。その時家族を支えるのは彼女の責任だ。それは重責だ。その重責に堪えられるのは一人の男だ。その任に堪えられる男を婿として迎えたい。

 そこで婿として迎えたのがある「一人っ子」だ。
 彼は婿入りについて「愛情があれば問題ない」と言ってくれた。彼とはインターネットで知り合った。彼はシンガポールに出稼ぎに行っていた。海外居留権を持っている。杭州市でお見合いをしたとき彼の見識の広さに惹かれた。中国の古い伝統的家族関係に縛られていないのが気に入った。

     生煮えの関係

 02年陳安冬さんが蕭山で入り婿になったとき、自分でも人生の転換点だと自覚した。 その時は昔と同じように貧乏な村だったが、1年後めきめきと経済成長が始まり、地元政府は高級外車を成功者に譲渡すると発表。しかもそれを獲得した者は8人に登り、街の話題をさらった。陳さんは結婚後勤め先を一度変えたが、賃金はあまり変わらなかった。ただ大学卒業生が次第に故郷へ戻って来た。
 人脈を第一にするその土地で、余所者出身の彼には頭角を現す余地は無くなった。入り婿で現地戸籍を貰った彼だが、入り婿という噂は簡単には消せない。”入り婿会”の一員に迎えられて「まあ慌てなさんな、その内良いこともあるから」とその会の年寄り達に慰められた。

 貧富の差が次第に表面化しだした。隣人が家を建て替えた。彼の妻は「私達の家は昔のままね」と不満を漏らした。
 そして家族の「煙草なんか吸っているときか」との要望で小使いを減らされ煙草代を消された。そうなると職場の友達との付き合いも減る。
 土地の経済急成長は、住む人の欲望も変化させる。貧しいところは一段と寂しくなり、富む家は一段と派手になる。入り婿にはそれが堪える。
 
 葛清さんの場合シンガポールから戻った婿は初め意気揚々だった。結婚に際してはお互いに両親の名前さえ教えなかった。二人の間は「生煮えの食事」のように、了解が少なかった。良く噛み込まれていなかった。
 葛清さんは夫が事業で成功することを願った。
 04年、シンガポール帰りの夫は臨時工として採用されていたので賃金は低かった。それを不満に思っていたとき、投資をして成金になった人が居ることを知り両親から一生掛けて貯めたお金20万元を借りた。
そのお金は何の手応えもなく消えていくばかりだった。
葛清さんの母親が新聞紙上で入り婿が婚家から大金を借りて逃げていった話を読んだ。そこで母親が入り婿に出資金の按排を尋ねた。そのとき両人の間に激しい衝突が発生した。
 娘が生まれた。経済状態はさらに悪化した。赤子に飲ませるミルクや着物などが隣人と比較されることが目立って多くなった。

 葛清さんは以前と気持ちが変わったわけではない。しかし両親の方はそうは行かなかった。親の顔は次第に険しくなり、世間の良いことを捉えては「我が家の婿は」と指摘するようになった。
 夫はついに決心して故郷へ帰り、自分の親の援助を借りに行くと言い出した。
 葛清さんも彼女の両親も「それは良いことかも知れないが、必ず戻ってくれますか」と心配して尋ねた。

最近では夫婦と子供だけの家庭が増え、老夫婦も一緒に住む家庭は少なくなっている。しかし入り婿の場合は別だ。そこでは中国伝統の家族形態が色濃く残っている。

 地元の法院に聞くと、若夫婦と老夫婦の価値観に大きく開きが出来ていて、入り婿の立場が弱いのは明確で、そこで衝突が起こると簡単には解決出来なくなる、と言う。
 地元では結婚後親元を離れることが多いがその場合でも子供は親に預けることが普通だ。その家族意識の濃厚な関係に助けられて地元の私企業が急速に拡大する土壌を作ってもきた。

 勿論当地で入り婿の家庭で上手く行っているところもある。その場合お互いに相手を尊重するような空気を作っており、そこには比較的高い学歴があるようだ

 安明という人の場合、上手く行っている一人だ。
 彼は安徽省で大学の機械科を卒業し浙江省の万向集団企業に入り、順調に中堅幹部に登った。
 彼は自分の場合特例だと言っている。その理由とは、老夫婦が良い人で、彼の仕事が順調に発展したこと、その結果家庭でも発言権が拡大したという。
安明さんが学生時代の冗談は「嫁に行く人は楽で、嫁を貰う方が大変だ」と言うのが流行っていた。そんな言葉に刺激されて彼は入り婿を選んだ。1997年のことだ。婿入りの条件で、相手方の住宅はあまり良くなかったが、家族の係累が将来に有利だと判断した。
 彼は「入り婿という形態、若者には好条件です。一挙三得でしょう」と言う。そして家婚して10年で中国の封建的な男性中心の社会で何が必要かを掴みそれを手に入れた。

     子供の名前をどうするか

 地元の「入り婿会」で外地から当地へ婿入りしている人が最も嫌がる話題は「貴方は外地の人ですか」で、もう一つは「貴方の子供の名前は何ですか」というものだ。

 有る村の学校の蘇という先生の場合、子供が生まれて家庭騒動が始まった。子供の姓をどちらにするかだ。話がまとまらず離婚にまで行きかけた。そこで妥協案として両家の両方から文字を選んで姓名を決めるか、「日本人の姓名」を選ぶかで妥協することになった。

 安明さんの場合結婚は順調に過ぎたが、子供が生まれたとき、やはりその名前の決定では悩んだという。その解決に考えた方法は、子供の名前の1つに彼の姓を入れたと言う。
 
 入り婿を決心した人達はその出発時は「二人の愛」だけが重要だと自分に言い聞かせたようだ。だが実生活では「男性中心の思想」が強烈に残っており、女方の家系尊重か男方の尊重かと言う選択に当面し、それと闘うことに誰もが相当神経を使ってきたという。
  
陳安東さんの場合結婚の最初は妻から「子供が出来たら貴方の姓にしましょう」と言ってくれた。だが実際には女方の家族に押し切られ妻側の姓に決まった。彼は敗北だと感じた。それ以来彼は自分が飼い犬で自分の尊重など存在しないと感じるようになった。
 親戚が集まった酒席で子供扱いされたこともあり、身だしなみについて露骨に嫌みを言われたこともあるという。

 そして決定的なことが起こった。04年6月に彼の叔父さんが亡くなり直ぐに葬式に行こうとしたら、妻の両親に「そんな必要はない」と言われた。妻から貰っている小遣いは少しで、葬式に送る金も無かった。ついに彼は切れた。「これでも俺は一人の人間か」と。

 この例に反して従順に従うだけの人もいる。徐愛民さんだ。入り婿に入るとき彼は姓も女方に変えて良いと応えている。そして何の衝突もないかに見えるほど従順に過ごしているように外観は見える。
 記者が家庭を訪問したとき、家の中では言葉数も少なく、その言葉もあまり適切には表現出来ない質の人だ。ところが記者がその家を去る時駅までの路20分程を送ってくれたが、その道で初めて彼の本心を聞くことができた。
 その道すがら近隣の人達に出会うのだが、彼は俯いたままで挨拶の言葉が出ない。そして「私は孤独です。周囲の人と上手く付き合えません」と小声で教えてくれた。
 
この人は外地の農村から来て、学歴が少し低く、職場でも特技が無く、食べるだけが趣味で、博打に手を出したら止まらないという悪癖を持っている。入り婿で「男らしさ」を抹殺された典型と言えるのか。
 懸命に貯めた小遣いでバイクを買いそれを修理しているとき、周囲の人が「あいつは食いしん坊だ」と言っているのが聞こえた。そんなことがあっても、彼はただ耐えようとしているという。
定時間で帰れる仕事があり、食べることが何とかやっていける、「大事なことは妻の両親が決める」、そのような条件でも、「何とかやっていきます」と話してくれた。

 彼の故郷は四川省だ。結婚後3年、まだ帰ったことがない。
 遠方で旅費が高いので両親に言いにくい。それと妻が「あんな田舎へ行くと私なんか便所に行くことも出来ないわよ」と拒絶されているのだ。肥だめの上での便所は考えただけで嫌だという。

      誰にも変えられない習慣

 結婚紹介所の看板に「見合い→恋愛→結婚」の3段階の図が画かれている。中間の恋愛過程が重要です、ということを強調しているという。
 05年初めに浙江省杭州市「青年報」新聞が「富かな家庭が婿を求めるが良い若者を掴みにくい」と言う記事で報道した。

 当地で入り婿は普通の習慣となってはいるが、しかし同時にこれまでの観念との変化が見られるように現地の人は感じているようだ。
 紹介所の楊麗さんも流行の入り婿が本心は「愛」を求めているのか、それとも「安住地」を求めてくるのか悩んだという。
 数百人の応募者の中から8人の釣り合いのとれた組を紹介した。
 男は外地の人で学歴が高く実行力もあり、経済的に困っている人。女方は家庭が金持ちで望みが高く、学歴はあまり無い。そして富と学の結合で一層の発展を望んでいる、これが一般と見えた。
 だが2年経過してもその8組は結婚まで進まなかった。何故か悩んでいるとき次のような記事が報道されて「なるほど」とその理由が分かったという。

 記事には「1年で20組の入り婿の離婚が発生。法院が警告を発生」と記している。
 法院に申し立てた離婚請求の男達の誰もが届け出た電話番号は使われていないものだ。
 一旦家族との争いが始まるとこの地には居られなくなるようだ。
 
 法院が離婚届の調停をする最初に「もし離婚が成立したら貴方は食っていけますか」、と尋ねる。するとその答えは現地では無理です、と誰もが言う答えだった。
 ある入り婿が離婚を要求されて、法院に駆け込んだ翌日、離婚後は生きてゆけないことを知った婿は女方の家族を全て殺しに行った例があるという。

 有る法官は言う。「二人の間の感情は大切です。でも何が起こっても身から出た錆として覚悟して欲しい」と。

 陳安冬さんは離婚を請求されて1年間争った。そして離婚の補償として6000元を受け取ることになった。
 離婚成立後も同市で働いているが、何時誰に襲われるかも知れないとして毎日が緊張の連続だという。
そして女方について語り始めると憎しみがドットあふれ出す。
 「俺は婿という名前は貰って表面は大事にされたと言うがその実、結局は向こうの家族系統を絶やさないための”男”の道具にしか過ぎなかった」。
 入り婿になる誰も、結婚後何とかなると予想して決心する。しかし何年経っても、誰も同じ運命を辿る、とも言う。

 記者がこの陳さんに話を聞かせて貰ったのは彼の住む小さな安宿の近くのホテルで、彼に食事を提供しながらだった。彼はホテルの老夫婦を指さし小声で「あの夫も入り婿で、上手く行っている様ですね」と語ってくれた。 
葛清さんは夫と別居状態が続いている。最近夫に電話をして離婚を請求した。外地に戻った夫は経済的に恵まれてきたようで、この話はうまく行くだろうと推察している、とのことだ。

 市政府担当者の話によると、入り婿の流行に乗って話が決まった初期の頃の人に離婚が多いという。「最近は男側が慎重になっているので、離婚も減るでしょう」と言う。
 
 この記事の最初に登場した李俊林さんは結婚紹介所で希望する女方の家に手紙を書いた。「自分と自分の家族について故郷の公安に人品を調査して貰って下さい」と。自分は信用出来る人間です、と追加した。
 彼が後日知ったのは女方が紹介所に対し「あの男は老夫婦と子供の面倒を見ると約束していましたか」と聞いてきたことだった。

「金の卵紹介所」と書かれた結婚紹介所。今も商売繁盛この上ないという。男側の申込書の中からその出身を拾わせて貰うと、大学教授がある、博士、修士もある、外国の留学生もいる。この申し込みの多いのを見て、経営者の李継延さんは「世の中が動いているようで、しかし全く変わっていないとも言える現象です」と語っている。
 見合い→恋愛→結婚 この額縁の文字が「愛情が大切ですよ」と語っているのか。


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 訳者注:
 この記事の最初に掲載した写真で見る農村の様子に驚かれる人も入るでしょう。
 ガラス窓付きの洋風の建家。これが太平洋側の発展した農村の風景です。現在は市に登録。少し内地になるとこれが人間の住む家かと思う内装無しの家、或いは洞窟の家になります。
 そしてさらに驚くのがこのような個人の生活詳細に迫った記事が発表されることです。
 建国後の40年ほどは個人の人生を追求することは「ブルジョワ」として指弾されるため、誰も求めなかったし、報道もされ無かったのです。
  中国全体で”個人”の充実などの追求が許されなかったことで、個人の尊重、人権の尊重、或いは社会道徳、そのような思想が発展しませんでした。
 さらにそれに追い打ちを駆けて社会の発展を押しとどめているのが、「農民の戸籍」という縛りです。
 それと「一人っ子」政策でしょう。そこに家系を絶やさないこと、という封建思想。
 さらに親が歳を取ると年金などの社会保障がないため子供に頼らざるを得ないと言う政策上の欠陥。幾つもの壁が厳存しています。

 何処の家庭も、勿論都会でも、生まれた子供が女の場合深刻な状態となります。

 建国後50年、個人の精神的内面の充実が許されなかったので、今それが社会的矛盾としていろいろな形で表面化してきています。その方面の成長が広がれば、やがて国家が誰のためにあるのかが表面化してくるでしょう。