彼女の安全は私が責任を取ります

07/05/08 南方週末 
 安徽省「完江晩報」女性記者 瀟然

 昨年の6月のこと、私が農業関係の新聞記事を書いているとき知人から電話が来た。するとその電話の中にドカンと言う大音響とそれに続いて消防車や救急車のサイレンが伝わってきた。電話の相手も「これは何か大事件だ」と叫んでいる。私は電話が終わると同時にカメラと鞄を持って外へ駆けだした。

 鞍山村の化学工場に到着したとき、そこは見渡す限り人だかりで一杯だった。工場の入り口は守衛や警察関係者が厳重に出入りを止めている。
 工場の関係車だろうか、大きな門を通り抜けよとするのを見つけて、その車と一緒に通り抜けることが出来た。内部は人の群れが少ない。ところが、その内側にさらに厳重な門があった。
 一人の血だらけの女子工員が男性の肩に掴りながら出てきた。消防車や救急車や、トラクターのような車も次々と中へ入っていく。
 傍の人に聞くと、10分程前に工場内で化学薬品の大爆発が起こったと言う。
 しかしそこから中へは厳重に守衛達が守っていて誰も入れない。私がカメラを出すと直ぐに守衛が飛んできた。「貴様は何者だ」と凄い剣幕でカメラの前に立ち塞がる。周囲の工員が「この人は新聞記者ですよ」と言ってくれたが、私を取り囲んだ体格の良い守衛達は体当たりのようにして私を追い出そうとする。
 私は近々発行される「新聞報道の自由」の法律文を彼等に示したが、全く見ようともしない。私はきっとした顔つきになって「貴方は私の採訪を阻止する権限がありますか」と叫んだ。
 すると守衛の中の一番若そうなのが、真っ赤な目をしながらかすれ声で叫んだ。「私の家族がまだ爆発現場にいます。生死が解りません。私は本当のことを知りたい。でも上司が誰も入れるなと命令しています。もし入れたら私の責任が!」と悩んでいる様子。
 その間も守衛達が私を追い出そうと力づくで後ろへ戻そうとする。見ていた周囲の群集が守衛と私の間に入ってきてくれて、「新聞記者を中に入れろ、お前達は阻止する権利があるのか」と叫びだした。
 その隙を狙って私は数枚写真を撮った。すると守衛が力ずくでカメラを取り上げようとする。それを又群衆達が間に入って救ってくれた。守衛の一人が「現在工場が混乱している。だから記者を入れると危険なのだ」という。
 一人の老人が「この記者の命は私が責任を持とう」と言ってくれた。しかし守衛達は全く取り合わない。

 しばらく揉み合ったが工場へ入る望みはなかった。病院関係者の知り合いが居るので救急車に乗せて貰う方法も考えたが、それも不可能だった。
 すると先ほど守衛から私を守ってくれた一人の男性が「中へはいる道は他に一つあります。でもちょっと女性では無理かな」という。
直ぐに私は「その道を教えてください。」と頼んだ。
 その工員が教えてくれたのは小さな水路が走っている細道で20分程急ぎ足で歩いた。空気が熱くて私の身体中汗でびっしょりで喉もからからになった。新しく買ったサンダルまでが破れだした。途中一軒の家を見つけて「すみません、少し飲み水を貰えないでしょうか」と頼んだ。するとそこの主婦が「確かにここを通って工場へ入る道があります。しかし茨の道で貴女のその脚では通れるかな」と心配顔。
 そしてその家の子供用の運動靴と脚を隠すズボンを持ってきてくれた。
 その主婦の案内で工場を囲んでいる茨の垣根を乗り越える為に木をよじ登ったりして、中に入ることが出来た。
 工場に入って爆心地に近づいた。硝酸の匂いが強く鼻を打つ。コンクリートの上は血だらけで、散らかった靴や帽子や軍手などにも血が着いている。場内搬送車は奇妙に変形している。写真を多数撮った。

 この事故で14人が死んだ。2人は行方不明のまま。20数人が重軽傷。
 私は現場の事故を記録し、この事故がついに報道された。それを可能にしたのは「この記者の命は私が責任を持つ」と叫んでくれたあの老人や群衆のお陰だろう。この言葉を思い出すと私は感動する。
 「大衆の知る権利」が私達第一線の新聞記者を鼓舞しているのだ。

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 訳者注:

 新聞の役割は政治宣伝で、もし報道の自由を許したら、ブルジョワの意見が世論を動かすだろう、と言うのが社会主義中国の考えです。そうして報道の自由は許可されなかったのです。
 1999年私が大連にいた頃、中国人の学生が教えてくれました。
「各都市で発行されている朝刊は党の宣伝だけなので面白くないでしょう。”***晩報”という夕刊なら少しは事件が解りますよ」と。
 確かに各都市の朝刊は「人民日報」とほぼ同じで毎日起こっている事件は書かれていません。
ここに書かれている「完江晩報」は夕刊です。(完の左に白の扁が付く)
 工場の爆発で家族が死んでも、”何故、何人が死んだのか”などが、誰も解らない国家が50年以上存在してきました。
 国家が主で人権は従、と言う思想です。

 次は我が家に出入りしていた中国の学生が教えてくれた話です。1993年に揚子江などで大氾濫があり、物的人的被害が出たとき、党は大衆を集めて「この混乱を利用してアメリカや日本が反革命を狙っている。皆で闘争心を盛り上げよう」と革命歌を歌ったそうです。大衆の気持ちは家族の命や家屋の損害だったのですが、当時は党の命令を馬鹿馬鹿しく思いながらも従ったそうです。勿論報道の自由などありません。

 考えてみれば私に都市の夕刊を教えてくれた学生は、何故中国の新聞が異常なのか理解したのでしょうか。彼等は社会主義中国で生まれ育ったのに。
 
 そして新しい「報道の自由の法律」ができることを知らない大衆が、何故このように権力に抗して記者の見方をするようになったのでしょうか。
”家族の生死を知りたい”という切なる願いがあってもこれまでは報道されないことに慣れていた大衆が、この記事のように大きな変化を見せています。 ”

 これまでの報道関係者と言えば、党の命令だけが重要でそれを大衆に下ろすことだけを使命としてきたのに、何故こうも命を賭けて報道する気になったのでしょうか。

 正に報道の最前線の姿がここにあります